第50話 子守唄

 今からもう三十年ほど前、伊原さん夫婦に男の子が産まれた。

 初めての育児に、二人とも戸惑うことが多かったが、奥さんのおかげで楽しかったと伊原さんは振り返る。

 枕元から人がいなくなると赤ちゃんが泣くので、伊原さんの奥さんはよく子守歌を歌っていた。奥さんの姿が見えなくても、歌声を聞くと安心するのか、子供は泣きやむことが多かったという。

 ところが歌ってばかりいると、奥さんもさすがに疲れてしまう。そこで伊原さんはラジカセを購入し、奥さんの歌をカセットに吹き込んだ。

 これが功を奏して、家事がしやすくなったと奥さんも喜んだ。


 夫妻の息子が満一歳を迎えた頃、不慮の事故で奥さんが亡くなった。

 突然の出来事だった。

 伊原さんは急遽、仕事と家庭の両方を担うことになった。実家は遠く、保育園やベビーシッターに頼りながらも、自らも家事や育児をやらざるを得ない。悲しんでばかりもいられなかった。

 家事をしている間、録音しておいた奥さんの子守歌がとても役に立った。伊原さんはいくつかのテープに歌声をダビングし、オリジナルは大切に保管することにした。

 ある夜のことだった。その日は台風が接近しており、窓の外で強い風と雨が荒れ狂っていた。

 いつものように子守歌を流しながら、いつの間にか眠っていた息子の枕元でアイロンをかけていると、突然部屋の中が真っ暗になった。

 暗闇の中、亡くなった奥さんの歌声だけが流れている。この歌が途切れると、寝ていた息子が起きてしまうことがある。伊原さんはほっと胸をなで下ろした。

 どうしたものかと思い、とりあえず立ち上がってカーテンを開けると、他の家々の窓も暗くなっていた。台風のために停電になったらしい。

 復旧まで待つしかない。やれやれとため息をついたその時、電気のない部屋で子守歌が流れているのはおかしい、ということに、彼はようやく気付いた。コンセントにつないで電源をとっているラジカセが、停電中に動いているはずがない。

 にも関わらず、歌声は続いていた。

「絵里子?」

 暗闇に向かって、奥さんの名前を呟いた。

 その瞬間、歌声が少し大きくなった。

 伊原さんは、息子の枕元に両手をついて、静かに泣いた。

 寂しくて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。それと同時に、奥さんが亡くなって以来、張り詰めていた気持ちがほどけるような感覚も覚えていた。

 停電が続いたおよそ十五分ほどの間、歌声は部屋に流れ続けた。


 不思議なことは、これっきりだったという。

 それから数年が経ち、子守歌がなくても息子が泣かなくなってからも、伊原さんは時々、カセットを流して奥さんの歌声を聞いていた。

 しかしある時、ふとオリジナルのカセットをラジカセにセットしたところ、ラジカセがうんともすんとも言わなくなり、カセットを取り出せなくなってしまった。

 いくつか修理してくれるところを回ったが、ラジカセを直すことはできなかった。

 それはちょうど、伊原さんの再婚が決まった頃だった。


 新しい奥さんの提案で、件のラジカセは台所の食器棚の上に置かれることになった。そこからは、家族が食事の度に集まるダイニングテーブルを見下ろすことができる。

 すでに息子さんは成長し、家を出ているが、ラジカセはまだそこにある。

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