第12話
優しい微睡みの中で目覚めた。
身体中が暖かく包まれており、感じたことのない安らぎを与えてくれた。
マリーは上体を起こして部屋の中を見渡すと、そこには質素で粗末ではあるが、整理整頓された部屋が視界に広がった。
手元に視線を落とすとそこには真新しいシーツがあり、清潔な生地の感触が指先に感じられた。
「夢じゃなかったんだわ……」
少女は自分の置かれた現状を確かめるように自分自身へ言った。
静かに部屋の扉が開き、中年女性が中へと入ってきた。
「もう起きていたのかい。朝食の準備ができたから起こしに来たんだけどね」
中年女性は自分の名前をエヴァと名乗り、マリーに清潔な衣類を手渡した。
エヴァは少女へ向かって微笑んで、部屋から出て行った。
少女は寝衣からエヴァから手渡された娘の衣服へと着替えを済ました。
エヴァのいる台所へ向かうと、そこのテーブルには温かな朝食のパンとスープが用意されていた。
クッペとガルビュールを食べ終えると、エヴァは少女にこれからどうするのかを訊ねた。
「わたし、里親の所から逃げてきたんです」
神妙な面持ちなエヴァの前で、少女はそれ以上言葉を続けることができなかった。
「他に行く宛がないなら、街で独り暮らしをしている私の母親の所へ行かないかい?」
エヴァは少女にそう提案した。
自分はここで畑仕事をして生活するしかなく、ここでは少女まで養うことができないとエヴァは言った。
エヴァの年老いた母親は街で宿屋の商売をしているから、そこで働かせてもらえるとマリーは言われた。
ここからそう離れていない場所だから、これから出かけることとなりマリーはエヴァの親切に心から感謝したのだった。
少女は中年女性に連れられ街道を歩き、陽が傾いた頃にはやっと一軒の大きな建物に辿り着いた。
「ここが母親の宿屋だよ」
エヴァは建物の中へと入るようにマリーを促した。
二重の扉をくぐり中へ入ると、煌びやかな内装が施されており、そこには数人の男たちが居た。
身なりは整っており、裕福な印象を受けた。
しかし、マリーを見る眼はどこか汚らわしい卑猥なものである。
少女の心は激しく動揺していた。
自分は場違いな所に居るのではないかと心配になり、挙動不審に陥った。
店の主人である年老いた女性が奥の部屋から姿を現した。
枯れ枝のような指には全て豪華な宝石がはめられていた。
マリーを値踏みするように頭の先からつま先まで一通り見ると、再び奥の部屋へと戻っていった。
「ここでちょっと待っててくれるかい?」
少女にそう告げて、エヴァは老女が姿を消した奥の部屋へと向かった。
少女は独りで心細かった。
テーブル席に座りながらエール酒やワインを飲んでいる男たちの視線が怖かった。
眼で犯されているような感じさえする。
居たたまれなくなり、少女は老女とエヴァが消えた奥の部屋へと歩き出した。
「あの子は十歳だが、あと四年もすれば稼げるようになる」
エヴァの声が聞こえた。
「十歳だって!? 十四歳じゃないのかい!?」
「何なら、ほら、あの子は苦労したから見た目が歳の割には幼く見えないから、十四歳ということで働けないかな?」
「何を言っているんだい! 年齢詐称してバレたらどうする! わたしの店を潰す気かい!」
老女とエヴァが、何やら自分の年齢のことで口論しているのが聞こえていた。
「銀貨五枚だね」
「何を言ってるのさ! 金貨二枚の価値はある」
「仕事ができるようになるまでは、タダ飯食らうしか能がない役立たずないのに、何が金貨二枚だい!」
マリーは二人の会話を聞いて、やっと自分の置かれている状況を理解したのだった。
「わたし……売られるんだわ!?」
少女は震える声で小さく呟いた。
あんなに優しくて親切なエヴァは本当は嘘つきで自分を騙して、ここへ連れてきたのだという事実に身を引き裂かれる程の衝撃を受けた。
ここは宿屋ではないなら、自分はいったい何処に連れて来られたのだろうかという不安と疑問が脳裏を過った。
「仕方がないね! 銀貨八枚だ! それ以上は出さないよ! 嫌ならあの子を連れて今すぐ帰りな!」
「わ、分かったよ。銀貨八枚で手を打つよ」
「ところで、あの子はここが何なのか知っているんだろうね?」
老女は銀貨八枚を手渡したエヴァに訊ねた。
「あの子にはここは”宿屋”だと言ってある。売春宿の”娼館”だとはまだ言ってないよ。”メゾン・クローズ”だとは知らないよ」
「あの子はここが”閉じられた家”だと知らず、しかも自分が売られたとも知らないとはね。本当におまえは悪い女だね」
老女は、少女を銀貨八枚で娼館へ売った中年女性に侮蔑を込めて言った。
「わたし、売られて娼婦になるの!?」
マリーは狼狽した。
前の里親は自分を売ろうとし、その購入するはずの相手は臓器売買しようとしているということで、マリーは前の里親の元から逃げ出したのだ。
今度は、自分を助けてくれて親切にしてくれた中年女性が自分のことを娼館へ売ったのだ。
少女はもう何がなんだか分からなくなっていた。
「もう、誰も信じられない!」
マリーはそう呟いた。
背後に人の気配を感じて、少女は振り返るとそこには先程、テーブル席に居た男性たちの一人が居た。
男性は安いエール酒の臭いが口から悪臭として漂っていた。
眼は視点が定まっておらず、相当な量を飲酒したことが用意に理解できた。
男性はふらつきながら大きな手を少女の華奢な肩へと伸ばしてきたが、マリーはそれを払い除けて先程入ってきた時の二重の扉をくぐり街の中へと走り出した。
逃げるなと叫びながら血相を変えて追いかけてくる中年女性の姿があり、少女は必死に人波を掻き分けて、路地裏へと駆け込んだ。
尚も必要に追いかけてくるエヴァを振り切るために、狭い路地や商店街の雑多な所に逃げ込み、最後は路地裏の小川に架けられた橋の下に隠れた。
中年女性は少女を探すのを諦めて街の中へと姿を消した。
その後、数日の間であるが路地裏で物乞いをしていたら、ローブ姿の男に腕を捕まれたのだった。
「似ている……」
ローブのフードの奥からくぐもった老人の声が聞こえた。
その老人は不気味に歪んだ杖を翳して、聞いたこともない言葉を唱えるとマリー共々その場から姿を消したのだった。
「朝でごさいます」
マリーは、自分を苦痛の眠りから現実に呼び戻した声の主の方へ視線を向けた。
そこには、昨夜の侍女の姿があった。
「ディヴィナ様、湯をお持ちいたしました」
侍女はそう言うと、マリーの顔や体を洗拭し始めたのだった。
「嫌な夢をまた見たわ……」
ディヴィナと呼ばれる少女は、誰にも聞かれないように心の中でそっと呟いた。
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