第92話 あの人の恩恵

「……痛いなあ……もう……」



 額から流れる血を拭うことなく、アルジャーは立ち上がろうとする。

 ただ、足の腱まで撃たれているようで、なかなか立ち上がれないでいた。



 俺からしてみれば、ここまで水の弾を喰らっておいて、まだ生きていることが信じられない。



「なんでお前……死なないんだよ……」



 唖然としながらアルジャーを見つめていると、俺の独り言にアルジャーが答えた。



「それはね……あの人、、、、の恩恵を受けているからっすよ」

「あの人?」

「わかっているくせに」 



 意味深な言葉に突っかかっても、アルジャーはあっけらかんと言っただけで、静かに頬を綻ばした。

 こんな笑える状況ではないことは、彼自身だってわかっているだろうに。



 アルジャーを憐れむ一方で、ライザは蔑む瞳で彼を見降ろしていた。



「……死ななくても、これ以上のことはできねえだろ。そこで惨めにくたばってな」



 たとえ相手が死んでいなくても、勝負はあった。だからライザはこれ以上アルジャーに手を下すつもりはないのだろう。その証拠に、ライザはアルジャーから背を向けながら、煙草に火を点けた。



 それが、彼がアルジャーに見せた最初で最後の隙であった。



「ちょっと甘いんじゃないんすか、エルフさん」



 単調なアルジャーの声にライザが振り向くと、アルジャーはすでに立ち上がっていた。そして、震えた足で地面を蹴り、血が流れ出る両腕を掲げ、余力を振り絞ってライザに向かって飛びかかった。



「ライザ!」



 庇うように突っ込んでいく俺を見て、ライザは咥えていた煙草がポロリと地面に落ちた。



 俺自身、何が起こったかわからなかった。ただ、気がついたら俺はバトルフォークをアルジャーの胸元に突き刺していて、アルジャーが突いた長い爪はライザの喉元直前でピタリと止まっていた。



「……なんだ。ちゃんと槍の使い方、わかってるじゃないっすか」



 アルジャーの体から紫色の靄が出る。今まで何度も見てきた魔物が絶命するひと時だ。それなのに、どうしてこんなに怖いと思うのだろう。



 瞠った目でアルジャーを見つめていると、アルジャーは俺のフォークに触れながらフッと小さく笑った。



「じゃーね、お兄さん。あの人によろしくっす」



 それだけ告げると、アルジャーはフッと小さく笑う。

 そして紫色の靄に包まれた彼は、やがて跡形もなく消えていった。



 アルジャーがいたところにはコロンと紫色のコアが転がっていた。

 ライザがコアを拾い上げてまじまじと見つめている。紫色というのも初めて見るが、コアの中で紫色の炎のようなものがゆらゆらと揺らめいているのがここからでもわかる。色といい、揺らめく炎といい、なんとも珍しいコアだ。



 コアが出たということは、アルジャーはやはり魔物だった。あれだけ人間離れした動きだったのに、俺の中ではまだ彼が「人間かもしれない」と思っていたのだ。



 彼は人間ではない。このコアが証明してくれているのに、手の中に残る彼を突き刺した感触が戦いの後味を悪くさせる。



「ムギちゃん……ムギちゃん!」



 呼ばれた声でハッと顔を上げると、アンジェが心配そうな顔で俺のことを覗き込んでいた。



「大丈夫? 凄い汗……それに、体も震えてるわ」

「え? 噓」



 そう言われて自分の手を見てみると、確かに小刻みに震えていた。

 怯えている。それは自分が一番よくわかっていた。どうして怯えているのかも。何に対して怯えているのかも。



 抱いている恐怖を押さえ込むように震えた手を拳に変え、ふと顔を上げると、気の毒そうに俺を見つめるアンジェを目が合った。



 そんな彼の後ろでは、ライザが持っていた紫色のコアをポイッとリオンのほうに投げていた。

 反射的にリオンがコアをキャッチする。動作は荒いが、リオンにコアを渡したつもりなのだろう。



「……お前が持ってろよ」



 ライザに言われ、リオンは「いいの?」と尋ねる。

 しかし、今回の戦いはリオンの貢献度が途轍もなく高いから、俺もアンジェもコクリと頷いた。



 リオンは曇り空に向かって紫色のコアをそっと掲げる。ただ、コアを眺める中でも何度も目をしぼめ、ごしごしと目元を擦っていた。



「眠いんだろ? 無理するな」



「ほら」とライザがリオンの前にしゃがんで背中を向けると、リオンはとろんと目を垂らしながら、ライザの背中に腕を回した。



 リオンを背負ったライザは「よっと」と立ち上がる。その頃にはもうリオンは眠りについており、兄の背中で「スース―」と寝息をたてて眠っていた。

 その寝顔は、つい先ほどまで果敢に魔物と戦っていたとは思えないほど、いとけなく、安らかなものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る