第56章:終幕

[1] プラハ作戦

 ベルリン陥落が「戦争」の終結ではなかった。勝利を目前にしたスターリンと赤軍首脳はこれまで以上に西側連合国がその作戦目標を変える可能性を気にしていた。ドイツ軍は東部で戦闘を継続しつつ、西部では降伏の申し入れをするのではないかと本気で危惧していた。第12軍集団がソ連軍のチェコスロヴァキア占領に助勢を申し出た時、スターリンは赤軍に対して進撃を加速させる旨の命令を発した。これが西側連合軍に対する返答になった。

 5月1日、モスクワの「最高司令部」は第一ウクライナ正面軍に対してベルリン市内の掃討戦は全て第1白ロシア正面軍と交代し、南翼に転戦してプラハに進撃するよう命じた。プラハ攻勢は第2ウクライナ正面軍と第4ウクライナ正面軍も参加する協同作戦とされた。

 チェコスロヴァキアでは、かつて2年以上に渡ってモスクワへの接近路を脅かし続けたソ連軍の仇敵である中央軍集団(シェルナー元帥)が布陣していた。この時期に同軍集団は60万人以上の兵力を保持していたが、もはや壊滅は避けられなかった。皮肉なことに同軍集団はドイツではなく、ヒトラーによる侵略の最初の被害者となった国で危機に瀕していた。

 ベルリン攻略戦がたけなわの時期、ソ連軍の3個正面軍は中央軍集団に対して圧倒的な優勢を有して攻勢に出るために配置替えを行った。この攻撃に協同して参加するため、すでに米第3軍(パットン中将)がバイエルン地方からチェコスロヴァキアの国境地帯に進入した。

 急きょ承認された第1ウクライナ正面軍の攻勢計画は次のような内容だった。第13軍(プホフ大将)と第3親衛軍(ゴルドフ大将)がドレスデン西方を攻撃し、南東ドイツでエルツゲビルゲ山脈の峠を突破する。その後に2個親衛戦車軍(第3・第4)が続いてプラハに迅速に啓開する。同時にチェコスロヴァキアの東と南から、第2ウクライナ正面軍と第4ウクライナ正面軍が戦車部隊を先頭に立てて攻勢に出る。攻撃開始は5月7日とされた。

 5月5日、プラハで市民が蜂起してラジオで連合軍に支援を訴えた。占領軍との衝突により、チェコ側に少なくとも3000人以上の死者と1万人の負傷者が出た。スターリンは攻撃準備を急がせ、翌6日の午後に攻撃を開始するよう命じた。

 5月6日、第1ウクライナ正面軍は北翼から攻撃を開始した。リエザ地区から3個軍(第13軍・第3親衛軍・第5親衛軍)と2個親衛戦車軍(第3・第4)が主攻撃を担当した。ポーランド第2軍を含む小規模な部隊がゲルリッツから支援して、主攻撃部隊をさらに東方に向かわせた。

 第2ウクライナ正面軍はブルノから北のオロモウクとプラハに向かった。これは4個軍(第46軍・第53軍・第7親衛軍・第9親衛軍)と第6親衛戦車軍、第1親衛機械化騎兵軍団による攻勢だった。第1ウクライナ正面軍と第2ウクライナ正面軍に挟まれた戦区で、第4ウクライナ正面軍が東翼から全戦線に渡って中央軍集団の陣地を圧迫しつつあった。

 第1ウクライナ正面軍はドイツ南部でドレスデン、バウツェン、ゲルリッツを占領した。それでもやせ細った中央軍集団の抵抗を排除しなければならなかった。オロモウクを占領した第4ウクライナ正面軍は翌7日にオーストリアを解放した第2ウクライナ正面軍と合流して、両正面軍はプラハに突進した。

 5月8日の夜、第1ウクライナ正面軍は進撃を加速させるために2個親衛戦車軍に対して、プラハに急行するよう命じた。夜が明けて翌9日を迎えた頃、2個親衛戦車軍は特別に編成した前進部隊を先頭にして80キロ突進し、プラハ市内で第2ウクライナ正面軍およびチェコスロヴァキア独立第1戦車旅団を含む第4ウクライナ正面軍に合流した。ソ連軍はこの後の2日間で、中央軍集団に所属していた60万人以上の兵員の降伏を受け入れることになった。

 5月11日、第4親衛戦車軍の先鋒はチェコスロヴァキア西方のプルゼニで米第3軍と合流した。ここに赤軍の今次大戦における主要な作戦は全て終了した。

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