氷点の水底

目箒

氷点の水底に落ちる

第1話 お別れは突然に

 部屋の中が明るくなったのを感じて、中堂は目を細く開けた。広いベッドで、馴染んだ匂いがする。ごろりと隣を向いた。

「おはよう」

「おはようございます」

 先に目が覚めていたのだろう神谷は、ベッドに肘を突いてこちらを見下ろしていた。中堂より少し背の低い男は、穏やかだがどことなく悪戯っぽい顔をしている。いつもは整えている、白髪交じりの黒髪も、今はぼさぼさだ。けれど、それ以上に、何か考えている顔が中堂は気になった。考えていることを、どう中堂に伝えたら、動揺してくれるか。そう、考えを巡らせている顔だと中堂は思った。

「何か?」

 夜の間だけでは満足しなかったのだろうか? 中堂の方が先に力尽きて寝入ってしまったから、神谷は物足りないのかもしれない。呆気なく寝こけた相手が起きたところで、続きを始めようとする心算だろうか。中堂より15歳ほど年上の神谷は、普段から気を遣っているのもあるのだろうが、体力は旺盛だった。

続きでも良いかもしれない……そう考えると、身体の内側で、夜中に燃え尽き掛かった火が、灰の中で赤く瞬く様な気がした。初めて寝た時にあった、男同士への抵抗感も、回数と時間を重ねる内に摩耗した。

 そう言うことだと思って、中堂は神谷の腰に手を伸ばした。相手は、犬にでもじゃれつかれたような微笑みでそれを見ている。

「……違うんですか」

 どうも神谷の方にそういうつもりがないことを悟って、中堂は手を引っ込めた。今度は神谷の方から手を伸ばして、中堂の頬を撫でる。

「きみは美しいね」

「はい」

 ずっと繰り返されたやりとり。初めて会った時から、幾度となく交わされている。四十二年の人生の中で、中堂の顔は美しいと誰もが言ったし、本人もそうだろうと思っている。だから、今更美しいと言われたところで、「はい」と言うしかないのだ。肯定の「はい」ではなく、相槌の「はい」である。

 何のつもりだろう。目を瞬かせて先を促した。

「そんな君を手放すのは惜しいと思っているんだけど……」

「……?」

 神谷の言葉に中堂は困惑した。今なんて言った? 手放す? 自分を?

「驚かないの?」

「驚いてますけど……」

 上手く言葉が出てこない。どう言うことですか、と尋ねるのも、冗談でしょう、と一蹴にするのも違う気がして、中堂は神谷の説明を待った。飽きられただろうか。


神谷は日本に何人いるか、と言うような、精力的に金を稼いでいる人間だ。いわゆる実業家というやつで、中堂との関係は、中堂が務めている会社が神谷の経営する会社に吸収される時に始まった。

「きみは美しいね」

「はい」

 いつもの様に相槌を打った。その何気ない返事が気に入られて、食事に誘われて、気が付けばベッドを共にしていた。仕事は辞めてしまった。職場の誰もが、その理由を知っていた。いや、逆だ。知られたから辞めた、と言うのが正解だ。人体実験で変容してしまった、かつての人間を見るような眼差しに気付いて、自分が居場所を失ったことを知った。

 尤も、その頃には今寝ている家を神谷から与えられて、仕事を辞めても不自由しない程度の生活をしていたのだけれど。実家の両親とはほぼ没交渉で──便りがないのは良い便り、と言うのを、彼の両親は信じていた──中堂の親しい人間は誰も知らないうちに、中堂は神谷の愛玩動物になっていたのであった。


 そんな男だから、中堂の他にも何人か愛人はいただろうし、その内には、中堂よりも神谷の意に添う人間がいるだろう。男の愛人が自分だけだとは思っていなかった。

 だから、飽きられたのだろう、と中堂は思っている。

「妻がね」

「今更、奥様の仰ることを聞くような人ですか、あなたが」

「そう言うところが可愛いんだけど」

 神谷の目尻に皺が刻まれた。彼は中堂がひねくれたこと、天邪鬼なことを言う度にこんな顔をする。

「妻がね、君の存在に気付いて」

「私の?」

「そう。つまり男だね。ね、前にあげたの、きみはつけてくれているでしょう」

「香りが好きなので」

 男性用オーデコロンだ。まさかそれだけで?

「これでも僕たち夫婦は仲が良くてね。僕の好みじゃないってところから、男の存在に気付いたそうなんだ。本当かどうかは知らない。探偵でも雇ったのかも知れないけど、雇うきっかけはあっただろうからね。やれやれ、女の嗅覚は侮れないな」

「……奥様は納得ずくかと」

 自分以外に、複数いる愛人の影に気付かない筈はない。中堂だけではないはずだ。それも、ずっと前から。

「女はともかく、男は我慢ならんと。理屈は知らんがそう言ってきたのさ。『寝ても良い男って、それはもう愛しているということでは?』と。そんなわけはない。可愛いとは思ってもね」

 中堂は黙っている。神谷はそれを了承と受け取ったのか、あるいは、中堂の意思などどうでも良かったのか──中堂は後者だと思っている──起き上がった。

「この家は元からきみの名義だ。良かったらこのまま使ってくれ。しばらく困らない程度の金は振り込んでおく」

「……はい」

 中堂は横たわったまま返事をした。それ以外に何が言える? 捨てないでくださいとすがることも、そんなの許さないと迫ることも、この人には意味がない。神谷は最後に中堂の頬に口づけると、

「惜しんでくれる?」

 返事はしなかった。神谷は笑って、ベッドから降りる。いつもの様に手早く身なりを整えて部屋を出て行った。

 もう戻って来ないであろう、おしまいの音を玄関のドアが立てる。中堂はそれを聞くと、のろのろと起き上がってベッドの上に座った。窓の形をした光が壁に浮かんでいるのを見た。

 続きの予感にくすぶっていた小さな炎が、浅ましく内側から身体を炙っている。


 火の始末を終えてから、ガウンを羽織って下に降りると、玄関の鍵はきちんと閉まっていた。合い鍵は持って行ったらしい。破棄するか、送り返すか、聞いておけば良かった。いや、でももしかしたら妻の目を盗んでまた来るかもしれない。

(そんな馬鹿な……)

 そんな甘い考えが現実にならないことは、中堂が一番知っている。彼は決めたら振り返らない。神谷が通り過ぎた後のものは、二度と彼に顧みられない。

 深い溜息を吐くと、中堂はコーヒーを淹れて食パンを焼いた。いつもの朝食。神谷がいてもいなくても食べている朝食。食器棚を開けると、二人分の食器セットの数々が目に入った。気分とスケジュールが噛み合った時に、昼夜問わずに訪れる神谷が、事の後で何か食べるときに使っていたからだ。中堂も相伴することが多かった。出張先の土産だとか、もらい物だとか、そう言うものを一緒に食べた。だからペアで食器が必要だったのだ。

(片方捨てましょうかね……)

 でも、今はそんな元気はない。トースターが軽快な音を立てる。中堂はのろのろと皿とカップを準備して、リビングのテーブルに持って行った。食欲なんてないと思っていたけど、一口食べると香ばしいトーストの食感と香りが呼び水になって、あっという間に一枚平らげてしまう。そこで彼は自分の空腹に気付いた。

 虚無を抱えても空腹にはなるのだ。

「……仕事……」

 仕事を探さなくてはならない。でも、履歴書に書かれた空白の期間について尋ねられたら何て答えよう? 愛人業をしていました。先方のご家庭の都合で失業を。つまり会社都合退職です、という冗談を、果たして好意的に受け入れてくれる会社があるだろうか。

 自分の発想のくだらなさに彼は笑った。

 笑いながら泣いた。

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