灰かぶりの毒薬

第46話 Stand my Ground(1)

(1)　

　――遡ること、約三年前――

「運が良いですね、アドリアナさん。お求めになられた潤滑剤が残り最後の一瓶でした」

　三つ並んだ薬棚の内、真ん中の棚の二段目から親指程の大きさの小瓶を取り出し、カウンターへ置く。

　小瓶の中には、ややぬめり気を含んだ半透明の液体が入っている。

「あぁ、良かった！これで今夜の仕事は一安心だわ」

　カウンターを挟んでシャロンの目の前に立つ、亜麻色の髪の小柄な若い娼婦、アドリアナという名らしい――、が、安堵したように柔らかく微笑む。

　決して美人ではないが、エメラルドグリーンの大きな瞳、やや幼くも明るい笑顔は青空に輝く太陽のよう。シャロンも吊られて微笑み返した――、が。

「……で、何故、お前までうちの店に来た……、ハル……」

　小瓶を茶色い紙袋に収めながら、アドリアナの隣に佇む三つ揃えの白スーツを着た長身の男――、ハルに問う。

　先程アドリアナに向けた爽やかな笑顔ではなく、さも迷惑だと言わんばかりの渋面で。

「あ？？そんなの決まってんだろうが。女癖が最悪なこの店の店主が、こいつにちょっかい出さないよう牽制するためだ」

「私は店の顧客には手を出さない主義だ」

「はっ、どうだか。信用ならんな」

「お前の情婦に手を出した日には両の手足の骨を砕かれた挙句、ヨーク河の水底にでも沈められかねない。私はまだ早死にしたくないのでね」

「前に人の女奪っておいて、どの口が言うんだか。忘れたとは言わせねぇぞ」

「あれは若気の至りだ」

「あのぅ」

　まさに売り言葉に買い言葉。

　口論を繰り広げるシャロンとハルの間で、おそるおそるアドリアナが割り込んできた。

「ふ、二人共、喧嘩はその辺に……。ほら、あの女の子が吃驚して怯えているし……」

「あの女の子？？」

　ハルが訝し気な顔をしてアドリアナを振り返る。

「カウンターの隅で大人しく本を読んでた女の子よ。ハル、気付いてなかったの？？」

「全然。その女の子とやらはどこにいるんだよ」

　アドリアナが遠慮がちに指で指し示した先、シャロンの背後にハルが視線を移す――、そこには、シャロンの背に隠れ、背広をむぎゅっときつく握りしめては子兎のようにぴるぴると震えている少女がいた。

「あぁ……、これが例の、お前が王都で拾ってきて、そのままお持ち帰りしたとかいう娘か？？」

「だいぶ語弊があるのが気に障るが……。彼女は、私の死んだ婚約者の家に仕えていた執事の娘でね。レズモンド邸の火災で父を失い、母親は生まれて直ぐに亡くなっていたらしく……、たまたま火災から助け出したのも何かの縁だと思い、そのまま引き取ったんだ。父親からろくに面倒を見てもらえず、屋敷の一室に閉じ込められていたものだから、他人に対して非常に警戒心や恐怖心が強くてね。ようやく最近になって私以外の者、母や使用人達とも打ち解けてきたし、時々店に連れてきて人と接触する機会を増やしているところだ。……そう言う訳で、グレッチェン」

　シャロンは未だ彼の背中に身を隠すグレッチェンを振り返ると、安心させるために優しく笑いかける。

「ハルとアドリアナにちゃんと自己紹介の挨拶をしなさい。いいね？？」

　グレッチェンはシャロンの背広を握りしめたまま、不安そうに彼を上目遣いで見上げた。それから、ちらりとハルとアドリアナにもそれとなく視線を送る。

　そんな動作を何度か繰り返した後、グレッチェンはおずおずとシャロンのから離れ、カウンターを挟む形で二人と向き合う。

「……は、初めまして……、グレッチェン、と申します……」

「こちらこそ初めまして、リトルレディ。俺はハロルドだ。ハルって呼んでくれりゃいい。で、こっちの小さい女はアドリアナ、アダだ」

　ハルから紹介されたアドリアナは、「よろしくね」とグレッチェンににっこりと微笑む。

　スカートの裾を軽く持ち上げ、腰を落として挨拶をするグレッチェンをハルはじっと見下ろす。

　シャロンよりも上背があり、目つきの鋭いハルに見下ろされると、グレッチェンは目を大きく見開いて彫像のように固まってしまった。

「……シャロン、お前、ちゃんとグレッチェンに飯食わせてるのか？？この年頃の子供にしちゃ、えらく身体が小さいし痩せすぎだろ？？」

「失礼な。三度の食事は当然、午後のお茶の菓子までしっかり食べさせている。確かに、体重が増えにくい体質で少食気味だが……、これでも引き取った時よりは背が伸びたし、肉付きが良くなってきたんだ」

　あらぬ疑いを掛けられそうになり、シャロンは不快も露わに真っ向から反論を切り返す。

「……あ、あの……」

　シャロンとハルがまた喧嘩をし出したのか、と、グレッチェンが怖々と二人の様子を窺っている。

「大丈夫。別に二人は喧嘩してる訳じゃないか、」

　グレッチェンの不安を解消させようと、アドリアナがさりげなく耳打ちをする。

「仲が良いからこそ、ああやって言い合いをするのよ」

「……え、そうなのですか？？」

「おい、アダ。間違ったことを教えるんじゃねぇ」

「そう？？でも本当のことじゃない？？」

　聴き咎めたハルからすかざず睨まれるも、アドリアナはおっとりと受け流す。

　アドリアナの屈託のなさに毒気を抜かれてしまったらしい。ハルは気まずそうに小さく舌打ちすると、それ以上は言い返そうとはしなかった。

「ったく、勝手なことを抜かしやがって……。目的のブツは買ったんだ。とっとと帰るぞ、アダ」

「はいはい」

　そそくさと玄関の扉を開けたハルに促され、苦笑を浮かべながらアドリアナは彼の後に続く。

「じゃあ、またね。グレッチェンちゃん」

　店を出る直前、アドリアナはもう一度だけグレッチェンを振り返った。

「……え？？あ、はい……！またお越しくださいっ」

　名指しで声を掛けられると思ってもみなかったのだろう。

　ありがとうございました、と告げるシャロンの横でグレッチェンは、戸惑いの余り裏返った声で返事してしまった。

(2)

「やれやれ、アドリアナはともかくとして……、やっと帰ってくれたか」

　ハルとアドリアナが完全に店から去ったことを確認するなり、シャロンはひとりごちる。

　その様子を、グレッチェンはきょとんとした顔で眺めた。

「でも……、お二人共、いい人そうな方でしたね」

「アドリアナはいい人に違いないだろうが、ハルはどうだか」

「ハルさんは、シャロンさんのお友達……ではないのですか？？」

「うーん……、どうだろうな……。しいて言うなら……、腐れ縁、と言ったところだな……」

　腐れ縁とは何だろう。後で意味を調べてみよう。

　グレッチェンはもう一つ、シャロンに疑問をぶつける。

「アドリアナさんとハルさんは、どういうご関係なのでしょう？？」

　一瞬どう答えようか迷い、慎重に言葉を選びながら答える。

「表向きは、高級娼館の雇用娼婦と店のポン引きだが……」

「はい」

　娼婦については分かる。ポン引きとは何だろう。

　これも後で調べてみようと、グレッチェンは心に留める。

「情人、いや、恋人同士、といったところかな」

「なるほど。ああいう方達のことを恋人と言うのですね。これでまた一つ勉強になりました」

　どうやら、グレッチェンの関心はハルとアドリアナの様子から「恋人」の意味について理解を深めたことの方へ移ったようだ。それ以上は二人について質問はなく、シャロンは胸を撫で下ろす。

　彼らの商売の関係上、二人の仲は余り公に話題にできるものではない。なので詳しい説明を求められると正直答え辛かった。

「グレッチェン。恋人について理解を深めたなら、今度は恋愛ものの小説でも読んでみるかね？？」

「あ、はい。是非とも読んでみたいと思います。何か良いご本とかありますか？？」

「そうだなぁ……。今すぐには思いつかないが、今度貸本屋に連れて行ってあげるから、その時に一緒に探してみようか」

　シャロンの提案にグレッチェンは「ありがとうございます」と礼を言い、薄っすらとはにかんだ笑顔を浮かべてみせた。

　一方、薬屋で自分達が話題にされているとは知らないハルとアダは――、娼館へ戻る道中、こちらもこちらでシャロンとグレッチェンの話題で持ちきりであった。

　と、言うよりも、アダがやたらとグレッチェンを気に掛けていた。

　その証拠に、ハルは薬屋の痩せっぽちのリトルレディの話題にいい加減うんざりし始めていた。

「アダ、お前があのリトルレディを気に掛ける気持ちはよーく分かった。だが、とりあえずはシャロンやマクレガー家の人間に大切にされてるみたいだし、お前が余計なお節介焼く必要はないと思うんだが？？」

「そうね……、でも……」

　うんざりしつつも、ハルもアドリアナがグレッチェンを案じたくなる気持ちに理解を示してはいる。

　アドリアナ自身の生い立ちが少なからずグレッチェンと重なる部分があり、生来の気立ての良さも手伝い、他人事とはどうしても思えないのだ。

　薬屋にいるシャロンとは別の意味合いで、ハルもやれやれ、と呟き、アダに対して肩を竦めてみせる。

「そんなにあの娘が気になるっていうなら……、お前が薬屋に立ち寄った時にでも声掛けてやったり、仲良くしてやればいいんじゃないのか？？」

「そうね、それは良い考えだわ！あの子とお友達になってみるのが一番かもしれないわね！」

　パンッ！と軽く両手を合わせ、心底嬉しそうに笑うアドリアナに、単純な奴、と呆れながら。つられてハルも自然と表情を緩ませたのだった。