第19話。時雨と結末
「
青空の下。ボクに声をかけてきたのは
柚子とこうして顔を合わせるのは約一ヶ月ぶりのことだった。今日までボクはずっと
「お姉。話があるんだけど」
柚子が両手を上げて、自分の耳に当てていた。
「聞きたくない」
「じゃあ、聞かなかったらいいよ」
ボクは視線を柚子から川の方に向けた。
「お姉に聞こえないなら、これは独り言だけど。ボクは学校を卒業したら姫織と一緒に暮らそうと思う」
これはボクと姫織が二人で決めたことだ。同じ道を一緒に歩く。未来に待ち受ける困難も二人なら乗り越えられる気がした。
「姫織と一緒なら、ボクは余計なことを考えないで済む。ずっと誰も傷つけないで、生きられる。だから、この選択はボクは正しいと思ってる」
ボクは姫織の言葉を信じたい。
「そんなの間違ってるよ」
黙っていた柚子が口を挟んできた。
「時雨は幸せになりたくないの?」
そんな柚子の言葉を聞いて、ボクは少しだけ笑ってしまった。柚子の口にした幸せの意味なら理解出来るから。
「ボクは今が幸せだと思ってるよ」
「あ……時雨。もしかして、あの子に惚れたの?」
「どうだろう。今でも恋愛感情ってのはよくわからないけど。誰かを好きになりたいと思ったのは初めてだと思う」
まだ姫織のことを愛してるなんて、軽々しく口にするつもりはない。だけど、ボクの心に姫織が確かに存在していると感じられたから、ボクは姫織のことを本気で好きになれると思っている。
「ふーん」
柚子がボクの傍に歩いてきた。
「お姉?」
「おめでとう!」
柚子は元気な声と一緒にボクの肩を叩いてきた。
「痛いってば」
「弟の幸せを祝ってあげてるんだよ」
「だから、まだよくわからないってば」
ボクはてっきり柚子がもっと落ち込むものだと思っていた。姫織と暮らすということは、ボクが家を出て行くという意味なのに。
「お姉は……一人でも平気?」
「私、もう子供じゃないよ」
その時、柚子は少しだけ泣きそうな顔をしていた。
でも、涙を見せなかったのはボクを困らせると思っているからだろうか。ボクはたった一人の弟なのだから、遠慮なんてしなくていいのに。
「お姉。ありがとう」
ボクは柚子の体を抱きしめた。
「時雨。頑張ってね」
今のボクに柚子の匂いはわからなかった。
それでもボクはお姉の匂いが好きだった。
優しくて落ち着く匂い。
これが柚子の本当の匂いだと気づいたから。
「もういいの?」
橋を渡りきった先に姫織が待っていた。
「うん。まだボク達は家族を続けられるから」
柚子は姫織に気づいていたのか、ボクが二人を引き合せる前に走って逃げてしまった。柚子は元々姫織のことが嫌いだから、こうなることも予想はしていた。
「私、まだ柚子ちゃんとは話せてない」
「別にいいと思うけど」
「でも、時雨と結婚したら、柚子ちゃんは私の妹になるから」
ボクと姫織の関係は恋人同士とは少し違う。ただ二人で一緒に居ることが何よりも正しいと思った人間同士が、ただ隣り合わせになってるだけ。
もっと、お互いを知れば、好きになるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。そんな曖昧な関係なのにボクは姫織のことを誰よりも信じていた。
「それじゃあ、行こうか」
ボクと姫織は歩き出した。
わざわざ柚子を呼び出したのは、ちゃんと話をしておきたかったから。でないとこれからボクがやることは柚子を裏切ることになるから。
ボクは生まれてから一度も街の外に出たことがなかった。学校行事の修学旅行なんかは適当な理由を考えて休んでいた。
でも、今日は違う。
姫織と一緒に電車に乗ったのは、街の外に出る為だった。荷物はほとんど持っていないから、今日中には街に戻ることになってしまう。
電車の中で時間が経つほどボクの胸の辺りが気持ち悪くなった。それが顔に出ていたのか姫織がボクの手を握ってくれた。
「時雨、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ……」
本当は吐きそうだった。でも、今日のことを考えると食欲が無くなり、胃には何も入れなかった。だから吐き出せるものなんて何もない。
姫織と繋がれた手に自分の汗が出ていることにも気づいていた。きっと、今のボクは最悪な顔をしているんだと思う。それでも途中で帰るわけにはいなかった。
目的の駅に着いた時、外の空気を吸って落ち着くことにした。姫織はずっとボクの手を握ってくれていたけど、ボクの方から離すことにした。
「姫織。もう大丈夫」
「まだ顔に出てる」
ボクは自分の顔に手を当てて、いつも通りの顔に戻るように努力した。ボクが不安そうな顔をしていたら駄目だとわかっている。
きっと、それだと。
相手のことを傷つけてしまう。
「時雨。私がおまじないをかけてあげる」
ボクの頬に姫織の指先が触れる。
「なんとかなるよ」
「そんな雑なおまじない聞いたことない」
姫織の行動をくだらなくて、ボクは少しだけ笑ってしまった。姫織は頭がいいのに変なところで、よく分からないことをする。
だけど、ボクはマシな顔になったと思う。姫織の優しい笑顔を見ているとよくわかる。ボクが笑うと姫織も同じように笑ってくれるから。
「姫織はここで待ってて」
駅からしばらく歩いて、ボクと姫織が足を運んだ場所。そこにはアパートのような建物があって、今日の目的地でもあった。
「時雨。頑張って」
「うん」
姫織から離れてボクは一人で歩き出した。
建物の正面からボクは庭の方に向かうことにした。すると、庭では女性二人がバーベキューの用意をしていた。
すぐにはわからなかったけど、二人ともボクが知っている人だった。この場所をボクに教えてくれたのも二人だった。
「……っ」
ボクが声をかけるよりも先に二人の傍に男の人が近づいてきた。同時にボクの視線は下に向いてしまった。
「炭ってこれでいいのか?」
その人の声を聞いた瞬間、ボクは胸が苦しくなった。
でも、それは嫌な感覚とは違う。むしろ、感情が溢れ出て抑えられない。そんな感覚に近かった。
「……」
ボクはゆっくりと近づいた。
すると、ボクに気づいたのか、男の人が振り返った。ボクは顔を上げて、何度も練習していた言葉を口にすることにした。
「お兄。久しぶり」
ボクに気づいたのか、兄は驚いていた。
「時雨……お前……」
懐かしい顔。でも、ボクが忘れるわけない。
「あれから何年経っても帰って来ないから、ボクの方から会いに来たよ。まあ、お姉は一緒じゃないけど」
兄との再会を望んだのはボクだけだ。まだ柚子が会うべきではない相手。ボクだけが過去と向き合う覚悟を決めて、こうして兄と顔を合わせることになった。
「ねえ。ボクのことを抱きしめてほしい」
「いいのか……?」
「うん。お願い」
ボクの体よりも兄の大きな体が、優しくボクの体を抱きしめてくれた。それが嫌なほど暖かくて、安心するような感覚があった。
ボクにとって兄は柚子と同じくらい大切な家族だった。ボクと同じように兄は人生の中で道に迷ってしまい、ボクと柚子の前から姿を消してしまった。
でも、今のボクなら理解が出来る。
兄はボク達を本当に愛していた。
「お兄。ありがとう」
まだボクには誰かを好きになることの本当の意味はわからないけど。今のボクが一つだけ抱いた想いがあった。
姫織には幸せになってほしい。
例え、その役目がボクでないとしても。
相手を幸せを強く願うことが、誰かを好きになるって意味だとしたら。もうボクは姫織のことを好きになっていたのかもしれない。
でも、それはこれから先の話だと思う。
まだボクは歩き始めたばかりだ。
過去と向き合い、未来にも目を向けた。
だから。
もうボクは大丈夫だよ。
ちゃんと幸せになるから。
ボクのことを助けてくれて。
ありがとう。
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