第57話 佇む
福田さんが家族と一緒に引っ越してきたマンションは、たまたま彼の上司の住む一戸建てのすぐ近くに建っていた。
彼自身は初めそのことを知らず、会社で上司に声をかけられて、ようやくそれを知ることとなった。
何でも、上司が煙草を吸いに二階のベランダに出ていた時、帰宅してきた福田さんの姿が見えたのだそうだ。
「お前、帰るの遅いんだなぁ。そんなに忙しいんか?」
「いや、飲んでたんで……」
福田さんがそう答えると、上司は「子供いるんだろ。早く帰ってやらんといかんぞ」と穏やかな声で言った。
福田さんがマンションに引っ越してきてから、何事もなく半年ほどが経った。
「福田、ちっと飲みに行かんか」
ある日、例の上司が珍しく誘ってきた。どこか歯切れの悪い顔をしている。
退社後、ふたりは上司の行きつけだという居酒屋に入った。最初の一杯がなくなりかけ、二杯目をそれぞれ注文したあたりで、上司が言いにくそうに切り出してきた。
「お前、引っ越して来てから、変なこととかないか?」
「いや、別に……変なことって何です?」
「お前ん家、二階の東の端っこだよなぁ」
「そうですけど」
「お前んとこの玄関の前に、たまに夜中に立ってる奴がいるんだよ」
上司が言うには、日付が変わる頃に煙草を吸いたくなってベランダに出たとき、それに気付いたという。
福田ん家はあそこかぁ……と、煙草をふかしながら何気なく目線をやると、玄関の前に人影があった。黒ずくめの後ろ姿しか見えないが、シルエットは女のようだという。
「もう何度か見たんだけどな。決まって夜中なんだよ、そいつがいるの」
「それは気持ち悪いですね……」
福田さんには心当たりがない。夜中に玄関を開けることが滅多にないので、玄関先に誰かが佇んでいたことなど、さっぱり気づかなかった。
上司は人望のある真面目な人物で、変な作り話をするような性格ではない。本気で福田家のことを心配しているようだ。
「お前んとこに悪いところがなくても、変な逆恨みしてくる奴はいるからなぁ。そういうこともあるかもしれんと思ってな」
「今度教えてもらえませんか? 誰かが立ってる時に」
「おう、わかった。でも無茶するなよ? 奥さんと子供もいるんだから」
「大丈夫です」
そう約束して、その日は別れた。
後日、福田さんの住んでいる地方に台風が近づいた。
彼はさっさと仕事を切り上げると、速やかに帰宅した。予報によれば、夜中のうちに台風は通り過ぎるだろうとのことだった。
「明日、学校休みになんないかなぁ」などと言っている子供を寝かしつけ、福田さん夫妻も床についた。
夜中、福田さんの携帯が鳴った。例の上司からの電話だった。
彼はあの約束を思い出した。さては奴が出たか、と電話に出ると、こわばった声が聞こえてきた。
『福田か? 今、絶対表に出るな』
「あいつですか?」
『そうだ。でも絶対に出るな。天気が気になって窓から外を見たら、お前ん家の玄関が見えたんだ。女の影が立ってる。それがその……俺が見てたらな、ググゥーっと大きくなって、天井に頭がついてな。また小さくなって元に戻った。それがまた大きくなって……』
その光景を想像すると、背筋がぞっと冷たくなった。
『福田、俺の言ってること、わかるか? 信じられるか?』
「はぁ……と、とにかく、開けません」
そう返事をすると、ほっとしたように電話は切れた。
その晩はもう、眠れなかった。
自分の目で確かめようという気も起きなかった。
あくる日の朝、福田さんは恐る恐る玄関を開けてみた。
横殴りの雨が叩きつけて、マンションの通路はびしょびしょに濡れていたが、彼の家の前だけは、コンクリートが丸く乾いていた。
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