不思議系小説 ニューシネマ・パラダイスシティ

ダイナマイト・キッド

第4話 ニューシネマ・パラダイスシティ

 赤潮

 寄せては返す波打ち際を赤く染めるほどの微生物の死骸

 それに群がる小魚の群れ

 それを狙う肉食魚

 それは俺の血管の中で寄せては返す小さな命の群れ。細胞、血液、精液、精子、ミトコンドリア、核

 血潮


 今日も俺がどうかしていることを確かめるためだけに書き続けた日記がある。すっかりくたびれた表紙に、かつてなんていうタイトルを付けたのか、もうわからない。もう思い出すこともないのだろう。子供の頃に覚えた歌をいつの間にか歌い出すようになるまで書き続けた日記だ。歌も過ぎた日々のことも子供の頃のことも忘れてしまった。ただここに黄ばんで擦り切れた日記帳だけが残っている


 加速する鬱屈。浮遊する赤潮。微生物の死骸が海面に集積するように鬱屈は鬱屈を引き寄せる

 見て下さい私の惨状を! 

 今日も電子の往来で問われもしないのに誰かが語り始めると、あちらこちらで惨状の見本市が始まる。人生の産廃処理場のような光景だ。惨状廃棄物、惨廃だ。自分が一番惨めで廃れた人生でなければ決して納得しない、不幸に依存した厄介な連中。硫酸に漬けた脳があぶくになって溶けてゆくように消えたいと望みながらも、しかし最終的に自分だけは都合よく助かりたい、全てにおいて報われたい、身勝手にまとった悲劇から劇的に救われたいと願っている。他人の不幸で自分の価値を計る癖がついていて、見積もりの結果が芳しくないとさらなる惨状をひねり出す。そうして自分は身も心もボロボロだということになってゆく。事実は後から付いてくる。そうして念願のぼろきれのような人生を手に入れた頃には、すっかり年老いて放っておいても死ぬ。今度はそれが何より悲惨で怖いのだと喚きながら、オールドタイマーの悲劇屋は惨めに廃れて打ち捨てられてゆく。それこそが惨状廃棄物。惨廃処理場の片隅で


 もうわかったから、どいつもこいつも黙りやがれ!

 キーボードを幾ら強く叩いても、画面に拳をぶつけても、奴らは黙るどころか自らの望む反応にだけ貪欲に食らいついて生き生きとしてやがる。お前の感謝も、不幸も、多忙も絶望も過酷なシフトも、自称気狂いの演説も、何もかもウンザリだ。毎日毎日毎日毎日飽きもせず同じような愚痴ばかり言っている奴が嫌で色んな人と距離を取ったのに、気が付けば種類が豊富になっただけで立場は同じか、いい顔をしなくちゃならない連中が増えた分だけ悪化してるんじゃないのか。地獄の奥底は極寒でも灼熱でもない、生温くて抜け出す気力が失せることが地獄の末期症状なのだとしたら、今がそれなんじゃないのか


 お月様が壊れているんだよ、と小さな子供が言った。3歳男児の脳内で崩れてゆく赤い月の破片を拾い集めていると、自分も無邪気に戻れた気がする。言った本人はそんなこともすっかり忘れて、9インチの線路のうえを走る寝台特急に夢中になっている


 遠ざかる君は砂浜を蹴って。よく晴れた日の午後に

 女が近づく足音。積み上げた本と本の間からそびえ立つマイクロフォン。高鳴る鬱屈、増えてく憂鬱、早まる躁鬱、助かった。水たまりに映る青空に浮かぶふわふわした雲が集まって、どんどん曇ってゆく。空も心も

 手を伸ばせば空深く沈んでいく。どこまでもどこまでも落ちてゆく。逆さまになった景色が次々と流れていって、それはどれも見覚えのある街、人、涙、嘘、星、欲、恋、硫酸に浸されて溶けてゆく脳髄。海沿いに立ち並ぶコンビナートをまっすぐに貫く真新しいバイパス。波も無く澱み切って深緑色が少し土混じりの赤茶を帯びた嫌な色の海面に浮かぶ巨大クラゲの群れ


 小さなアンプをキリキリ鳴らして生きてる。安物の、ありふれた機材がちょこっとだけ置かれた狭い部屋が世界の全てだと思っている無名のバンドマンが今日も薄暗い防音室でお決まりのナンバーをかき鳴らすように。誰も彼も似たような経験や人生訓を持っていることに味をしめて、共感を集めることに夢中のまま結局誰にもならないで死ぬ。誰とも彼とも同じような墓の下で、お決まりの鎮魂歌を有難がって眠りにつく。死ぬまで、そして死んでからも誰かと同じでなきゃならない難儀な人生


 何を言っても誰かと同じだと嘲笑するなら、最初に言った奴を探してここへ連れてこい


 古い振り子時計が突然動き出した。壊れたとばかり思っていたのが急に停まっていた時間を取り戻そうと狂ったように鳴り続けている。ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン。止まらない時の呼び声が目覚めさせる赤と黒のまだら模様で真っ黄色い足を無数に生やした密林の猛毒ムカデが記憶を食い荒らし肥大化してゆく。それは右の耳から入り込んで渦巻の途中から内壁を食い破り、激痛の麻薬を垂れ流して進む。童貞どもの脳髄に染みついた遠まわしな性表現や青臭い言い回しがクチャクチャと咀嚼されて消えてゆく


 忘れてしまえるものならば

 やがてさらなる痛みが痛みを麻痺させ続け、その繰り返しの結果としてお前の悲惨な過去を、それほど辛い思い出でも無くしてくれる

 美化されたトラウマ、ひけらかす心の傷痕、見せ痘痕。

 左耳から這い出ようともがく肥満体の猛毒ムカデの足が千切れて、零れだした黄ばんだ半透明の体液を浴びた海馬が悲鳴を上げて溶けてゆく


 黒装束。真紅の手袋。星座を一つ一つ引きずり降ろして叩き潰したり握り潰したり。アルビノのジェミニは外科手術の賜物だと聞かされた推理作家が言った

「昨日、暗い空の下で」

 珍皇寺の井戸をのぞき込んで小野篁に往復ビンタをくれてやれ

 所詮この世は生き地獄、とつぶやいて煙草盆の煙管を吸い込む老婆。その奥で糸車を引く老婆が合わせ鏡で無限に並ぶ。老婆の背中にひとつひとつペンキを垂らしたモザイクアート。青、赤、青、赤、緑、緑、黄色、黄色。やがて充満したペンキに煙管の火が引火して吹き飛ぶ老婆、千切れる老婆、燃え上がる老婆、黒焦げの老婆。爆発四散した老婆だったものを繋ぎ合わせて出来上がったモザイクアートに虹色の経血を垂らす腐ったポメラニアン


 炭酸飲料の赤いボトルのなかで音もなく弾けるあぶくになりたい。透明な世界の向こうには酸素と窒素と二酸化炭素とほんのわずかアルゴン。自ら作り出したディストピアに疲れて、妄想の世界に閉じこもった。やがて脳や血管や肺が劣化し、あらゆる回路が壊れ、自分で自分を維持することが出来なくなるまで、幻覚の精神世界を見続けて幸福に暮らすことになった。肉体が滅んだあとの精神世界には暗闇だけが広がってた

 残ったのは無数のあぶく


 脳内岬。その突端にぽっかり空いた階段を下りてゆく。冷たい石畳。揺らめく蝋燭の火。地下の暗闇に吸い込まれてゆく足音。どのぐらい歩いただろうか。やがて石造りの地下道にところどころ生々しい臭気を放つ肉のような筋のようなものが見え隠れするようになった。それは分厚く冷たい石の隙間で脈打って、まるで生きているかのように微かな伸縮を繰り返していた。やがて階段を降りきるとそこは暗くて天井こそ低いが結構しっかりした地下道が左右に伸びていた。無数にあるうちの出口の階段の、その一つがこれだったんだ。なるほどそうか、と独りごちて右手に向かって歩き出した。何となくそれが順路のような気がした。やがて唐突に通路が終わり、その行き止まりには頑丈な石造りのテーブルと椅子。さらに熱された鉄板と、その向かいにはでっぷり太って丸眼鏡がこめかみに食い込んでいるシェフが立っていた。椅子に腰かけてテーブルの傍らに目をやると、見知らぬ男の生首がまるで調味料の入った小ビンのように置かれている。短髪に白髪の混じった中年男性のそれは左目と鼻のほとんどがそぎ取られ、歯もいくつか抜かれている。太ったシェフは何も言わず、その生首の右の頬肉をナイフで切り取って鉄板で焼き始めた。虚ろな、というかむしろとっくに死んでいると思っていた男の生首が、自らの頬肉が焼けた鉄板に押し付けられた瞬間に地下空間いっぱいに響き渡るほどの悲鳴を上げ始めた。空っぽの左目から涙を流し続ける男を見ながら、目玉がないと涙ってこんなに勢いよく出るものなんだ、と驚いていると、太ったシェフが白い皿にサラダを盛りつけ、その上によく焼かれた肉を乗せて私の目の前に置いた。生首の悲鳴はやんでいたが、残った右目でこちらをじっと音がするほど凝視している。食うのか……? 食うべきなのか

 私はフォークを恐る恐る取り、肉に向かってそっと差し込んだ。じゅわっ。薄紫色をした半透明の肉汁がしみ出てきて、何とも言えない匂いを漂わせる。これを食うのか……? 食うべきなのか

 太ったシェフは満足げな顔をしてこちらの様子を窺っている。顔はニコニコ満面の笑みだが明らかに目が笑っていない。人殺しの目だ。危険な奴だ。コレを食ったら最後、私も殺される!

 そう思った瞬間から指先が、手が、腕が、肩が、そして全身がガクガクと痙攣を始めた。もはや肉を食うどころではない。いや、この肉は絶対に食べてはいけない! 強く確信したのと同時に勢いよく席を立った。ナイフとフォークを手に持ったまま強く机をたたいて立ち上がったため、がたーん! と大きな音がした。そしてその音に驚いた顔めがけて投げつけたナイフがシェフの左目に深々と突き刺さった

「あぎゃあああああああああああああああああああ」

 と凄まじい悲鳴を上げ、流血しながら暴れ狂うシェフを置き去りにしたまま走り出した。薄暗い地下道の地面で脈動する謎の管に足を取られながらとにかく出口を探して走った。後ろから相変わらず悲鳴を上げながらシェフが追ってきていることが直感的にわかった。逃げなければ。さもなくば次の客に振舞われる人肉ステーキは自分だ。いつの間にか床にはトゲだらけの鉄の枝が伸びてきていた。ふくらはぎや太ももを切りながらなおも走ると、今度は背後でズズーンと地響きがした。どうやらこちらもトゲだらけの鉄のツタが絡みついた円柱が倒れてコチラに向かって転がってきているようだ。階段室を見つけて飛び込んだそのすぐ後ろで、ふたたび

「ぎぃやああああああああああ」

 と断末魔が聞こえた。それは遠ざかったり近づいたりしながら何処かへと去って行った。恐らくあのシェフが円柱に踏みつぶされ、鉄のツタに突き刺さったままゴロンゴロンと回っているのだろう。想像するのもおぞましい。相変わらず床がトゲだらけの階段を必死で昇ってゆくと徐々に灰色のコンクリートが見え始め、やがてお馴染みの冷たく殺風景な階段が少し続いたと思ったら、ぽん、と音がしそうなほど呆気なく外に出た

 そこは夕暮れて、四角いレンガ造りの下り階段以外に何もない小さな島だった。周囲の海も西日を浴びてオレンジに染まり、潮騒だけが穏やかに繰り返していた


 その日、知多半島は沈鬱な雲の下だった。衣浦大橋を碧南側から渡ってすぐ左へ。神社を中心とした古い街並みと高度経済成長期に建てられた工業団地とが入り混じり、その向かい側の埋立地には自動車の部品工場や商業施設が立ち並ぶ。そんな中、まるで時代に忘れられたような社員寮の古いビルヂングが青空の下にヌボーっとそびえ立っていたのはつい三日前のことだった。私は不意に訪れたこの街並みに興味を抱き、午後からの半日を使って国道247号線を南下してみることにした。先日と打って変わってこの日はどんよりとした天気だったが暑くも寒くもなくかえって快適だった。ただやはり気圧が低いのか濃密な潮の香りが漂っている

 見知らぬ街を走りながら、その生活を垣間見るのが好きだ。今ここに私がいる事を知っているものは誰も居ない。だが私はここにいる。通りすがりを気取りながら店や団地やビルの前を走りながら考える。ここで暮らしていたら、日々どんなことを感じているのだろう、今頃何をしているのだろう、どんなことに悩んでいるのだろう。今と大して変わりゃしないだろうか。ファミレス、コンビニ、カーディーラー、不動産屋。変わり映えのしない道路沿いの景色に溶け込んだ見知らぬ街の生活感を炙り出すように見つめていく。アイスクリームショップ、居酒屋チェーン、クリーニング。何でもある。ちらほらある個人経営の会社や商店。高層マンション。ピザ屋の店先にバイト募集の張り紙、電柱に貼られた地名、青看板の行先。やがて道路標識の指し示すとおりに247号線を進んだ先には、古い神社と民家を押さえつけるように立ち並ぶ化学工場。細い路地の向こうには保育園があるらしい。鎮守の森の遥か上にそびえ立つ巨大なタンク。その最下段にパイプを繋いで何かをいっぱいに満たしてどこかへと走り出すタンクローリー

 すぐ目の前に迫った山肌を縫うように広がる穏やかな里山の集落。道路一本向かい側には巨大な工場、そのさらに向こうには湾内の穏やかな内海が広がっている。遥か靄の彼方には渥美半島の蔵王山や風力発電の巨大な風車がかすかに見える。高くて分厚い堤防沿いにひたすら走る。途中、どぎついオレンジの歩道橋をくぐってさらに南へ。だんだんと建物も減り、畑や里山が広がってくる。視界の半分は海で、もう半分は緑。その真ん中を片側一車線の247号線がゆらめきながら貫き伸びてゆく。遅い午後の黄色い光が分厚い雲を通って何とも言えない色合いの空になる。その下に海岸線までビッシリ並んだソーラーパネル。遠くで揺れる穏やかな潮騒のにおいをヒョウと吹く少し冷たい風が運んでくる。この曇り空のどこかで雲雀が鳴いている

(ああ、天国旅行に来たんだ)

 やがて海の表情が変わり、入り組んだ地形と曲がりくねった狭い道を辿って行くと師崎の港町に着く。フェリー乗り場まであと少しだ。お祭りが近づいているので、道路のあちこちに看板や幟が建てられている。道路というよりは路地と呼ぶべき狭い道の奥に、きっと神社があるのだろう。この海と空と暮らす小さな町を見守り続けた古き時代と今を繋ぐ千年の扉

 殺風景な3階建てのアパートのベランダには洗濯物。黒ずんだ木造のお屋敷の生垣の向こうから豆腐屋さんがのんきなラッパを吹きふきやってくる。子供たちのはしゃぐ声がする。バタバタと軽く楽し気な足音と共に、あっちからこっちへ。こっちからあっちへ。側溝のコンクリ板からこっちがベージュの地肌、向こう側が褪せた紺色のアスファルトになった古い路地をくねくね辿って、朽ちかけた神社にたどり着く。鎮守の森がぽっかり途切れたところに素朴な鳥居。その石のゲートをくぐって薄暗い夕闇のなかを歩く。境内に人は居ない。社務所は窓ガラスが割れ、引き戸の曇りガラスは苔むして、長らく手入れがなされていないことを無言のうちに示していた。平屋の一番奥にドアがあった。これだけは真新しく綺麗なままだ。他のくたびれきった風景から浮き上がるように佇むそのドアの誘惑に抗えず、吸い込まれるように前に立つ。右手を伸ばし、ドアノブを回す

 ガチャリ

 お馴染みの音がしてドアノブが回る。ギィィ、と軋んでドアが開く。白い光が漏れてきて私を包む。左足を踏み出すとそのまま自分も光になってしまいそうだ。やがてドアの向こうに消えてゆく姿を見ていた私は確かに私だが、消えていったアイツは一体誰だ


 平日の真昼。すぐ近くを豊橋鉄道渥美線がガタタンとのんきに走る音がする。用水路上に建てられた細長い5階建ての商業ビルの3階から上が団地になっている、その何処かの部屋に私は居た。何もかも懐かしい。水色のカーペット、陽射しに揺れる白いカーテン、風に乗って聞こえてくるチャイム。そのチャイムを本当ならば教室で聞いているはずの時間。私は彼女とよくここに居た。この音がするたびに、いけないことをしている自覚が芽生えて猶更ふたりは固く結ばれた。彼女はブラジル人で、両親の出稼ぎに連れられて転校してきた。私はクラスのはみ出し者で、学校にも家庭にも居場所が無かった。遠くの国の匂いのする部屋が彼女の自宅で、いま見渡せる宇宙のすべてだった。何もかも懐かしい。その部屋の中に見覚えのないポスターが貼りつけられていた。それは地下鉄の駅に立つ二人組の女。青く透き通るような髪の毛をショートカットにしてオデコのところでぱつんと揃えた痩せ型で背の高い女。その隣にはもっさりした黒髪を肩まで伸ばし、分厚いコートに隠れるように立つ背の低い眼鏡の女

が並んでこっちを見ている。二人の足元にはこの映画のタイトルが書かれていた

 サブウェイより愛をこめて


 2000年代のいつかの東京

 雨

 午前2時


 地下街へ続く冷たい階段を降りる二つの足音

 青く透き通るような髪の毛をショートカットにしてオデコのところでぱつんと揃えた痩せ型で背の高い女。その隣にはもっさりした黒髪を肩まで伸ばし、分厚いコートに隠れるように歩く背の低い眼鏡の女

「スミレ」

「なあに」

「髪の毛濡れちゃったね、綺麗な青なのに」

「いつものことさ、東京は昨日も明日も雨だもの」

 フジタ・スミレは自慢の青い髪を濡らした雨水を乱暴に払って、構わずに歩き続けた。背の低いほうの女にその水滴がばらばらと降りかかったが、こちらもそれには構わないといった様子で後をついてゆく

「あっ、ごめんアカネ」

「いいの」

 ナツ・アカネはそう答えて、髪の毛についた飛沫をそっと撫でた。ついでに眼鏡のレンズをコートの袖で拭っているうちに階段を降りきって地下街へ出た


 真夜中だというのに、いや、このご時世では真夜中だからこそ乱雑さを増している地下街。歩き回る人々はみな昼間の世界では生きる場所のないはみ出し者たち。地上に降る雨水のせいで地下街の地面は四六時中濡れている。その湿気と人の息遣いが充満する低い天井の往来に光るネオン、松明、アセチレンランプ。旧時代の使えるものは何でも使って営む太陽を失った人々のくらし

 ひどく弛んだ身体と黒ずんだ歯の奥からひどい臭いを撒き散らしている大柄な女が、ピンクのシャツと粗末なジャージで歩いている。その隣には気まずそうな顔をしつつも頬を紅潮させている下層労働者。安い夜を買うのだろう。二人は道路沿いに並んだ鳥小屋のような木賃宿に入り込み、すっかり傷んで隙間の広がった壁にも天井にも構わずに折り重なった。黄ばんだシーツに醜い女を押し倒し、垂れて伸びた乳房を鷲掴みにして貪る薄汚れた男。やがて悪臭と虚しい温もりの中に避妊具もせずに滑り込む瞬間、すでに全ては終わっているのだ

「やめなよ、スミレ」

 アカネがスミレの背中をそっとつつく。指先ではなく人差し指と中指を揃えた腹の部分で撫でるように。いつも薄着の彼女の下着の感触がしっかりと伝わって、指先から肘、肩で分かれて胸から子宮へ。そして脳髄へ。ドキドキするけれどスミレが振り返る兆しはない

「スミレ?」

「シッ」

 後ろ手に制されてアカネは身体を固くする

 女の上に覆いかぶさった男が異変に気付いたときには遅すぎた。そのまま身動きも取れず、下からガッチリと回された女の手も振りほどけないまま髪の毛は真っ白になって抜け落ち、だらしなく肥満気味だった体が見る見る萎んでいった。さらに女は干物のようになった男の体をそのまま食い始めた。バリバリガツガツと筋を千切り骨を砕き内臓さえも残さず平らげて、何食わぬ顔で宿を出る。あとに残ったのはどす黒いシーツの染みだけ

「アイツ、イーターだったんだ」

「なにもあんなブスじゃなくていいのにね」

「あんたも言うわね」

「どうするの?」

「別に。あんなんじゃ大した稼ぎにもなりゃしないわ」

「そうね、ブスだもんね」

「よほど安かったんでしょうけど、最後のお楽しみがあれじゃあね」

 結局ふたりは木賃宿から悠々とねぐらに帰るイーターを見送って、再び歩き出した

「今日の晩御飯、なんにしよっか」

「アロス・コン・レチェはゴメンだからね」

「そんなに美味しくなかった?」

「やっぱりお米を甘く煮るのはよくないよ……」

 のんきな会話をしながら二人はさらに階段を下りて、地底居住区に向かって行く。ここは地下街より静かで薄暗く、本当に地面の下に潜って暮らしているんだと実感する。地の底へ真っすぐねじれて伸びる螺旋階段から無数の渡り廊下が生えて、あちこちのアパートに繋がっていく様は圧巻で、まるでコンピューターグラフィック。その作り物のような空間の片隅でひっそり暮らす女二人の部屋に帰ってくる。ただいま、と声を揃えても出迎える人は居ない。そもそも二人とも孤児で、出会った場所も地下庭園に併設された孤児院のタマネギ畑だった。その頃からスミレはシュっとして背が高く、男勝りで女の子にモテモテだった。アカネはちんちくりんで、男子からはナメられ女の子からのイジメにも格好の的となっていた。そんなアカネにも分け隔てなく接するスミレもまた、やがてその強すぎる意思と腕力により孤立していった

 羨ましいほど強すぎるスミレも、あまりにも弱すぎる自分も、結局ははみ出し者なんだ。アカネの眼鏡の向こうでは今日も、あの頃誰よりも憧れて、誰よりも頼りになって、優しくて、そして今は誰よりも愛しているスミレが靴を脱いで薄い上着をばさりと洗濯カゴに突っ込んだところだった。無防備な彼女の腋には黒々とした茂みがあった。それをずっと包んでいた上着には、さぞかし……

「アカネ」

「え、あ、んやっ!?」

 恍惚の表情でスミレに見とれていたところを当の本人に呼ばれて、思わずおかしな声が出る

「一緒に入る?」

「え、なんでなんでなんで!?」

「じーっと見てるから……お風呂入りたいのかなって」

「え、あ、そんな、まあ」

「おいで」

 長く細く綺麗な腕が伸びて、ぐい、とアカネの手首を引いた。慌てて脱ぎ捨てた衣服が点々と散らばってバスルームまで続いて、曇りガラスのドアがバタンと閉まったのと同時に、パリン! と何かが割れる音がした。


 そして私は師崎の古い廃神社で目を覚ました。目の前のドアは朽ち果てていて所々穴だらけ。もう何年も、そしてこの先何年も開くことは無さそうなのだがドアの向こうは余裕で見えていて、粉々に砕け散った鏡があるのがかろうじて確認できる。あの鏡が割れた音だったのだろうか


 記憶の中の坂道を辿ってゆくと、やがて丁字路に突き当たった。その眼前に迫る堤防の向こうから海が落ちてきそうな青い空

 泣きたくなるほどいい天気で、死にたくなるほど青い空

 そこで深呼吸をする

 お腹の下の方を膨らませて、そこに吸い込んだ酸素と力を混ぜ合わせる坩堝を作る。下腹部がそのまま徐々に膨らんできて、そこで練り固められた酸素とパワーを、腹部全体に力を込めて全身に行き渡らせる。胸、肩、首、股関節、膝、爪先、指先、すみずみまで力が生きわたると、キィィィィン、と心地よい音がして息苦しさが一気に増す。そこで初めて息を吐き出すと、目の前が一瞬、赤と黒で点滅する。何度か試して上手くいかない時もある。だけど、急にお腹の少し下にグっと力が溜まる手ごたえを感じると、そのままそこに空気と全身の力を圧縮してしまう。深く、力を込めて、力を抜いた呼吸。目の前は心なしか明るい

 身体から血潮の波が引いてゆく

 身体から潮騒の音が消えてゆく

 脳波から頭痛の種が消えてゆく

 巨大なガラスケースの中で肥大化し続けた脳味噌

 昨日の自分の正気を疑え

 夢ん中じゃ近所に雑貨屋、現実世界で新装開店

 夢で見たワイドショーじゃ沢田研二がやっぱりジュリー

 明日も自分の正気を疑え

 そこでまた深呼吸をする。鼻から吸い込んだ呼気が肺も胃袋も通り過ぎて、臍下丹田に向かって注がれてゆく。やがて体内のパワーと空気中の酸素が結合し、吸い込まれた空気に溶け込み溜められたエネルギーが出口を求めて錯綜する。指に、目玉に、手足に、胸に、首の奥の骨の中に

 苦しい

 グッと力を込めて上を向く、空を見る

 泣きたくなるほどいい天気で、死にたくなるほど青い空

 だから深呼吸をした

 海が落ちて来そうな空へ

 僕は深呼吸をした。


 目が覚めると無数に積み上がったテレビのなかに目玉が開(あ)いて一斉にこちらを見ていた。その繋がり仕切られた画面のなかを泳ぐ一つ目の鮃

 30センチぐらい

 画面の中は生身の内臓がみっちりと詰まっている。「綺麗な」を通り越して、行き過ぎた潔癖を樹脂と金属で蓋をして閉じ込めただけの偽りの無機質次元の塊が遥か空高く伸びるテレビタワー、その内側はすべて仕切りこそあるものの繋がっていた。仕切りと根幹の骨髄には粘膜がねっちょりと張り付いて、所々で脈打ち膨れ上がったりしぼんだりを繰り返している。仕切りの壁と壁を繋ぐ粘膜を支える腱を一本、鮃が鋭い尻尾を器用に使って切断した。ぱぷちん、と軽い音がして張り詰めた腱が垂れ下がった。そこからあふれ出たのは電子記号の羅列でもなく、白い人工血液でもなかった。どす黒い腐った血液が際限なく溢れて、やがてテレビの内側から溢れそうになってもまだ止まらない。目玉は真っ赤に充血して、苦悶に満ちた挙動を見せる。言葉を発することがないために悲鳴も上げられず、断末魔の代わりに画面がブツンと切れて真っ暗になってゆく。テレビタワーの目玉たちが次々にブラックアウトする内側では、鮃に切り裂かれた内臓と粘膜が真っ黒い血液に混じりあい、猛烈な悪臭を放ちながら充満していった。やがて濁流はタワー内側を上へ上へ、無傷の粘膜も次々に突き破りながら駆け上って行く。消灯したテレビが積み上げられたいびつなタワーが揺れる。テレビとテレビの隙間から、どす黒い腐った血液がしみだして漏れ伝わって、金属質の地面を這いずり回る。テレビタワーのてっぺんまで到達した腐敗の濁流が出口を求めて轟々と音を立てる。やがて目玉の消えた画面にわずかにヒビが入り、振動は大きく激しくなってゆく。タワーの頂上にはひときわ華美な装飾を施されたクイーンテレビ。黄金のボディに宝石、蝶をあしらった模様が彫り込まれたフレームの中でブルーに輝く眼球が悶絶しながら白目を剥く。そのクイーンの臓物は根っこのようにタワー内部に張り巡らされていたが、いずれも濁流にのまれて跡形もなく引きちぎられていた。その痛みと圧迫に耐え続けるクイーンに限界が訪れる

 ぐぶぢゅんっ!

 とくぐもった音と、ズン! とはらわたに響くような音が同時に響いた。クイーンテレビの画面が破れて、中から例によってどす黒い内臓と血液が流れ出ている。そしてテレビタワーの頂上もはじけ飛んで、火山が噴火するように腐った臓物と暗黒血液が噴き上がる。この腐れイラプションでまき散らされた黒い雨が周囲を腐臭でうずめてゆく。クイーンテレビの画面は不完全に破れていて、フレームに残ったガラス片には目玉の名残がグルグル苦しそうに蠢いているのがいつまでも映っていた

 やがてすべてが終わったかのように見えた廃テレビの死火山。その地下の最奥で蠢く、いびつな巨大テレビの姿。それは垂れさがった根っこ代わりのコードを再び伸ばし始め、無機質な粘膜が映し出された画面が にちゃり と開いて、中から新しい小さなテレビを産み出した。これこそが全てのテレビ型の未来人、電影生命体・デジタリアンたちの根源。すなわちマザーデジタリアンだった。画面いっぱいに広がる性器には臭気も、汚れも、性病もない。ただ胎内で生産される新しいデジタリアンを出産し、コードの先に括り付けてゆく。テレビタワーが死滅しても、マザーが残っていれば何も問題は無い。やがて再びデジタリアンが積みあがり成長し、新しいテレビタワーが立つのだから。絢爛豪華なクイーンですら所詮は飾り付けで、マザーはひたすら生産と出産を繰り返す。その醜悪になり果てた根源も、かつては煌びやかなクイーンであった。そうして美しい電子性器から初めてのデジタリアンを産み出した。それがのちのクイーンとなり、マザーになる。しかしクイーンは死んだ。醜く老いたマザーから生み出されるのは、もはや一般のデジタリアンだけ。やがて死にゆく種族が虚無へと続く生産を続けてゆく。永遠に、マザーの遺電子が途切れる日まで。歪んで崩れ切った画面とフレームを白濁した粘液が覆っている。それはズレてさび付いた角のフレームから漏れ出して、マザーの体を鈍く光らせた。暗闇の中で点る。デジタリアンの眼差しを反射して


 ぴちょん。ぽちょん。ぱちゅん

 水滴の落ちる音だけがどこかで、やけに深く大きく響いてくる。床一面の六芒星と、壁に埋め込まれた無数の柱時計。そのすべての針は三時五十分を指している。粗末な木製の椅子に腰かけているのは全身に入れ墨を施した女装家の美少年。そばにはミュージックマン・スターリングの5弦ベース。美しい容姿とは裏腹に骨太のベーシストらしい。彼の頭には深々とヘッドギアがかぶされていて、それはおかっぱ頭を模した形をしていた。よく見ると額や頬骨のあたりにギザギザの傷跡があり、このヘッドギアは彼の顔面に直接縫い付けられているものだということがわかる。つまり彼は、もうこのヘッドギア、否、仮想現実との境界線から目をそらすことも、距離をとることも許されないで生きているのだ。入れ墨の女装ベーシストは何も言わず、身じろぎ一つせずに大人しく座っている。時々、おかっぱ頭を左右にわずかに揺らしながら、目玉から鼻から喉の奥から白く濁った何かを垂れ流しているだけだ。ヘッドギアのあちこちには色とりどりのプラグが突き刺さっており、それは床に垂れた配線を通して何処かの何かに繋がっているらしい。プラグの先端は太く長い針になっていて、しろがねに光るその針は、彼の頭蓋骨を貫通して脳に直接刺さっているのだろう。目の前には仮想現実、脳には直接情報を流し込まれ、彼の目の前には、いま一体なにが広がっているのだろう

 それを覗き見るためのモニターは、さっき一つ目の鮃が悉く蹂躙してしまったためにもうわからない


 オレンジの雲と紫の空を見上げて。今が朝なのか、夕暮れなのかもわからない

 あっ。あんなところに羽根の生えた俺が居る

 紫の雲とオレンジの空を飛び回る俺が、地上の俺を見て笑ってやがる。きっと俺の頭の中の心には、歩く魚とカタツムリのお姫様が踊っているからだろう

 ぐわん。と揺れた頭が、背中が背もたれの向こう側に沈んで行く。坂道の多い、あの街を不意に思い出す。黄色いウレタンも骨組みもない、ただ不快な柔らかさの奥底ではあぶくひとつ上がらない。赤と白の特急列車は西向け東

 坂道の多い街へ

 ため池と交通量の多い県道。買収されて看板と内装を入れ替えたコンビニ。お客も経営者も置いてけぼりのブランド戦略。時代は変わる。変化するもの、淘汰されるもの。そのどちらにせよ自分に責任がないことは乱暴なような、安心なような。そんな気がする。ため池の周りは遊歩道。おそらく自分で歩くことは、生涯ないであろう風光明媚。だけどわからない。今この県道を走って、このため池のことを考えるなんて5分前の自分ですら想像もしなかったことじゃないか

 ため池の上空を羽根の生えた俺が飛び回り、それを見上げて苦虫を噛み潰したような顔をする俺の絵が脳裏にありありと浮かぶ

 いつもそうだ。俺によく似た男はいっぱいいるのに、俺自身が空を飛んだり楽しいことをしたり、良いことに巡り合えたことなどなかった。いつも俺は俺の楽しみを俺の代替品を通して味わってきた。恋愛、家族、スポーツ、娯楽、セックス。何もかもだ。何をやっても、俺は俺以外の連中の楽しそうな雰囲気からしか楽しいということを享受できなかった。羽根を生やした俺はさぞかし楽しそうにしているのかと思いきや、急に飛ぶことをやめてどこぞの木の枝に舞い降りたようだった。姿を消した俺を尚も忌々しく思いながら呪いの言葉をブツブツと吐き捨てた。その言葉を反射したため池の水が青くなったり深緑になったりしていくのを横目で見ながら、俺は坂道をえっちらおっちら上って行った。ほらみろ、さっき想像もつかない、生涯歩くことはないだろう、なんて言ったそばから自分でこの池のそばを歩いているじゃないか。池の周囲には季節外れの桜が満開になっている。そのひときわ古く、太い木の下には老いた小犬を抱いた太った男。大事に抱えたその犬は今にも死にそうで、スヒィ、ハヒィ、と苦しそうに息をしていた。太った男も全てを理解し、犬が一番好きだったこの場所にやってきていた。桜の花吹雪が風に舞い踊り、ひらひらと髪に、肩に、犬の尻尾に流れ着くのを払わずに、風が吹くまま。花の散るままにされていた。目も見えず、鼻も利かず、それでもその犬は夏の終わりごろまで生きた


 眼前に迫る夢の海が空へ落っこちてしまいそうな坂道を登ってゆく。やがて海面と空の境界があいまいになり、まるで月の船が煮えたぎる悔恨に沈んでゆくようにいつまでもいつまでも浮かび上がったまま。紫の空で磔になった月を打つ釘からこぼれた雫が頭のてっぺんに落ちて。凍り付くほど冷たい月の雫が髪の毛に引火して青々と燃える。宇宙に散らばるエメラルドを繋ぐ不規則なビーコン。月のかけらを探して、夢の海におぼれて。真理の波にのまれて、真珠のような悲しみをひとつひとつ拾い集めては飲み込んで。泣くことも笑うことも出来ずに、祝福の言葉が赤いボトルの中に吸い込まれて炭酸水のあぶくと混じって消える。不完全な感情を置き去りにして燃え尽きる流れ星


 自動ドアをくぐると、暗くひんやりとした店内は静寂に包まれていた。いつもの陽気でやかましい有線放送も、合宿免許のコマーシャルも、季節商品のディスプレイもない。ただ冷蔵庫が低くブゥンとうなり、本棚の雑誌がけばけばしく笑い、店の中央にはガムボールのガチャガチャがひとつポツンと置かれていた。本来であれば陳列棚で格子状の通路が作られているはずの店内。本棚や飲み物・惣菜・弁当などを並べる冷蔵庫が内部を囲むように配置されている以外は、床の上に何もない。お菓子やカップ麺、文具にナプキンに避妊具などが置かれていない店にガムボールのガチャガチャだけがひとつポツンと置かれていた。それは巷で見かけるよりも巨大で、遊園地を闊歩するパンダの着ぐるみほどの大きさだった。なぜパンダかといえば、このガムボールマシーンは白黒に彩色されているからだ

 白いボディに黒いパーツが組み込まれたモノクロームのマシーンに据え付けられたガラスの球体の中で、赤青黄紫緑橙白虹銀金の小さなガムがマシーンの外へ転がり出るときを今か今かと待っている。マーブル模様の虹色がやけに綺麗に見えた。店の中の照明は、このマシーンの真上にある白色の電球ひとつだ。本棚の雑誌も壁際のアイスクリームにも満足に届かない灯りだが、ガムボールたちは十分に輝いて見えた。行ったこともない国の、見たこともないコインを投入しレバーを回してみる。アッサリと、しかし確かな手ごたえをもってガチャリと回る。ガムは、まだ出ない。もうひとつガチャリ。まだ出ない。ガチャ、ガチャ、ガチャリ

 コロン

 と転がり出たそれは、世にも美しい玉虫色のガムボール。白すぎる灯りの下でテカテカ光るそれを指でつまみ上げてしげしげ見つめる。口に運ぶことも忘れてじっと見ていると、ふらふらと変わる色合いを掴めそうな気がして。やがてうんにょりと歪むスクリーンの向こう側には古い小さな映画館

 赤黒い椅子に腰掛けた男

 シルクハットにサングラス

 キツいタバコをくゆらせて

 長いパーマ、上半身は裸

 皮のパンツに派手なバックル

 傍らにレスポールのギター

 ウオッカベースのカクテルを飲み干して

 スクリーンにはNouvelle Vague

 グラスを投げ捨てて奏でる音色は

 11月の冷たい雨のよう

 キャンドルを片手に歌うロングヘアーの男

 アクセルをふかし走り去る

 どこか遠くへ連れて行ってくれ

 この映画館が今も残っているのなら

 どうかそこへ連れて行ってくれ

 ニューシネマ・パラダイスシティまで


 男は立ち上がってシルクハットを直し、カツコツとブーツを鳴らして席を立ち映画館を出た。白い陽光に溶けた街の喧騒から取り残された無人の映画館のスクリーンにはショットガンで吹き飛んだ男の顔と、血まみれのコーンドッグ


 気が済むまでガムを見つめていたらいつの間にか見覚えのある部屋に居た。指でつまんだままのガムをそのまま口に放り込んでぐにっと噛む。甘い。カラフルなコーティングがバリバリと砕けて、中のガムが歯と舌の間でぐにぐに踊る。家を出て駅に向かう。平日の遅い朝のコンコースはラッシュも終わってがらんとしていた。署名を求める老婆も、募金を呼び掛ける高校生もいない。実に快適だ

 特急券と乗車券を買い、ホームで待つ。白と青のツートンカラーの車体はすぐにやってきて、ガラ空きの車内で自由席のシートに腰掛けると間もなく眠ってしまった。夢の中で今風の綺麗なアパートの階段をカツコツと上がる足音で気が付いた。底が抜けるほど晴れた空、異様に静かな街にその建物はあった。自分の足音と息遣い以外は物音ひとつしない。いい気分だ。こんなバカみたいに晴れた日はすぐにでも死にたくなる。だけどそれ以上に、死ぬほど許せないことがある。このドアの向こうに。だから君たちを殺しに来た。こじ開けたドアの向こう、土足で踏み込んだ寝室のマットレスの上で裸で絡み合う男女にそう言い放って、まず仰向けに寝ていた男の顔を強く踏んだ。女は悲鳴を上げながら転げ落ち、尻も股も広がるのを気にもせず、部屋の隅に這って行って震えていた

 男は正気に戻ると同時に怒りを表し、猛然と掴みかかってきた。かなりの長身でスポーツマンと聞いていたがなるほど腕力も足腰も強い。だがそれだけだ。こちらには急所打ちがある。お前が球技に真剣に取り組んできたように、こちらはそれに打ち込んできたのだ。おかげでお前はこの女を抱くことが出来た。こちらはそんなお前たちを殺すことが出来る。それだけのことだ。水月に深々と拳をめり込ませ、腹を抑えてうずくまった延髄に肘を落とす。怒りの鉄槌だ。そうして完全に這いつくばった男の髪の毛を刈り取って、坊主頭に焼き印を押す。実に卑猥な紋章を何度も何か所も押し付けて、爛れた肉の焦げる匂いが淫靡な臭気の部屋の中に溶けてゆくのが実に愉快で、それを額にも押し付ける

 ぶぎゃあああああ

 と、このブ男が泣きながら叫ぶ。抵抗するので指を踏みつけて骨を折る。しかしそれでも収まらない。ジタバタと見苦しい。手も足も叩き切ってしまおう。折れた指の痛みをこらえながら立ち上がろうと、立て膝で四つん這いになったところを横から蹴り上げる。左腕からボキャリ! と音がして女の方に転がってゆくブ男。こんな奴が、こんな可愛い女の子を好き放題していたなんて。世の中間違っている。殺そう。生まれてきたこと全てに後悔をさせてから。仰向けで股間も肛門もむき出しのまま泣いて後ずさるブ男をマットレスの上に引きずり戻し、右腕に電動ノコギリを押し付ける。凄まじい音と血しぶきと、肉が焦げて飛び散って、ふたりの愛の巣はさらなる地獄絵図に変わっていった。何か叫びながら悲鳴を上げているが、ノコギリのモーター音でかき消されているのでちょうどいい。続いて折れた左腕も切ってやる。思いのほかよく切れるので気分がいい。足も左足は膝から下、右足は股関節から一気にいった。止血には先ほどの焼き印が再登場。こいつでばっちりだ。もはや抵抗するための手足も気力も失せたブ男の股間を蹴り上げて潰す

 ごきゃっ

 と

 ぶちゅっ

 が同時に聞こえた。大きな液晶テレビの画面に向かって何かが飛んで行って、張り付いて、そのままずるりとカーペットに零れ落ちた。吹き飛んでいった陰嚢だった。棒のほうはかろうじてぶら下がっている

 髪の毛を引っ掴んで顔を上げさせる。血の気が失せて、涙と鼻水と唾液でぐちゃぐちゃの顔。ヤケドから垂れてきた体液と血液も混じって惨めな有様だ。そこで女の方を向かせて、紙に書いたセリフを読ませる。さあ言え、これを読め

 ま、まだぼぐのごどがぁぁ、ずぎでずぅがあ!?

 よし。鉄パイプを両手で持ち直し、ブ男の顔面めがけて降り下ろした。スローモーションで額、そして黒縁のイケ好かない眼鏡が砕けて飛んでいった

 振り向くと女と目が合った。この可愛い顔も見納めだ。今更結婚してもくれないだろうし。こいつが好きだとか言ってやがったのは何も恋愛感情でもなくセックスのGOサインでもなく上っ面の話で、しかも私はもっとステキで優しい紳士的な人間だと誤解していたときの私なのだから。もう仕方がない。幾らやせ我慢をして心にもないことを言ってやったところで、こっちはかつて好きだった人のそのまた結婚相手の幸せまで願ってやるほど人間が出来ちゃいねえんだ。残念だったな

 こ、こ、こ

 女が震える口で何か言っている

 一歩、また一歩と狭い部屋の中で間合いを詰めてゆくたびに震えが大きくなり、声は小さくなる。絞り出すようにして、ようやく女が言葉を発した時には、もはや可愛い顔の目と鼻の先まで来ている状態だった。蚊の鳴くような声で女は言った

 こ、こんなことをしたら、ああ、あ貴方のか家族も、おお奥さんも、奥さんもお子さんも悲しむじゃない!

 

 ああ、それならちゃんと殺してきた。心配いらないよ


 突然何かが胸の奥に詰まって、激しく咳込んで目が覚めた。気が付くとそこは自由席の椅子の上。ガムを噛んだまま眠ってしまったようだ。軽く体を伸ばしてテーブルに置いてある赤いボトルの炭酸水をひとくち。ちょうど車内アナウンスが停車駅を告げている。次は自分の降りる駅だ。平日の夕方のコンコースはラッシュも終わってがらんとしていた。ありきたりな曲を歌う田舎臭い二人組も寄り添って歩くブサイクな恋人もいない。実に快適だ。いい気分で家に帰って二階に上がり自分の部屋に入ると、そこには今朝早くに殺しておいた妻と二人の息子の死体が転がったままになっていた。どこから湧いてくるのかご丁寧にコバエまでたかっている。妻の死体の尻を軽く蹴り、寝室に入って着替えるとそのままマットレスに寝転んだ。今日は予定通りに五人とも首尾よく殺せたわけだし、いい日だ。実に爽快だ


 見上げた天井に夕陽が差し込んでオレンジ色に染まっている。暗くなると蛍光塗料が光って星が見える壁紙も、すっかり色あせて久しい。その白いだけの天井に浮かび上がる追憶を見送りながら、ゆっくりと体がマットレスを突き抜けてカーペットに、そして床板へと沈んでゆく。やがて一階と二階の境目に入り込んでも、まだ天井に浮かぶカーテンコールは続く。ああ、ここで終わるんだ。ここでこの映画は終わるんだ。なんていい日だ。Perfect Dayとは、まさにこのことだ。そっと目を閉じて沈むがままになった。重力に身を任せたら、体が少し軽くなった気がした

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