Back To Black

第60話 Back To Black(1)

『赤ちゃんの衣類売ります。全て未使用品。』


 いつかの新聞の片隅に掲載された募集記事など、ほとんどの購読者は読み飛ばしていただろう。

 短い一文に込めた出品者の想いなど知る由もなく。










(1)


 よく磨かれたドアノッカーを叩くこと一〇回。扉は開くどころか人が近づく物音、気配が微塵も感じられない。よって、本来ならば中にいるべき人物がいないのだとグレッチェンは判断した。

 ドアノッカーから離した右手でシャツの第一釦を外す。開かれた襟からほっそりとした首筋、首にかかった革ひもが垣間見える。その革ひもをシャツの中から引っ張り上げると二つの鍵が出てきた。一つは鉄製、もう一つは燻し銀。薄曇りの空、翳り気味の陽光の下でも二つの鍵は鈍い輝きを放っている。このどちらかが『薬屋マクレガー』の鍵(正確には合鍵)だ。(もう一つの鍵は自宅アパートの鍵だろう)


 燻し銀の鍵を手に取り、扉の鍵穴に差し込むも、グレッチェンは鍵を回すことをやめてしまった。厳密に言えば、鍵穴に鍵を差し込んだまま全身を硬直させていた。


 扉を叩いている間はまったく気付かなかった。気付けなかった。

 いや、もしかしたら、扉を叩く音では目を覚ましてしまったのかもしれない。


 差し込んだ鍵を抜き取る。辺りの気配を窺うべく耳を澄ませ、神経を集中させる。幸い、昼間、とりわけ午前中の歓楽街は閑散として人通りが非常に少ない。

 鍵をもう一度服の中にしまって釦も締め直す。店の軒先から裏口へ――、一歩一歩慎重な動きで半周したグレッチェンはを間近にした途端、思わずその場にしゃがみこんでしまった。

 すぐ足元では、大きめのバスケットの中に赤ん坊が納まっていた。

 元々は丁寧に毛布に包まれていただろうに。手足をばたつかせて激しく泣くせいですっかり乱れてしまっている。


「捨て子……??それにしては……、って、これは……」


 赤ん坊の身体とバスケットの間に手紙、というか、メモ書きが挟まれている。反り繰り返って泣き喚く赤ん坊の動きで、手紙は今にもバスケットから落ちてしまいそう。四つ折りに畳まれた手紙をさっと引き抜き、文面を確認したグレッチェンの顔から色が失われていった。








(2)


 書斎机の正面、小さな採光窓から漏れる光が、机上に放置したからの酒瓶、山積みの医学書、灯の消えた卓上用石油ランプ、突っ伏して眠るシャロンの黒髪に薄く反射している。

 例の如く徹夜で研究に耽り、気絶に近い形で眠ってしまったのだが――、慌ただしく駆け上がってくる足音で瞼がぴくりと動き、意識が少しずつ浮上していく。


 シャロンの私室に許可なく入っていいのはただ一人。ただ一人だけ。

 しかし、その人物に限ってはいかなる時も猫のように足音一つ立てず階段を上ってくるのだが。

 余程の火急の事態、もしくはその人物ではない――??

 跳ね上がった警戒心と共に素早く起き上がる。手前の引き出しにしまっておいた拳銃を手に取るのと、いささか乱暴なノックの直後、扉が勢い良く開かれた。


「やぁ、おはよう、グレッチェン」

「…………」


 入室してきたのがグレッチェンでホッとしたのも束の間。

 拳銃をこっそりと引き出しにしまい、椅子ごと向き直りながら、彼女が纏う異様な雰囲気のせいですぐに二の句がつげない。


「慌ててここに駆け込んできたり、挨拶もしないなんて。君らしくもない。一体、どうしたんだね??」


 寝起きながら爽やかな笑顔を浮かべ、穏やかに話しかけてみるがグレッチェンはやはり言葉を発しない。どことなく顔色も冴えない、気がする。


「グレッチェン、黙っていては何もわからないよ??」

「……これを」

「ん??」

「これを、見てください」


 強引に腕を掴まれ、掌中に押し込まれた四つ折りの紙を訝しげに拡げてみる。

 そこに記された簡潔な一文にダークブラウンの目を一瞬瞠ったが、フッと鼻で笑い飛ばした。


「馬鹿馬鹿しい、何を証拠に……」

「……シャロンさん、今すぐ私と一緒に店の前まで下りてきてください」

「君はこの置手紙の内容を信じるというのか……」

「今すぐ私と一緒に下りてきてください」


 尚も反論しようと口を開きかけ――、やめた。グレッチェンの目線がいつにも増してゾッとする程冷ややかで、背筋に怖気が走った。毒販売の依頼を受理する時以上に、否、その時の鉄面皮ですら今の彼女と比べれば可愛いとすら思えてくる。心なしか部屋の気温も急激に下がった気がしてならない。

 ここで『No』と答えるのは決して許されない。口にしたら最後、もしかしたら毒殺されかねない、かもしれない……。


「……わかったよ。すぐに着替えるから三分だけ待っ」

「私は、今すぐ、と言いました」


 グレッチェンの視線と言葉のナイフがシャロンを容赦なく突き刺してくる。突き刺すなんてものじゃない、全身を数十か所メッタ刺しの勢いだ。

 色々言いたいことは山のようにあるが……、もう何も言うまい。ため息をつくことすら許されない気がして、言葉と共に飲み下すとシャロンは重すぎる腰を上げた。


 机上に幾つも積み上げられた研究書の山の中、無造作に拡げた置手紙にはこう記されていた。


この赤ん坊はIt is貴方の子供ですyour child引き取ってPleaseくださいleave it

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