第28話 美しい名前(後編)

(1)

 

 視界が十字架の白で埋めつくされる中、眼前の墓石に捧げた薔薇の赤は気味が悪い程によく映えていた。

 まるで、密かに犯した罪と、その罪により流れた血を象徴するかのよう。

 墓主マーガレットが最も好んだ花という理由で選んだだけだったが――、シャロンの背に冷たいものが走る。


 寒くもないのに身震いするのは怖れか罪悪か。否、両方だ。

 すまない……と口にしそうになるのを喉元で堰き止め、飲み下す。


 瘦せっぽっちの小さな灰かぶり姫をこの手で救いだしたい。

例え、多くの犠牲を払ってでも。


 そう決意したのは他でもない己自身だし、これからもあの灰かぶり姫を守ってやらなければ――、助け出しただけでは救いにはならない。

 今にも消えてしまいそうな、か細く弱いあの娘を生き永らえさせ、無事に成人を迎えた後も末永く幸せに暮らせるよう、見届けてこそ初めて救ったことになる。


 罪への疑いは何としても忌避すべきことであり、自身が墓穴で眠った後も隠蔽し続けなければならない。 

 マーガレットの墓へ日参するのも、『突然の不慮の事故で愛する婚約者と義父を一度に亡くし、悲嘆に明け暮れる青年』を演じるため。

 アッシュを引き取る交換条件だったとはいえ、卒業目前で大学を中退し、帰郷するというのも、婚約者を喪った虚脱感、心労によるものと、周囲からの同情を買っていた。


 不安を払拭しきれないのは、血色の薔薇の花弁のせいだけではない。

 墓参に訪れた時にいた先客――、確か、彼はマーガレットの前の婚約者で、シャロンと同じ大学の医学部にいた男――、のせいでもあった。


 家同士の繋がりでの婚約だったので、準男爵家のレズモンド家と同等か同等に近い家柄なのだろう。

 しかし、容姿も大学の成績も特に目立ったところのない平凡そのものの男であり、同学年だというのに、辛うじて名前と顔が一致する程度の認識しかない。


 シャロンが墓前まで近づいた時、彼は墓前から去ろうと振り返った。

 軽く会釈し目礼すれば、すれ違いざま彼もまた、無言で目礼を返してきた。

 その、眼鏡の奥の瞳からは剥き出しの敵意が――、刃のような鋭いものではなくどろりとした深淵が垣間見える。


 思いがけず泥濘に嵌り、靴やズボンの裾が汚れたみたいな不快感をもよおすと同時に、罪の匂いを嗅ぎ取られたのではと酷い焦燥に駆られた。

 だが、一瞬のちには彼の目は普段通りのぼんやりしたものに戻っていた。


 見間違いかもしれないし、考え過ぎているだけかもしれない。

 きっと杞憂に終わってくれる筈――、彼が完全に墓所から去ってからも真新しい墓石の白と刻まれた文字、赤い薔薇の花弁を眺め、シャロンは一人物思いに耽った、正しくは耽る振りをした。


 ある女性に、遠慮がちに声を掛けられるまでは。


 楚々とした儚げなこの女性に、シャロンは充分に見覚えがあった。





(2)


 アッシュの処遇を決めるべく開かれた親族会議にて、シャロンと同じく長テーブルの一番端の席――、最上座から一番遠い席に彼女は対面に座っていた。

 加齢で髪は退色し、虹彩の色や顔色もくすんでいたが、理知的な顔立ちはアッシュとよく似ていたので、一目で近しい親族だろうと気付く。


 それなのに、こんな下座席に――??


 欲と保身に塗れた聞くに耐えない会議内容。何度も退室したくなりながら、シャロンはこの女性と話す機会を窺ったが、結局は一言も言葉を交わせないままだった。


「貴方のこと、墓守の方が噂しておりましたわ。よく飽きもせず毎日墓参しにくる、と」

「えぇ……、愛するレディ・マーガレットを喪った実感が、未だに持てなくて……、未練がましいのは重々承知しております」

「だから、あの娘を引き取ると仰られたのですか??マーガレットの代わりに」


 淑女の、小皺の目立つ目元が険しくなる。

 冗談じゃない。

 思いもかけぬ疑念を抱かれ、ゆっくりと頭を振った。


「いいえ、マダム。私は、マーガレットが不幸な死を遂げた分だけ、哀れなあの娘だけでも幸せになって欲しいのです」


 半分は嘘だ。

 マーガレットに不幸な死を与えたのは紛れもなく自分だから。

 けれど、半分は嘘偽りのない真実の言葉。


 自分が引き取ると言いださなければ、アッシュは一生狂人達と共に精神病院に閉じ込められてしまう。

 身体の問題を除けば、悲惨な環境下で育ちながら純粋無垢で、本を読むのと甘い物が好きな、ただの十二歳の女の子なのに。


「あの娘にはもっと笑って欲しいんです。美味しい食事や甘い菓子を沢山食べさせたいし、綺麗な服も着せたい。外の世界をもっと見せたいし、多くの知識を与えたい。本来なら得られた筈のものを、全ては難しいかもしれませんが……、与えたいんです」 

「貴方にはそれが必ずできる、と、言い切れますの??」


 冴え冴えと冷えきった視線と口調は質問と言うより、最早尋問である。

 臆することなく、アッシュと同じ色の双眸を見据えた。


「はい」

「…………」


 静かに、けれども力強く。

 短く応えたシャロンに女性は押し黙った。

 深い知性を湛える薄灰の双眸はまだ探りを入れるように、ダークブランの双眸を覗き込んでくる。


 一分、二分、三分――、懐中時計の時を刻む音が上着の内ポケット越しに聞こえてくる。実際は固く蓋を閉じているのでそんな筈はないのに。

 いつしか女性はそっと目を伏せ、シャロンから二、三歩、距離を取った。


「Mr.マクレガー。貴方の言葉を信じようと思います」

「……ありがとうございます。ところで」

「もしもまだ、あの娘の新しい名を決めかねていらっしゃるなら――、『グレッチェン』と名付けてくださいませ」


 今度こそ、女性の身元を尋ねようとした矢先、彼が密かに悩み抜いていた事柄に指摘と共に提案が下りた。

 非常に有難かったが、更なる疑問も増えていく。


「……構いませんが、その名に何か特別な理由でも??」

「えぇ……、実は――、エリザベスが……、亡くなったマーガレットとあの娘の母で私の姉が、生前こっそり私にだけ教えてくれたのです。お腹の子が女の子だったらグレッチェンと名付けたい、と……。マーガレットを産んでから子供がずっとできなくて、ようやく二人目ができたら次は跡取り息子を、と、周囲の期待が大きかったせいで誰にも言えなかったみたいなんです」

「…………」

「姉が命と引き換えに産んだ子が息子じゃなくて娘だった時の、義兄の落胆ぶりときたら……。絶対にあの娘を抱こうともしなければ見ようともしませんでしたし、周囲には死産だったと伝えていました。他の親族達はともかく、姉が出産で実家に身を寄せていましたから、私と両親だけはあの娘が無事生まれたことは知っていました」

「なっ……」


 アッシュの存在を知る者達がいたなんて。

 知っていたなら、なぜ彼女の惨状に手を差し伸べなかったのか。


 衝撃に続き、腹の底からふつふつと湧く怒りで全身が小刻みに震えだす。

 シャロンが怒りに震える傍ら、女性――、アッシュの叔母は語り続ける。


「姉の葬儀が終わっても、義兄はあの娘を引き取りに来ませんでした。ですから、あの娘は我が家で養育するつもりでいました。私は早くに夫を亡くして自分の子がおりませんでしたし、両親も姉の忘れ形見だから大切に育てようと――、けれど」

「けれど??」


 一陣の風が吹き渡り、墓地を囲むように植樹された木々の枝葉がざわざわ、揺れる。

 アッシュの叔母の高く結った髪から僅かにほつれたおくれ毛が、シャロンの前髪が風に乱れた。


「葬儀から二カ月程して、突然、義兄があの娘を引き取りに来たのです。勿論、私達は渡したくありませんでした。死産したと散々触れ回っていたような人ですよ??何かよからぬ企みでもあるのかと、少なくとも私は疑いました。でも……、我が家よりもあちらの方が家柄は高く、義兄自身も高名な医学博士……、最終的には泣き寝入りするしかなかったのです……。ですが、私はどうしても納得できなくて……。数か月後にレズモンド家で開かれたお茶会の招待に乗じ、あの娘を密かに盗み出そうとしました。……残念ながら、途中で見つかってしまい、レズモンド家に絶縁されてしまいましたが……」


 俯いて唇を噛み、当時味わった屈辱と深い悔恨に耐える姿に、シャロンの怒りは醒め始めていた。

 彼女を責めるのは簡単だし、責める気にも到底なれない。

 また、彼女が末席に身を置いていた訳も理解できた。


「あの娘はもしかしたら、もうこの世の人ではないかもしれない……、と、諦めておりましたから、生きていてくれたことが、本当に、本当に嬉しかった……!Mr.マクレガー」

「はい」

 目尻を薄っすら光らせ、アッシュの叔母はシャロンを見上げる。

「どうか、あの娘を……、よろしくお願いします。本当は私が引き取りたいところですが……」


『死んだ娘が実は生きており、屋敷に監禁されている』という噂が真実だと、世間に知られたくない親族達が許す筈がない


「お気持ちはお察しいたします、マダム……、ええと、失礼ながら、お名前を教えていただけますか」

「あぁ、私としたことが名乗りもせずに……、大変失礼致しました。――ベアトリス・カートンと申します」

「ありがとうございます、カートン夫人。素敵な御名前ですね」


 シャロンの世辞に、カートン夫人は初めて薄く微笑んでみせた。







(3)


 徐々に細くなる湯気の向こう側には、ココアを一口飲むごとに笑顔が深まっていくグレッチェンが見える。

 上唇にホイップクリームをくっつけ、フーフーと息を吹きかけて熱を冷ます姿の何と愛らしいことか。


「グレッチェン、口にクリームがついているよ」


 自らの唇に指を差し、クリームがついている場所を教えてやれば、あわあわと膝上のナフキンで拭きとっている。

 自然とシャロンの頬もゆるゆる緩み、だらしない笑顔を誤魔化すべく紅茶を口に含んだ。


 もう少しグレッチェンが成長した暁にはこっそりと教えてやろう。

 美しい名前の由来と、由来を伝えてくれた人について。



(了)

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