[4] 東プロイセンへの突進(後)

 中央軍集団司令官ラインハルト上級大将は撤退を許可されなければ東プロイセン全土が危険に瀕するとヒトラーに訴えたが、ヒトラーは聞く耳を持たなかった。上司や上級司令部に対して怒りを爆発させたのはソ連軍も同じだった。

 1月20日、モスクワの「最高司令部」は第2白ロシア正面軍に対して新たな命令を下した。その内容は第3白ロシア正面軍の進撃が阻止されたため、今後は単にヴィスワ河沿岸を制圧して東プロイセンを包囲するとともに、攻撃軸を北東に転じて東プロイセンの中央部に攻撃せよというものだった。第1白ロシア正面軍がベルリンを目指して西進するにつれ、自軍の南翼に大きな間隙が生じることになる。ロコソフスキーは危惧した。しかしこの方向転換は東プロイセンを防衛する中央軍集団の意表を衝くものとなった。

 1月22日、第2白ロシア正面軍の北翼では第3親衛騎兵軍団が凍原を急進してアレンシュタインを奪取した。第5親衛戦車軍は同正面軍の南翼でヴィスワ河口に近いエルビングを目指して突進した。

 1月23日、第5親衛戦車軍はエルビンクに突入した。ドイツ軍戦車と誤認された第5親衛戦車軍の戦車部隊は第2軍と激烈な混戦を繰り広げた挙句に押し戻された。主力は市街地を迂回して凍結した「フリッシェス・ハフ」―砂洲でバルト海と切り離された大きな潟湖を望む海岸に到達した。

 第2白ロシア正面軍がフリッシェス・ハフに到達したことにより、東プロイセンはほぼ完全に孤立した。ザムラント半島の南西端にあるピラウから海路に出るか。ダンツィヒから伸びるバルト海に面した長い砂洲―フリッシェ・ネールングを目指して凍った潟湖を渡るか。この2つのルートの他に脱出路が無くなってしまった。東プロイセンからの避難は困難を極めた。ナチ当局が市民の避難準備を全く整えていなかったのである。第一陣の引揚船がピラウに到着するまでにかなりの時間がかかった。

 1月24日、第4軍がレーツェン要塞を放棄して北方に撤退した。マズーレン湖沼地帯の防衛線を固守する構想を抱いていたヒトラーは第4軍が防衛線の要石となる拠点を放棄したことに対して烈火のごとく怒った。ラインハルトはヒトラーの怒りに構わず包囲された市民に脱出のチャンスを与えるため、第4軍に包囲突破作戦の準備を命じた。

 1月26日、第2白ロシア正面軍の西翼は第2軍をヴィスワ河口地帯に圧迫してノーガト河岸のマリエンブルクを奪取した。同正面軍の東翼は包囲されたドイツ軍が西方へ包囲突破を試みることを想定して、兵力を急きょ再配置した。

 1月27日、第4軍は強力な兵力(6個歩兵師団・1個装甲擲弾兵師団・1個装甲師団)を投入して第48軍の陣地を叩いた。身も凍る晴れた夜に攻撃を開始した第4軍はエルビングの手前まで迫った。しかし3日間に渡る戦闘の末、第4軍は包囲からの脱出を達成できなかった。

 ヒトラーは中央軍集団司令官ラインハルト上級大将と第4軍司令官ホスバッハ大将を解任した。第4軍はハイリゲンバイルを中心とした陣地に60万を越える民間人とともに押し込められた。その間に第3白ロシア正面軍がケーニヒスベルクを完全に包囲していた。第3装甲軍から派遣された同市の守備隊はザムラント半島に切り離され、20万に近い民間人も閉じ込められた。北方軍集団(1月25日、中央軍集団より改称)は何の作戦行動も取れなくなり、いずれ来る壊滅を待つばかりだった。

 だが北方軍集団による粘り強い抵抗は、ソ連軍のベルリン進撃を知らず知らずの内に遅らせる結果を招いたのである。東プロイセンを巡る戦闘に巻き込まれた第2白ロシア正面軍はヴィスワ河沿いに展開する第1白ロシア正面軍の北翼から引き離されたため、両正面軍にポンメルン地方を中心として大きな間隙が出来ていたのである。

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