第6話。時雨と親子

「眠っているのか」


 その声を聞いてボクは目を覚ました。閉じていたまぶたをゆっくりと開けると、椿綺つばきの顔が近くにあった。


「そっか。ボク、椿綺の家で……」


 出前で頼んだピザを食べた後、少し横になるつもりが眠ってしまったようだ。


 ボクが体を起こそうとすると、体に柑菜かんなが寄りかかっていることに気づいた。柑菜は目を閉じて静かに眠っている。


「柑菜とは上手くやれたみたいだな」


「上手くやれた?」


 椿綺が柑菜の頬に触れた。


「コレは私以外には懐かない。気安く同情を向けたりすれば、すぐに警戒をされてしまう」


 僕は椿綺に聞いてみたくなった。


「椿綺は柑菜が可哀想だと思わないの?」


「くだらない質問だな」


「ボクは母親としての考えを知りたい」


 椿綺は少しだけ考えるような素振りをする。


「もし、柑菜が自らの人生に絶望したのなら。私は多少なりとも責任を感じるだろう。だが、柑菜は自分と他人を比較出来る環境に身を置きながらも、自らが不幸だとは考えなかった」


「それが柑菜の本心だとわかるの?」


「ああ。私は柑菜の母親だからな」


 母親は万能な生き物じゃない。だけど、椿綺の言葉が冗談じゃないと感じるのは、ボクの母親と椿綺に血の繋がりがあるからだと思った。


 どれだけ厄介な人間だとしても、母親は誰よりも母親らしい。それは本人の性格というよりも、生まれ持った本能のようなものだと考えている。


「椿綺にはボクの考えが見抜ける?」


「不可能だ」


「じゃあ、お母さんのことは?」


「……アレは単純だから、理解しやすい」


 ボクは単純な方が扱いづらいと思うけど。


「理解が出来ても、仲良く出来ない?」


「馬鹿な犬の行動理由を理解したとして、それを受け入れられるかどうかは別の問題だ」


 椿綺の言っていることは理解出来るような気がする。母親のいたずらに悪意を感じないのは純粋な心で動いているから。


 それはまるで、子供のようで。羨ましいとすら思える。だけど、その分、母親の本心のようなものが読み取れなくなってしまう。


「ところで、時雨しぐれ。柑菜にピザを食べさせたのか」


「何か問題あった?」


「いや、時々なら問題はない」


 柑菜がピザなんて普段は食べれらないと言っていたけど。椿綺の反応を見れば何かありそうだ。


「説明してほしい」


「あまり好き勝手食べさせると、柑菜が太る可能性があるからな。ただでさえ最近は家に引きこもり運動不足だと言うのに」


「柑菜が太ると問題があるの?」


「ああ。柑菜が腕の代わりに使っているのは自分の脚だ。随分と器用に扱えるが、体格に変化があればそれも難しくなってしまう」


 椿綺の言っていることは正しいと思った。


「ごめん」


「謝る必要はない。私の説明が足りていなかった」


 椿綺は眠っている柑菜を抱き上げようとして、少しだけふらついていた。それが危なっかしいく見えてボクが立ち上がった。


「ボクが連れて行くよ」


「そうか……頼む」


 ボクは柑菜を抱き上げた。


 廊下を出てすぐの扉。そこが柑菜の部屋であることは扉に掛かっているプレートを見ればわかる。扉を引くと、部屋の中が見えた。


 最低限の家具はある。それに子供向けキャラの小物だったり柑菜が使いそうな物がある。だけど、部屋は綺麗に片付けられているというよりも、誰も触っていないというのが正しいように見えた。


 そんな部屋にあるベッドに柑菜を下ろした。




 ボクは一人でリビングに戻ってきた。


「やれやれ……」


 椿綺はソファーに腰を下ろしていた。


「椿綺の用事って、学校のこと?」


「学校は関係ない。久しぶりに私の姉が会いたいと連絡してきたからな。少し飲みに行っていた」


 その人のことはまったく知らない。そもそも椿綺でさえまともに会っていなかったから、姉の存在を知る機会はなかった。


「仲良いの?」


「ぼちぼちだな」


 少し椿綺の顔が赤くなっているように見えた。


「水、持ってこようか?」


「……冷蔵庫にペットボトルが入ってる」


 ボクはキッチンに方に向かい、冷蔵庫を開けた。


 冷蔵庫の中にはまともなモノが入ってはいない。


「椿綺って、料理とかしないの?」


 持ってきたペットボトルを椿綺に渡しながら質問をした。


「金を払えば美味い料理が簡単に食べられるというのに、わざわざ自分で作る必要があるのか?」


「そのお金も安くないと思うけど」


「所詮、私と幼い娘の分だ。たいした額じゃない」


 ボクは椿綺の考え方に疑問を抱いた。


「将来的にお金が必要になるんじゃない?」


「ふっ……」


 椿綺が息を吐くように小さく笑った。


「時雨が未来を語るか」


「そんなにおかしい?」


「ああ。時雨は未来に期待などしていないだろ」


 椿綺はペットボトルを口につける。


「私という人間は金の正しい使い道を知らない。趣味や嗜好品、自身に使わなければ娘を育てるだけの金は用意出来る」


 そんな話を聞けば、ボクにも次の疑問が浮かぶ。


「椿綺って……何が楽しくて生きてるの?」


 椿綺は空のペットボトルをテーブルに置いた。


「娘の成長だ」


 椿綺の嘘偽りの無い真っ直ぐとした言葉。それを聞いて、ボクは椿綺の言葉を否定したくなった。


「じゃあ、柑菜が大人になったら。椿綺は生きる理由を失うの?」


「失うとは断言は出来ないが……」


 椿綺がボクに向かって手を伸ばしてくる。


「時雨は私と一緒に死にたいのか?」


 ボクは気づいた。今、ボクが質問を繰り返しているのは柑菜や椿綺の為ではなく自分自身が死を受け入れる理由を探す為だと。


「死ぬことに理由があれば、許されると思うから」


 椿綺がボクの頬に触れてくる。


「何故、時雨は生きる理由を探さない?」


「この世界には生きるだけの価値がない」


「時雨の言う価値とはなんだ?今の人生に価値がないと判断する基準が存在しているはずだ」


 ボクがこの世界が無価値だと判断した理由。


「……何も、楽しくないから」


「そうか……」


 椿綺はボクから手を離した。


「人が自らから死を選ぶ理由なんて様々だ。しかし、楽しくないから死ぬというのは、随分とわがままな話だ」


「ボクがわがまま……?」


「この世界には無限に可能性が存在している。そのすべてを試すことなく、楽しくない。なんてことを口に出来るのは驚くべきことだ」


 どうせ、試した後の結果なんてわかっている。


「何故、時雨は挑戦もせずに判断が出来る?」


 ボクの考えを読み取るように椿綺が口にする。


「ボクにはわかるから」


「自分が冷めているから何もやっても無駄とでも言うつもりか。時雨はこれまでの人生の中で、一度でも熱を感じ事がなかったのか?」


 椿綺の言葉で柚子ゆずの顔が浮かんだ。


「私には時雨の考えを完全に理解出来ない。だが、時雨が自分を偽っていることくらいわかる。僅かな希望すらも握り潰して、目を背けるのは愚かなことだ」


 ボクは椿綺に嫌な感情を抱きそうになった。


「すまない。少し言い過ぎたみたいだ」


 椿綺がボクの体を抱き寄せてくる。それは母親とは違う感覚。姉が弟のことを何となく抱きしめるような。そんな感じだった。


「時雨。お前は自由に生きてくれ」


「自由に生きる……」


 椿綺は僕に死ぬことなんて望んではいない。


 あの日、椿綺がボクを助けたのは。


 死んでほしくなかったから。


「それでも、無理だと言うのなら……」


 椿綺が耳元で囁いた。


「全部が終わった後。私が一緒に死んでやる」


 ボクの体に椿綺の重みがかかる。そのままボクは椿綺に押し潰された。すぐに状況が理解出来なかったけど、椿綺が眠っていることに気づいた。


「ズルいよ、椿綺……」


 言いたいことだけ言われた。


 それに椿綺の言葉は呪いのようだ。


 ボクの心に刻まれて、すがりたくなる。


「ボクは平気なのに……」


 椿綺の体は重くて、持ち上げられない。腕に力を入れて、動かそうとした時、扉の開く音が聞こえてきた。


「……柑菜?」


 ボクの傍に柑菜が立っていた。


「時雨。おはよう」


「まだ夜だよ」


「じゃあ、寝る」


 柑菜がソファーの上に乗り込んできた。それはつまり、椿綺の上に柑菜が重なるということ。わずかに重みが増えた。


「どうして、こんなことに……」


 息が出来ないほどじゃない。椿綺だけなら無理やりどかしたのに、柑菜を落とすわけにはいかなかった。


 もしかしたら、椿綺はボクを逃がさないように掴んでいるのかもしれない。椿綺はボクのこと全然知らないと言っていたけど、よくわかっている。


 今、ボクの心は答えを求めて迷い続けていた。

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