続徳川の夫人たち/大奥の厠

> この御台所は、月事(生理日)の時は、けっして御用掛にお供を入れず、今までの御台所の慣習を打破した。



 小ネタ。

 「続徳川の夫人たち」の十三代御台所天璋院の記述から。「御用所」がトイレで、「御用掛」がその係です。

 この一行を入れる前に、六代の側室の月光院の記述で、「何もかも皆人の手をわずらわさなくてはならない」描写の一つに厠のことがありました。



> 将軍の御用所は黒塗箱に白砂を敷いて一回ごとに取り替える式だが、御台所方女性のは一生使える深井戸式なのは、貴女の排泄物を人眼にさらすのを避けるゆえだった。けれども彼女たちは御用所の内部にまでお供付で人手にまかせねばならぬ、月事(生理日)の時にさえである。

 将軍の姫と生まれて大奥で育つと、成人後もこうしたお供付になんの羞恥の感覚も持たぬ習慣がつくられる。京都の宮家や公家からの御台所方も同様であったが、月光院のように娘時代を普通の風俗で育った女性にはいかばかり迷惑千万であったか……



 こういうとこに端々に出てくる吉屋信子の価値観ってやつが興味深い。迷惑千万、って…… まあさすがに月光院が町人だった時はどうか判らないけど、確か江戸では女性の立ち小便もあったような。無論その後武家で仕込まれて、というのはあるけど、少なくとも吉屋信子が思うほど「嫌っ!!!!!」って拒否反応示すレベルのことだったかと思うとやや疑問。まあいいけど。


 それにしても、彼女の感覚ではルポ的書き方をした箇所では、トイレに関することや生理の処理とかがかなり重要事項になるんだろうけど、正編・お万の方主役のそれには描写は無かったような(笑)。アレは「物語」だからなんでしょうねえ。お万の方は御用所には行かなかったのかも。もしくは行くところを想像したくなかったのかもしれません(笑)。

 ちなみに、八代吉宗の時の大奥では、美人だから乞われた女性がこうやって侍妾になるのを拒んでる。



>「申すもおはずかしき事ながら遺尿症でございます……」

 消え入るようにおようはうなだれた。

 あっと篠野井は仰天した。遺尿症とは夜尿症のまたの名である。この眼鼻のととのった多芸な娘がそのような……上様の錦の衾を夜半しとどに濡らしては……



 ……いや、そこんとこどうにかする、とか、ヤッてる時にはさすがに、とか、それ自体が面白いとか思われないがろうかとか、どうせ周囲で見張っているならそういうとこで力を発揮しろよ、とかそういうツッコミはきっと通用しないんですね。


 てな訳で、以上三点、文庫版の下巻から抽出した厠関係描写なんだけど、三箇所。確か上巻には「音が洩れるのを嫌って入り口の手荒いのカランをあけて音消しにした」というエピが…… 音姫かい。


 ……まあ、こだわるなあ、と。

 何かアレですよ。吉屋信子の厠へのこだわりは「怖いもの見たさ」に感じるんですわー。あと「音姫」な描写も。江島ね。



> 奥御殿の奥女中詰所縁外には必ず竜首つきの蓋ある聖堂の大きな壷が石の上に据えられ下部のじゃぐち(カラン)とっ手をひねると水がほとばしる。これは彼女たちが御座所や御休息の間の御用を勤めに出る前に手を浄めるためだった。その聖堂の壷よりやや小型のが長局部屋の主人用の厠の手洗用にも備えられていた。江島はまずじゃぐちを開けて水音をたて、それから厠へ入ったという……内部での物音の外にもれるのをいとうたしなみだった。



 そんで美貌とかも。右衛門佐。



> 色が白いというより、氷のように透明でもし錐を立てても血は出ずに絹糸のようなひびが走ると思える。その氷塊を名工の鑿がみごとに彫り上げて唇に朱を点じ、黒曜石を眼にはめたかと“清冽”きわまりない美貌だった。



 さすがにこのひとに厠のシーンは書けないよなあ、吉屋信子。

 ちなみに凡庸で如何にも気が利かないように描かれている四代御台所の場面には「鼻紙」の説明が。



 ところでワタシはよしながふみの逆転大奥も大好きでして。あれは基本吉屋信子の話をベースにしているんだよな。展開とか。

 まあ差が極端にあるとすれば、ともかく吉屋信子の書く女達は男が嫌いだということだよな。正確には「男」という生き物、雄の部分というか、攻な生物というか。

 あとともかく吉屋信子がけなしている十一代家斉とその附近の人々を、よしながふみは「隠れた功労者」にした辺り。


 お万の方を究極とした吉屋信子の「理想」型ヒロイン達はともかく、「女」以外の部分で認められたいとか、

 「女」という生物である自分が嫌、というか。

 「だから」子供を産めない侍妾としていることに耐えられないお万の方は、おしとね下がりをして、他の「女」を家光に差し出す。

 自分は「女」であることから逃げておいて、その価値観は自分で独り占め、一人高潔、という傲慢さがあるんだよなあ。

 まあ最後には、その姿勢自体が一番傍に仕えてくれている藤尾に非難され、愕然とするという結果になるんだけどね。なのに心を入れ直そうとしたら翌朝既に藤尾は亡くなっていたという。


 まあそれは右衛門佐になると、そもそも吉屋信子の筆だと綱吉が「わるいやつ」になっているから、そんな奴のモノになってたまるか、というアレですし。

 右衛門佐は、どんどんおかしくなってく世の中に耐えきれず鬱のまま弱っていって亡くなるし。こりゃもう「生存欲」の否定だよな。


 全くもって、「本能」の否定なんだわ。

 つかそもそも「本能」のために作られた大奥でそれを否定するか、ってのですが。


 だからお万の方の仕切る大奥は「女学校」で、「**で見張られているから無理」と密通とかはありえなかった、清潔だった、と言ったりするんだけど。いや本能がうずくなら、そこんとこ、何かしら知恵を働かせるのが動物としての人間ってものでしょう。

 ただ吉屋信子という作家は、ともかく「本能」を否定したがるんでなあ。肉欲でも食欲でも生存欲でも。

 そういうのを意識でコントロールできるのが近代人だ、という時代に育ってそのまんま通してきたから、と言えば仕方ないけど……


 まあだからこそ、その辺りツッコミたくなるんだけどさ。​​​​​

 映画でその後起きた「大奥」ブームだったりしても、絶対に吉屋信子が思った様な「本能否定」的大奥は描かれないでしょ。無理があるんですよ。



 これを付け足して書いてる時点では、よしながふみの方も大奥も大政奉還してしまったくらいなので、もうじき終わり。

 そうしたら、誰かベースとなったこれと、よしなが大奥の比較研究をしてくれるとありがたいと思う。

 50年の差はどういう表現の違いを出してるか、だよな。

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