第5話

 暗い森は静寂を取り戻した。


 しかし、暗い森の樹々は胸騒ぎを感じさせる程にざわめいている。


 葉が風で揺れ動いて、ざわめいている訳ではない。


 何か邪悪なものがいるという感覚が森の樹々の精霊をざわめかせているのだった。


 それは、まるでこれから嵐がやってくる前触れのような静けさの中に、底知れぬ恐怖が潜んでいるかのようである。


「どうしたことかしら? 森が怯えているわ。とにかく急ぎましょう」


 黒エルフの娘アデーレは辺りを見渡しながら、黒エルフの仲間を急かした。


 ウィリアムたちは黒エルフ族たちの王宮へ担がれて運ばれることとなった。


 しかし、樽の様な体型で重量のあるドワーフのイムリは、黒エルフの男性二人がかりで両手足を掴まれ運ばれたのだった。


 ディヴィナは黒エルフ族の娘アデーレが担いでいた。


 アデーレが他の黒エルフと色々な会話をしていた。


 会話の内容はウィリアムたちには麻痺系と眠り系の毒を用いたことや、その効力は半日程持続するということであった。


 麻痺や眠りによって意識がないふりをしているディヴィナは、黒エルフ族の王宮への入り口に着いた。


 一際大きな巨木の根元に、簡素ではあるが美しい巨木の彫刻と革を用いた装飾が施された木製の扉が設置されていた。


 黒の甲冑を身に着けた、黒エルフの衛兵二人が扉の番をしている。


 闇の森の娘は担いでいた人間の少女を、衛兵の一人に代わりに担がせた。


「アデーレ様、やっと戻られましたか。この捕らえた者たちはどういたしますか?」


「目が醒めるまで、地下牢へ幽閉しておけ!」


 忌々しげな顔をしてアデーレは言った。


 そして、暗い森の娘は人間臭くなったと言い残し、湖の方へ歩いて行ったのだった。





 樹の根元から地下へと続く螺旋階段は、気の遠くなるような長く深い地の底へと続く階段であった。


 ディヴィナは意識のないふりをして、黒エルフの衛兵に担がれたまま移動していた。


 だが、少女の魂の奥底から直接、ディヴィナに語りかける声は止むことなかった。


 岩盤の上に巨木があったために階段も壁も全てが岩でできていた。


 丁寧に削られていて素材の岩肌は滑らかに磨かれていた。


 地下岩盤そのものが黒エルフ族の王宮として建立されたのだった。


 この王宮の最下層にある岩盤をくり貫いて作られた狭い牢屋に、ウィリアムたちは独りづつ幽閉された。


 黒エルフたちは毒矢でウィリアムたちが麻痺し眠りにもついていると思い、投獄した後すぐに去っていった。


 滑らかに削り出した岩肌から染み出した水滴は、流れるように床へと落ちていった。


 牢獄の中で目を覚ましているのは、ディヴィナ唯一人であった。


 静寂の中でも己の内から問い掛ける声は沈黙することなく、少女の名を呼び続けているのだ。


 少女は勇気を振り絞り、声の主に話し掛けてみることにした。


「そうよ。わたしはディヴィナ。あなたは誰なの? 何故わたしの名を呼ぶの?」


 少女は声の相手が誰だか分からないが、その相手に向かって心の中で呟いた。


「我を解き放て」


 ディヴィナの魂の内側からとでもいうような深い部分から、威圧的な声が聞こえてきた。


 魂が引き裂かれ悲鳴を上げそうなくらいの恐怖を感じた。


 だが、ここで怖気づいてはいけないと少女は勇気を振り絞った。


「あなたは何者なの?」


 恐怖を抑え込んではいたが、少女の声は震えていた。


「我は”抱擁するもの”である」


「それがあなたの名前なの?」


「そうだ。我が名は”ファーヴニル”である。限りある時間に囚われし儚き者よ」


 声の主は、ディヴィナにそう告げた。


「我を解き放て」


 その声は次第に小さくなり、やがて眠りについたように聞こえなくなった。


「ファーヴニル……」


 ディヴィナは魂の奥底に棲みみ着いている声の主の名を呟いた。


 それを最期に”抱擁するもの”からの声は返ってこなかった。


 何も思い出せないままでいる日々がとてもつらかった。


 それをどう言葉で表せばいいのかも、分からなかった。


「何故、わたしがこんな目にあわなくてはならないの」


 ディヴィナは冷たい物言わぬ岩壁に向かった言った。


 絶望だけが牢獄の壁から流れ出る水滴のように、とめどなく溢れてきた。


 あまりの絶望に耐え切れずに、自分の心を保つために架空の存在を生み出して会話していたのかもしれない。


 自分自身が壊れていくのではないかという不安があった。


 精神的につらいことが重なり、旅の疲れも伴って心身の均衡が崩れてしまったのではないだろうかとさえ考えていた。


 壊れてしまいそうな細く華奢な体が更に小さく感じられるほど、牢獄の岩の床の上に身を丸めて蹲った。


 小さな掌を重ねて互いに握り締めた。


 細い指は冷たくなり、そして震えていた。


 記憶は戻らなくてもいいから、早くこの場から逃げ出したい。


 誰にもかかわらず、独りぼっちで生きていくことになっても構わない。


 とにかく、普通の生活がしたいのだとディヴィナは渇望した。


 しかし、ここは黒エルフ族の地下牢獄である。


 生きては二度と外には出られるはずがなかった。


 黒エルフ族には永遠の寿命があるのである。


 人間の寿命の百年間など、彼らにとっては僅かな瞬きの間の出来事なのである。

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