第10話。時雨と喧嘩

 ボクは生まれてから一度も味わったことのない嫌悪感と向き合わなくてはならない。


 周りの人間はボクのことを冷めている人間だとよく口にする。だけど、ボクが腹の底に抱えた感情は灯火のように確かに揺らいでいた。


 ボクが柑菜かんなに対して行ったこと。


 それはボクが過去に味わったモノと同じ。


 だからこそ、強く否定しないといけない。


「……」


 今日は椿綺つばきの家には泊まらず自宅に帰って来た。柚子ゆずはボクの部屋で漫画を読んでいたようで、ベッドの上に寝転がっていた。


「お姉」


 ボクは柚子の傍に立った。


 柚子はボクの存在を特に気にしていないのか、近くに置いてあるお菓子の袋から次に食べるモノを取り出していた。


「太るよ」


「なにさ、いきなり!」


 柚子が体を起こした。それを見て、ボクは体を動かした。


「時雨……?」


 ボクは柚子に抱きついた。


 昔なら、体格にも違いは無かった。でも、今のボクと柚子の体は少しだけ違っている。それはこうして体を重ね合わせるほどよくわかってしまう。


 柚子の匂い。ネメシアの匂いだ。何故、柚子からそんな匂いがするのか、ずっとわからなかった。だけど、今のボクなら理解出来る。


 既にボクは壊れてるのだと。


「お姉。ボクはどうしたらいい?」


「私にはわかんないよ」


 柑菜と違って柚子の匂いはそれほど強くない。それでも意識をすれば、深く取り込まれる気がして怖くなった。


「でも、時雨の好きにしたらいいと思うよ」


 人間としての欲望。ボクが従うべきは自分自身の心か。それとも、ボクの半身である柚子の言葉なのか。


「なら、一緒にゲームがしたい」


 それはボクの中にある強い否定の感覚が出した答えだ。酷い現実逃避であり、何の解決にもならない。


「またゲーム?」


「うん。ゲーム」


 柚子がボクから離れた。


「よし。じゃあ、時雨。勝った方が相手の言うこと聞くってルールにしよう」


「ボクに出来ることなら」


「私はなんで命令していいよ」


 そう言って、二人でテレビの前に座ることにした。ボクが座ると脚の間に柚子が座ってきた。身長は変わらないのだから、それだと画面に見にくくなった。


 柚子は一人だとゲームをやらない。母親がボクと同じ物を柚子に買い与えてはいるけど、ほとんどが部屋の隅に積まれてホコリを被っていた。


 ゲームを初めて数分は柚子が操作に慣れる時間だった。それでもボクが柚子に負けるとは思わなかった。


「お姉。邪魔」


 柚子がボクの体に寄りかかってくる。柚子の体は熱くて、嫌になる。でも、突き放すようなことはしない。


「ハンデくらい、いいじゃんか」


 さっきから何度も柚子の方が負けている。やっぱり、初めからわかりきっていた。柚子は本気でやって、普通に負ける為にやっている。そうすればボクから柚子に頼み事をすることに負い目を感じなくなるから。


 柚子は何も考えていないように見えて、変なところで気を回す。それが空回って、周りから浮いてしまう。


 それが悪循環を生み出していた。ボクと同じくらい柚子も問題をかかえている。二人揃って、この世界では上手く生きていけない。


「お姉。ボクが一緒に死にたいって言ったらどうする?」


「やだ」


「お姉は死ぬのが怖いの?」


「時雨が死んだら、その分まで私が生きないといけないから」


 柚子はボクの死を背負うつもりなのか。柚子はボクが望めば、殺してもいいと言っていた。でも、それはボクが味わうべきだった苦しみを柚子に移すだけ。


「お姉って、何が楽しくて生きてるの?」


「私は死ぬ理由が無いから生きてるよ」


「じゃあ、理由があれば死ぬの?」


「うーん。どうだろうね」


 こんな会話にボクは何を求めているのだろうか。


「お姉。わざとやってる?」


 ゲームを繰り返して、何度目かの決着。柚子が一度も勝ってない状況でボクは疑問を抱いた。


「わざとやってるのは時雨の方でしょ」


 ボクが柚子の方を見ようとした時、柚子の体が大きく動き。ボクの体を押し倒してきた。そのままボクは床に押さえつけられ、柚子が上になった。


「私の言葉で縛ってほしいの?」


 ああ、やっぱり。柚子を騙そうなんて考えることが馬鹿だった。ボクがこの勝負に求めていたのは敗北だった。そうすることで、柚子から自分のやるべきことを命令して欲しかった。


「ボクは……あの子を……」


 自らの欲望に従うなんて、そんな生易しいものじゃない。アレは喉の乾きを潤す為に水を飲む行為のようなもの。それが当然のことだと思い込ませる自分が心の中にいた。


「時雨のそれって、勘違いじゃないの?」


「勘違い……?」


 柚子の言っていることが理解出来ない。


「時雨って、まだ自分のこと。子供だと思ってるでしょ?」


「……周りの大人から見れば、ボクもお姉も子供だと思うけど」


「違うってば。周りじゃなくて、自分がどう思ってるかが大切なの」


 そんなこと考えたこともなかった。


 柚子がボクの手を握ってきた。


「時雨。ほら、私の手よりも少し大きい」


「お姉が小さいだけ……」


「昔は私と同じ大きさだった」


「……っ」


 そうだ。ボクと柚子は双子として生まれた。


 だからこそ、似ているのが当たり前だと思っていた。顔も声も似ている。でも、いつからかボクと柚子が双子に見られることが減り始めていた。


「時雨。大人になるのが怖い?」


「違う……ボクは……」


 ボクはこの体に流れる血に呪われているだけだ。


 どれだけ強く否定しようとしても、呪いが心を蝕む。自分では抑えられない感情が溢れて、止められない。


「私は大人になるってよくわらない。でも、時雨のことは世界で一番知ってる。だって、私は時雨のお姉ちゃんだから」


 柚子はボクの鏡写しだと思っていた。だけど、ボクの考え方と柚子の生き方は全然違っている。次第にズレが大きくなって、ボク達は違う道を歩き始めるのかもしれない。


「時雨。私は時雨の味方だよ」


「だったら……」


 ボクは体を動かした。そのまま柚子の体を押し倒して床に押し付ける。簡単に動かせたのは柚子が抵抗しなかったからだ。


「ボクの全部を……」


 柑菜に向けた感情を今度は柚子に向ける。それだと問題は何も解決しないとわかっているけど、椿綺の世界を壊すくらいならボクは自分の世界を壊したかった。


「私でいいの?」


 よくなんかない。柚子はボクの姉で家族だ。


 ボクの抑えつけていた感情と共に吐き出せない苦しみに襲われる。柚子に手を出した瞬間、もう後戻りが出来なくなる。


 理性と欲望。その狭間でボクの心は揺らぐ。


「お姉……」


 ボクがやるべきこと。


「お願い……」


 それは柚子の言葉を信じることだ。


「ボクを止めて」


 ボクの口から吐き出された言葉。それが本心だったのかわからない。でも、その言葉はハッキリと柚子に届いていた。


 柚子がボクの体を突き離す。その時の柚子の顔は怒りと悲しみが混じりあった、苦しみの表情をしていた。


「時雨のバーカ!」


 その後、ボクと柚子は本気で喧嘩を始めた。


 ボクが柚子と喧嘩をすることは何度もあった。だけど、今日のように殴り合いの喧嘩をしたのは数える程しか無かった。


 柚子の容赦の一切ない攻撃が何度もボクを殴りつけた。それに反撃して柚子の顔を殴ると、その倍の力で柚子に殴られた。


 部屋の中はめちゃくちゃ。物を投げたり、割ったり壊したり。後先を考えない喧嘩の結末は両親が止めに入って、ようやく止まった。


 お互いに体のあちこちから血を流して、顔も腫れていた。なのに、そんな姿を見て、ボクと柚子はバカみたいに笑っていた。


「お姉。変な顔」


「時雨も変な顔してるよ」


 喧嘩の理由は最低最悪で、その理由を両親に話すことも出来なかった。


 でも、それでいいと思った。


「ありがとう。お姉」


 ボクの胸の中にあったモヤモヤが、今は少しだけ晴れた気がする。この痛みはボクが現実に目を向けるのに十分な痛みだった。

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