魔の鴉がやってくる。-The Raven Witch is on a journey-

安田 景壹

第一話『チェルムスフォード深夜妖殺』

『チェルムスフォード深夜妖殺』

決して晴れる事のない霧が立ち込めた世界から

闇の住人達は越境を始めていた。

怪物を狩る戦士たちが戦い続けていたが

現世は闇に呑まれつつあった……。



 チェルムスフォード。深夜。街はずれにあるクラブのけばけばしいネオンが灯る。生温い風が強い。雷雲が遠くから迫っていた。七ツ森ななつもり麻來鴉まきあは、風で飛びそうになった帽子を押さえると、十数メートル先にある場末のクラブを眺めた。傍目には何の変哲もない、儲かってはいなさそうなクラブ。それが今夜の仕事場だった。

急な依頼だった。今月は仕事が多い。明日にはロンドン、その次は東京へといった具合だ。麻來鴉のような人間の仕事が増えるのは世の中にとっては不幸な事だが、もはやこれは自然災害と同じだ。世界は歪み、腐り始めている。だから刃を持つ者が、腐った部分を切除しなければならない。

店に近付いた辺りで、麻來鴉は入り口の横に小さな子どもがいる事に気が付いた。地べたにしゃがみ、親から預かったのであろうスマートフォンをいじっている。

「ねえ」

 麻來鴉はかがみ込んで声をかけた。

 子どもは顔を上げた。六歳か七歳くらいの少年。見知らぬ異国の少女に話しかけられたというのに、無感動なダークブラウンの瞳で見返すだけだ。

 少年の顔をじっくりと観察し、麻來鴉は続けて尋ねた。

「親は?」

 少年は黙って麻來鴉を見つめた。幼い両目が冷たく彼女が何者かを探っていた。

「まだ、お店の中? 二人とも?」

 少年はようやく、こくりと頷いた。

「そっか。ありがと。これ買って来たんだけど、食べる?」

 麻來鴉はマントの内側からモルティーザーズの箱を取り出した。中に入った丸いチョコレート菓子をひとつ取り出し、少年に差し出す。

 暗い瞳がはじめて何かに興味を持った。小さな手がチョコレートを摘み取り、口に運ぶ。

「……食べるの久しぶり」

 柔らかい英語が少年の口から漏れた。首元で、銀色のロザリオが光っている。

「あげるよ。それ食べて待ってて」

 麻來鴉は立ち上がった。

「迎えに行ってくる。お父さんとお母さんを」

 帽子を被り直す。先端の折れ曲がった黒のとんがり帽。身に纏った黒マントが風に吹かれ、街灯に照らされた麻來鴉の影が路面に揺れる。

「お姉ちゃん、魔女なの?」

 マントを翻し、麻來鴉はにっと笑う。

「ほかに何に見える?」



「いらっしゃいませ。ご注文は?」

「オレンジジュース」

 麻來鴉の注文に、金髪の若い店員は古いコメディアンみたいに口の端を上げて見せた。

「お嬢さん、未成年?」

「見ての通りだよ。魔女に年齢は聞かないほうがいい。本当の答えなんて返ってこないから」

「ふっ。面白いね、キミ」

 店の中には音楽が流れ、他の客が騒ぐ声が反響している。薄暗い店内はここからでは全体を見渡す事が出来ない。顔のはっきり見えない人影が席を立ったり座ったり、大笑いしているような仕草が見える。

 金髪の男は自然と麻來鴉の横に座った。

「働かないの?」

「ちょっと休憩さ。オレンジジュースならメアリーが持って来るよ。オレはジョン。ジョン・スターン」

 金髪男は、そう言って軽やかな微笑みを見せた。わざとらしさのない仕草だった。

「わたしは麻來鴉。七ツ森麻來鴉」

「マキア……。不思議な名前だね。日本人?」

「どうもそうらしいわ。小さい頃の記憶がなくてね。気付いたら世界中を飛び回っていた」

「何それ。箒に乗って魔女のお仕事って事?」

「そんなところね」

 ふうん、とジョンはにやけ顔のまま頷く。懐から煙草のソフトケースを取り出し、一本取り出して銜える。

 そこへ、オレンジジュースの入ったグラスが二人の間に強めに置かれた。ソバカスの目立つウェイトレスがジョンをじろりと睨む。

「はい、オレンジジュースね。ナンパもいいけど仕事したら? マシューがお待ちかねよ」

「少し喋るだけさ。いいから、カウンターに戻ってろよ」

 ふん、と鼻を鳴らしてウェイトレスは踵を返した。

「メアリーめ。お客さんにはもう少し愛想よくしろよな。ああ、ごめん。それで、君の仕事って?」

「化け物退治」

ジョンはきっかり十秒経ってから噴き出した。

「プ。アッハ、ハハハハ!」

 ひとしきり笑ったあと、ジョンは涙を指で拭った。

「いやぁ面白い。魔女みたいな恰好しているからどんな子かと思ったけど、スゴイね! 『スーパーナチュラル』みたいだ!」

「ジョン! そろそろ仕事をして!」

 甲高い声が店の奥から聞こえた。

「いやいや。いいだろ、もう少しくらい。魔女の化け物退治ってのがどんなものか、聞いてみたいんだ」

「聞いて面白いものでもないよ。化け物がいる場所に行って、やっつけるだけ」

「魔法の杖で?」

「ええ。魔法の杖で」

「ジョン!」

かつかつと踵を鳴らして、メアリーがやって来た。

「いい加減にしてよ。状況わかってるの?」

「何だよ。別に大した事ないだろ。こうしてお客さんがやって来てくれたんだから、大事にしないとさ」

 店内の音楽が他の客の声と混ざり、聞き取りづらくなる。はっきりと聞こえるのは自分の声と、目の前の二人の声だけ。

「人を探しているんだけど」

 言って、麻來鴉は懐からスマートフォンを取り出し、画面に表示された写真を見せた。

 写っているのは二人の男女だ。男のほうは気軽なシャツに着古したチョッキ、女性のほうは、柔らかな印象のワンピース。お揃いの十字架を首から下げた、どこか張り詰めた表情の二人。その佇まいは仕事仲間のようにも、夫婦のようにも見える。

「これは?」

ジョンが訊いた。

「彼らはエンフィールド夫妻。この業界では有名な二人組のエクソシストだった」

 店のざわめきが遠のいた。気にせず、麻來鴉は続ける。

「一週間前。彼らはある化け物を退治しに行って、そのまま帰って来なかった。彼らには一人息子がいたけれど、その子も四日後に行方不明になった。親に似て霊感の強い子だったから、二人を探しに行ったんだと思う」

 オレンジジュースの中の氷がゆるやかに溶けて、グラスの中で音を立てる。店内のざわめきがまた寄せてくる。不可解な音の塊となって。

「エンフィールド夫妻が最後に訪れたのは、この店だった」

 バリン! と、オレンジジュースのグラスが砕け散る。メアリーの手がグラスを握り潰していた。怨嗟の煮え立った声が、その口から漏れる。

退たい  かぁぁぁぁ……」

「人を探しているの。メアリー」

構わず、麻來鴉は言った。

「二人は、今もこの中にいる?」

 麻來鴉の問いと、店内に満ちた殺気が交錯した。

「ジョォォォォォォン!!」

 メアリーが咆哮した。体がぐにゃりと曲がっていた。到底人間の物とは思えない牙を剥き出しにしたその顔は、もはや悪鬼そのものだった。

「こいつはああああ、殺さなくっちゃあああああああ!」

「ああ、そうだな。メアリー」

 新たに取り出した煙草に火を着け、ジョンが頷く。

「体はやるよ。終わったら頭はオレに寄越せ」

「めいいいいいれいいいいいををををををををを」

 メアリーの首が、エプロンドレスの首穴から大蛇のように伸びていた。両腕は肉食獣のように床につき、両足は腰が回転して、まるでバッタのように体を支える。腰あたりの皮膚を突き破り、真っ黒な骨が向き出した尾が飛び出す。その先端についているのは、握りのついた大きな針だ。

「すううううるううううなアアッ!」

 ぐん、とメアリーの伸びた首が麻來鴉に肉薄する。耳元まで裂けた口が開かれ、唾液でぬめった気味の悪い並びの歯が眼前に迫る。

 対して、麻來鴉が取り出したのは、平たい石だった。何の変哲もない石――いや、石の表面には、奇妙な文字が一字彫られている。

「〝ソーン〟」

魔力を込めて呪文を唱え、麻來鴉はパチンと指を鳴らす。

「拘束」

石に刻まれたソーンのルーンが発動する。刻印が輝きを放ったかと思った次の瞬間、石から幾本もの茨の蔓が放たれ、瞬く間に怪物と化したメアリーへ絡み付く。メアリーが獣の唸りを上げた。

「締め上げろ」

 茨がきつく、きつくメアリーの長い首を締め上げ、どうっと音を立てて怪物と化した体が床に倒れ込んだ。

 店内は異様な静寂に包まれていた。音楽もざわめきもない。どうやらほかの客は幻だったようだ。忌まわしい気配が店内に充満していくのがわかる。

「魔法の杖は? お嬢さん」

 まだ人間の姿のままのジョンが、変わらぬ口調で尋ねた。

「あんたらなら石だけで十分かもね。マシューとやらを出しなよ。あんたらの元締めをさ」

「うちのおっさんに会いたいのかい? その前にオレと遊んでくれよ。ま、もっとも――」

 銜え煙草で、ジョンがにっと笑う。

「メアリーを倒せたらだけどね」

「っ!」

 気付くのが一瞬遅れた。茨に絡み付かれたまま、メアリーが長い首を振り回す。店内に満ち満ちた邪気が魔力のセンサーを鈍らせていた。判断は一瞬だ。拘束できないのであれば――

「〝野牛ウル〟!」

 素早くポケットから取り出した刻印石に魔力を通し、指を鳴らしてルーンを発動させる。野牛ウルは力のルーンだ。ルーンが発動している間、膂力りょりょくと運動能力が飛躍的に向上する。

「ふっ――」

 麻來鴉は跳んだ。メアリーの不意打ちを躱すために跳び、攻撃のために跳んだ。跳躍の勢いそのままに、こちらの腹目がけて迫って来ていたメアリーの頭部を踏みつけ、背後へと回る。バッタのように曲がった二本の足を掴み、増強した膂力で引き上げる。

「オオオオォォラアアッ!」

 ジャイアントスイングの要領で振り回したメアリーの体を店内の壁へと放り投げた。

 衝突音は、しかし、ない。太鼓のように弾む壁にぶつかったメアリーの体は、跳ね返って着地する。筋肉を膨らませると、黒い靄のような波動が発生し、魔術で作り出した茨を切り裂いた。

 呪力だ。怪物どもの持つエネルギー。侵食し、傷つけるための力。単純な力の放出だが、店内の邪気が強すぎる。毒液が満ちていくグラスの中で戦うようなものだ。

「大人しく縛られていてくれないの?」

 答える代わりに、長い鎌首をもたげ、奇怪な虫の声でメアリーは吼えた。腹からさらに虫のような足が左右合わせて四本飛び出す。前脚代わりに体を支えていた両腕は持ち上がり、耳障りな音を立てて二本の鎌へと変化する。

 麻來鴉は腰に差した鞘からナイフを引き抜いた。ルーン刻みのナイフ。武器というよりは日用品だが、狩りには使える。

 ナイフを逆手に構え、麻來鴉は駆けた。弾丸のような速度で、メアリーの尾針が顔を目がけて突っ込んでくる。野牛ウルの効力は持ってあと三十秒ほど。一時的に向上した運動能力で、麻來鴉は尾の一撃を躱しながら身を横に、独楽のように回転し、ナイフでメアリーの長い首筋を狙った。

 ガキン! と刃物の擦れる音が響く。メアリーの鎌がナイフの一撃を弾いたのだ。

着地したのはメアリーのすぐそばだ。すかさず返しの尻尾が唸りを上げて迫ってくる。後ろからはメアリーの鎌だ。ナイフを順手に持ち換え、床に突き立てると素早く手を動かす。

「〝動けラド〟」

 ルーンを刻むと同時に左手の指を鳴らす。次の瞬間、ルーンを刻まれた床が鼓動し、麻來鴉を勢いよく真上へ弾き飛ばした。

 狙いを外したメアリーの尾が、自身の鎌と体を打った。呻き声に怒りと困惑が混じる。天井をナイフで切り裂いて速度を殺しつつ、麻來鴉は弧を描いてメアリーの死角へ着地する。

「薄汚い魔女がああああああああああああああ!!」

 針の先端がすぐそこまで迫ってくる。マントを翻し、身を捻りながら針の一撃を弾き、ルーン刻みのナイフでその胴体を切り裂く。

どす黒い血が噴出した。悲鳴を上げた怪物の虫が口を開け、今度こそ麻來鴉を喰らい殺そうと肉薄する。

 それが隙だった。一呼吸の間、メアリーの長く伸びた柔らかい喉元を目がけて、ナイフを一閃する。

 時が、止まった。

 次の瞬間には真っ黒な血が噴出し、メアリーの巨体はどうっと倒れた。

 同時に、野牛ウルのルーンの効力が切れた。

「……っ。役立たずが」

 ジョンは忌々しげに呟くと、銜えていた煙草を放り捨てた。

 麻來鴉は倒れたメアリーの体から生えた尻尾を見た。その先端についた針は人間が握るための柄があり、刺せば軽々と皮膚を貫通しそうな太い針が伸びている。

「〈針刺し〉用の針ね」

「ほう? 知っているのかい。さすがは魔女だな」

 ジョンはどこか嬉しそうに言った。麻來鴉は顔色ひとつ変えない。

 〈針刺し〉はかつて魔女狩りで使われた、魔女を生み出すための方法である。魔女の体のどこかにあるというマークを刺し、血も痛みもなければその証は本物、というのが当時の理屈だ。針には仕掛けがあり、体に押し付ければ針が引っ込み、痛みも血もない代わりにマークをその体に残す。結果として、何の罪もない人間が魔女に仕立て上げられる。

 忌まわしき暗黒時代の道具――……

「噂には聞いていたよ。とっくの昔に死んだはずの魔女狩り三人組が、化け物になってうろついているってね」

 軽く足を開き、麻來鴉は体勢を整える。

「因果は巡るって事だ。今度はあんたが狩られる番だよ、ジョン・スターン。古い魔女狩りが一人よ」

「はっ。あまり調子に乗るなよ、お嬢さん」

 金髪をかき上げ、男はにやりと笑う。ジョンが捨てた煙草の先から立ち上る紫煙が、徐々に毒々しい色合いを帯びていく。

「可愛い魔女かと思ったらこれだ。しょせん退魔屋って連中はどいつも同じ。人間の分際でオレらを狩れると思っていやがる」

「ずいぶん腕に自信があるようね。化け物の分際で」

「そりゃもちろん。出来が違うからな、人間風情とは」

 どろりと、周囲の壁や床が異様な色彩となって蠢く。

 ジョンの両脇の空間が歪む。波紋のように広がる空間の歪みから何者かの影が見える。

「へえ……」

 麻來鴉は冷静に見当をつける。召喚術。魔法陣なしで呼び出しているあたり、そう遠くない場所で待機させているモノだろう。化け物を使役する化け物というのは、探せばそれなりにいるものだ。

空間の揺らぎの中から、腕が生えて来た。それは次第に肩、足、頭と姿を現してくる。

 異形の化け物ではなかった。それは人の形をしていた。どこにでもいそうな格好の者。一人はシャツに着古したチョッキ、もう一人は柔和な印象のワンピース。共通しているのは、二人の胸元で揺れる銀のロザリオ。見覚えがある。いや、彼らは――

「――ッ!?」

 平衡感覚が消える。身の自由が奪われ、急転直下に天地が逆さまになった。

が、それも次の瞬間には元に戻っていた。視界は戻ったが、体は動かない。いつの間にか、麻來鴉は椅子に座っていた。胴や腕、両足は革のベルトで締め付けられ、固定されている。

「――天にまします我らの神よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になる如く、地にもなさせたまえ」

 場所は今の今までいたフロアとは違う、見知らぬ部屋へと移っていた。暗い、地下室のような一室。

 椅子に縛り付けられた麻來鴉の前で、男が主の祈りを唱えている。いや、部屋の隅で待機している女もだ。祈りを唱和する二人の声が、麻來鴉の脳髄に響き渡る。

 エンフィールド夫妻だった。写真に写っていた二人のエクソシストが聖書を片手に縛られた麻來鴉と対峙している。その顔には黒い影が落ち、表情まで伺い知る事は出来ない。

「我らの日用にちようの糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦す如く、我らの罪をも許したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」

「アーメン」

 さながら悪魔祓いの序幕だった。祓いを行う者たちが主の祈りを唱和する事で信仰の力を空間に満たし、悪魔の力を制限するのだ。

 悪魔祓いの担当はエンフィールド夫妻。そして祓われる悪魔は、麻來鴉である。

「一九九六年七月九日記録。この者は、少女の身でありながら悪魔を崇拝し、悪魔にその身を捧げ、宿らせた大罪人である。したがって私、スティーブン・エンフィールドと妻、リズ・エンフィールドが神の名のもとに悪魔祓いを執行する」

 何か冷たいものが顔にかかった。同時に、皮膚が焼かれるような痛みが走る。

「ぐぅっ……」

 聖水だ。闇の世界に属する者や、それに近しい者たちを焼く。呪われた怪物はもとより、魔女でさえも。

「無垢であろうと努め、真っ直ぐ見ようとせよ。平和な人には未来がある」

「背く者はことごとく滅ぼされ、主に逆らう者の未来は断たれる」

 次々と聖書の一節を読み上げる二人の声が麻來鴉の拘束をさらに強めていくかのようだ。魔力が体内をうまく通わない。

 ――操られているか? すでに彼らは敵の手に落ちたのか? 悪魔に魂を売った者たちの言葉や聖水が、何故神の加護を得ているのか――

 ……彼らは、本物か?

「聖なる水の裁きを――」

 ガラスの砕け散る音。一度、二度ではない。いくつも割られている。エンフィールド夫妻が床に叩き付けているのだ。聖水の入った小瓶を。

そして、部屋中がしんと静まり返った。スティーブンもリズも、夫妻は一言も発しない。

 床に流れた聖水が、奇妙な軌跡を描いて麻來鴉の足元までやってくる。一本、二本。いやもっと、もっと。

「マジか」

 思わず呟いた。どういう仕掛けか、砕け散ったガラス瓶から次々と水が湧いて出てくる。まるで魔法の泉だが、そのスピードが早すぎる。水の量は秒単位で増していき、気が付けば足首が水に浸かっている。じたばたと身を捩るが無駄だ。物理的に拘束されているうえに、魔術も夫妻が唱和する聖書の文言によって封じられている。

「ぐっ。はっ――」

 水はすでに胸元にまでせり上がっていた。水がぐっしょりと染み込んだ衣服が重い。エンフィールド夫妻も同様のはずだが、聖書を読み上げる声は止まらない。

水が喉元までやってきた。

「がはっ――!」

 麻來鴉の体は部屋中に満たされた聖水に呑まれた。

聖書を読み上げる夫妻の声が聞こえる。言葉は聖水を檻にし、重石にし、箱にする。麻來鴉の力が封じられていく。


 ――見ろ。水に浮いたぞ。この者は魔女だ。殺さなければならない!


 知らない男の胴間声どうまごえが聞こえた。どこかの広場の景色が見えた――笑っている。男。女。魔女と認められた少女を見て笑いをひた隠しにしている男女が見える。ジョン。メアリー……。それにもう一人。

 ――古い時代。古い記憶――閃きは稲妻の速度で、麻來鴉の体内に魔力を通わせた。

「好き勝手やってくれたじゃない」

 水の中で、しかし一言一句はっきりと麻來鴉は言った。

 いや、もはや水の中ではない。この水も、二人のエクソシストも、体を縛る拘束具ですら本物ではない。

「ネタは割れたわ。化け物のくせに悪魔祓いなんて、出来もしない事やってんじゃねえってのよ!」

 両目がターコイズブルーに爛々と輝く。放出した魔力が幻の拘束具を吹き飛ばし、水に満たされた部屋の幻影を消し飛ばす。

 麻來鴉は、再び店内に戻っていた。当然の事ながら、衣服はおろか髪の毛一本濡れていない。

 目の前には、ジョンが額から血を流してうずくまっている。

「……大したもんじゃないか。オレの幻術を破るなんてな」

 ジョンの足元に何本もの煙草が落ちている。規則に沿って並べてあったようだが、今は乱れていた。煙草の魔法陣。恐らくそれがジョンの術の触媒なのだろう。

 そして崩れた魔法陣の中心と思しき場所には、二つの頭蓋骨が並べられていた。

「捕まえた相手を過去の幻の中に封じ込める。それがあんたの術ってわけね。獲物の頭を欲しがるのは、過去のバリエーションを増やすため。獲物の脳から記憶を抜き出すため」

 二つの頭蓋骨には、同じ位置に同じ大きさの穴が開けられていた。

「二人を食ったのね」

「当たり前だろ。化け物の腹の中に飛び込んで来たんだから」

 口元に流れた血を舐めとりながら、ジョンがせせら笑う。真っ赤な血は、だんだんとどす黒く染まりつつあった。

「弱っちいエクソシストどもだった。メアリーごときに二人揃ってやられやがった。脳味噌の中はガキの事だらけだったしな。全く人間って奴は」

「さぞ味わった事でしょうね。彼らの記憶を」

 麻來鴉は静かに言った。さながら氷柱が落ちて砕けた深雪の夜のように。

「おや? 怒っているのかい、魔女のお嬢さん?」

 にやにやと笑うジョンが、くしゃくしゃのソフトケースから煙草を一本取り出して口に銜える。

「別に。退魔屋が死ぬのはどうしようもないわ。この業界では、死は常について回るものだから」

 麻來鴉の言葉に、ジョンは喜色を浮かべながら、銀色のジッポで煙草に火を着ける。

「二人の魂は今もここにある?」

「さあ、どうかな。頭はオレ、体はメアリーが食う。魂はマシューの物だ。おっさんが食いそびれてなければ、まだ残っているだろ」

「ならあんたと遊ぶのもおしまいにしないとね。子どもを待たせているのだから」

 ジョンの端正な顔が、不快な感情に醜く歪んだ。

「やってみろ。オレの幻術を破ったからっていい気になるなよ。お前は今も、オレ達の腹の中にいる事に変わりはないんだぜ?」

 帽子の下に隠れた麻來鴉の口元が、にっと笑う。

 青く光る魔力が、全身から迸った。両眼は宝石のように美しい。

「それではその腹、破ろうか」

「何ぃ?」

 ジョンの問いに、麻來鴉はただ右手を掲げる。指先から迸る魔力が空間にルーンを描き出す。

「〝落ちろシゲル〟」

 パチン、と魔女は指を鳴らす。

 ゴロゴロと、雷のひしめき合う音が聞こえる。

「……何だって――」

 ジョンが怪訝な顔を浮かべたその瞬間。

 遠く離れた雷雲の中から放たれた一本の槍が、呪いに

 覆われた店の屋根を突き破り、雷光のスピードでジョンの体を貫いた。



「ば、馬鹿な……」

 半分に裂けたジョンの体から、真っ黒な液体が流れ落ちる。まるでコールタールのような、腐臭を伴うおぞましい化け物の体液だ。

「ひとつ、嘘をついたわ」

 かつかつと靴音を鳴らしながら、麻來鴉はジョンに近付くと、その体を貫く槍を引き抜いた。

「これがわたしの魔法の杖。本当は最後の最後まで使わないつもりだったけど、そういうわけにもいかなかったわね。そこだけは褒めてあげるよ、ジョン」

 もはやジョンに答えるほどの余裕はない。すでに体は崩れ落ちる寸前だった。

「嫌だ……嫌だ……俺は、俺はまだ……」

 末期の言葉は、もはや声になっていなかった。

「ああ、くそ。マシュー、何でオレがお前なんかより先に……」

 ズブズブと音を立てて、半壊したジョンの死体はどす黒いコールタールになり、クラブの床へ吸収されていく。

「……さあ、いい加減出て来なさい。マシュー・ホプキンス」

 ずるずると、何かを引き摺るような音が暗闇から聞こえて来る。

「マ……ジョ……タマシイ……」

 ずるずると、厚手の布を引き摺るような音。子どもと見紛うような背丈の男。襤褸を身に纏い、フードを目深に被った、足元が見えているのかさえ怪しいよたよた歩きで、こちらへやって来る。

 虚ろな瞳は、もはやどこを見ているのかさえわからず、皺だらけの顔は何年、いや何百年現世に留まっているのか伺い知れない。わかるのは、その声に醜悪な貪欲さが染み付いている事だけ。

「タマシイ……ワタシノ……タマシぃぃぃぃぃ」

 ニタニタと皺だらけの顔が嗤う。

 かつて多くの罪なき者を魔女と断じ、その命を奪った魔女狩り、マシュー・ホプキンス。その亡霊。

 店の奥に潜んでいた主が、ようやく姿を現した。

「聞きたい事は一つだけよ。マシュー」

 スマートフォンの画面を向け、麻來鴉は問う。

「二人はどこ?」

 怪物となった男に、問いの意味が理解出来たのかどうか。呆けた表情で画面を一瞬見つめたマシューは、次の瞬間ケタケタと笑い声を上げた。

「ひっひっひひいひひひぃ」

 襤褸ぼろの内側から細い腕が伸びる。

 その手首に掛かっているのは、二つのロザリオ。

「食った食った食った食った」

 どろりと、麻來鴉の背後でコールタールめいた闇が広がる。触れれば魂まで溶かされる闇。さながらマシューの胃液といったところか。尋常ならざる呪力の量。

 だが彼女には満ち満ちた魔力と、槍がある。

「食う食う食う食う食う」

「それは無理よ、マシュー」

 コールタールが襲い掛かるよりも早く、麻來鴉の槍が白い光となって手の中から放たれ――

「食――」

 一瞬の稲光とともに、槍の穂先がマシューの頭部を蒸発させた。

 頭部の無くなった怪物の死骸から、麻來鴉はロザリオを抜き取る。ほぼ同時に、仕事を果たして戻って来た愛用の槍を見もせずに掴む。

 ロザリオを見つめながら、麻來鴉は言った。

「……行こうか」



  槍で破った壁の穴から外に出ると、スマートフォンを持った少年が麻來鴉を待っていた。胸にロザリオ。両親とお揃いの物だ。

「お待たせ。少年」

 そう言って、二つのロザリオを手渡す。おずおず伸ばされる幼い手に、しっかりと両親の遺品を握らせる。

 風が吹いた。少年の姿はすでにそこになかった。怪物どもと戦ってクラブは、跡形もなく消えている。

 残ったのは、チョコレートの箱だけだ。しゃがみ込み、麻來鴉はそれを拾う。

「もう一人で待つ事はないわ。これからは」

 空はすでにほの明るい青色を見せ始めていた。夜明けだった。




『チェルムスフォード深夜妖殺』了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る