第2話 星川実里 2

 その日は朝から少しだるかった。

 熱っぽいような気がしないでもないが、少し疲れが溜まっているだけだろう。

 いつものように店で待機していると、指名が入ったので送迎の車に乗った。

 よく使うビジネスホテル。

 相手の男はどこにでもいるような、ごく普通の男性だった。

 いつものようにシャワーを浴び、キスをしてサービスを始めた。


 時間が経つにつれ、どんどんしんどくなっていったが、仕事を疎かにするつもりはない。

 ただ、その男は自分の不調を知っているかのように、なぜか随分と気を使ってくれた。

 そしてサービスが終わったあと、一気に意識が遠のいていった。

 その後、その男がなにかいろいろと気を回してくれたような記憶がぼんやりとあるが、気がつけば朝になっていた。


 妙な気分だった。

 体調がいい。

 よく眠ったから、というだけでは説明がつかないほど身体は軽く、意識がはっきりとしていた。

 数年ぶりの眠りから目覚めたような、そんな気分だった。

 隣を見ると男が眠っていた。

 昨日の相手だ。

 あらためて見るも、やはりどこにでもいるような男性だった。

 ただ、昨夜のことがぼんやりと思い出された。

 3時間サービスにも関わらず、1時間足らずで終わってしまい、そのあと延長までしてくれたことを。

 申し訳なく思った実里は、とりあえず追加でサービスすることにした。


(えっ……?)


 感覚が違っていた。

 いままで意識の中にあった壁のようなものがなくなっているというべきか。


 突然かぶっていた布団が剥がされた。


「おはようございます」


 男と目が合ったので一礼しておいた。


「では……」

「ちょ、ミサトちゃんなにやってんの!?」


 ドクンと胸が高鳴り、思わず男のほうを見た。

 その鼓動の意味を、実里は理解できなかった。


「あ、いや、昨日そう呼べって……」


 実里はそのことを覚えていない。

 いまの胸の高鳴りは、相手が知らないはずの自分の名前を呼んだことに対する驚きなのだろう。

 そうに違いない。


 それから実里は、これまで何度も繰り返したはずの行為に、初めて幸福感を得たのだった。


○●○●


「もう、帰るんですか?」


 彼を見送るためにホテルの外で待っていた。


「うん、そろそろ帰るよ」

「あの、朝食を……一緒に、どうですか?」


 帰ると言った彼を、なぜか引き止めていた。


「えっと、アフター……?」

「違います!!」


 自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。

 なぜだかわからないが、朝食の誘いが仕事の一環だと思われたことが、どうしても耐えられなかった。


「あの……すいません。あくまでも、プライベートです」

「ああ、いや、こちらこそ無神経なこと言ってごめん……。えっと、俺としては全然問題ないよ」


 自分のようなどうしようもない女の誘いには乗ってくれないのではないか。

 心配だったが、彼は応じてくれた。


 近く喫茶店で食事を取ったが、彼は見た目によらず大食漢のようだった。

 彼の前に並んでいた料理がどんどんなくなっていくのは、見ていてちょっと楽しかった。

 途中、自分が食べている姿をじっと見られたのには少し照れたが。


「たくさん食べるんですね」

「ああ、うん。なんか最近食欲旺盛でね」

「素敵ですね」

「はい?」

「あ、いえ、なんでもありません」


 つい言葉が漏れてしまい、彼を驚かせてしまったようだ。


(わたし、なに言ってるんだろう……)


 実里は自分の顔が熱くなるのを感じていた。


「また来るよ。そのときはよろしくね」


 朝食を終えたあと、帰ろうとする男の袖を、実里は無意識のうちにつかんでいた


「行ってもいいですか?」


 そんな言葉が口をついて出てきた。


「はい?」

「ダメですか?」

「いや、あの、行くって……?」

「家に」

「家? ……って俺んち!?」


 実里は無言でうなずいた。


「いやいやいや、遠いよ?」

「かまいません」

「かまいませんって……、新幹線で半日かかるよ?」

「いいです。行きます」


 実里はどうしても彼とこのまま別れるのが嫌だった。


「えっと、その、お仕事は……?」

「あ……」


 しかし、その言葉で自分が何者であるのかを思い出す。

 こんな女と、いったい誰が好きこのんで一緒にいたいと思うだろうか。


「……休みます……。でも、嫌ならいいです。無理言ってごめんなさい」


 実里は諦めてつかんでいた彼の袖を離した。


「え……?」


 なぜか、彼が自分の手を取っていた。

 そして、抱き寄せてくれた。


「行こっか、俺んち」

「……はい」


 彼の名を知りたい。


「星川実里です」

「ん?」

「私の名前です。だから……」


 だから、まずは自分の名を名乗った。


「ああ、そっか」


 実里を抱く彼の腕に、よりいっそう力が入ったように感じた。


藤堂とうどう陽一よういちです。よろしく」


○●○●


 夢のような時間だった。

 陽一の家を訪れ、彼と新居を探し、家具や家電を選んでいった。

 それはまるで恋人同士か夫婦のようで、この時間が永遠に続けばいいと思った。

 しかし、幸せを感じれば感じるほど、心の奥底にある暗い影がどんどん濃くなっていくのを実里は感じていた。


 ――自分が何者であるか。


 いくら楽しい時間を過ごしても、それが頭から離れなかった。

 楽しければ楽しいほど、幸せであればあるほど、胸の奥がどんどん苦しくなってくる。

 自分の正体を知ったとき、陽一はどう思うだろうか?


(いっそ全部話してみようか)


 陽一なら受け止めてくれそうな気がする。

 根拠はないが、なぜかそう思えた。

 都合のいい勘違いかもしれないのだが。


(でも、そのあとどうなる……?)


 義弟の顔が目に浮かぶ。

 全国に、いや、いまや世界に名を馳せる星川グループの次期総裁。

 自分がほかの男に寝取られたと知ったら、あの男は怒り狂うだろう。

 その矛先が陽一に向いたら……?


 実里は最後に一度だけ、すべてを忘れてただ陽一がもたらしてくれる快楽に身を委ねた。

 彼の体温を感じながら、片時も離れたくないと思った。


「……大好き」


 よくわからないが、たぶんこれは恋なんだろう。

 この先、人形のような人生が続くとしても、この身を焦がすような思いを知れただけで生きていけるだろう。

 このとき、実里はそう思っていた。


○●○●


 義弟が用意した部屋に戻った実里は、それからしばらくのあいだ抜け殻のように過ごした。

 そんなある日、電話が鳴った。


「もしもし? アカリちゃん? 体調どう?」


 最初、電話の意味がわからなかったが、アカリというのが自分の源氏名であることを思い出した。


「指名がたまってるんだけど、そろそろ出れないかな?」

「……はい。大丈夫です」

「早い時間からごめんねー」


 実里はいつものように送迎車に乗り、ホテルへ向かった。

 そこは陽一と初めて会ったホテルだった。


「あ……はぁっ……」


 ドアの前に立ち、ドアノブに手を伸ばそうとしたとき、急に視界が狭まるのを感じた。


「はっ……かはぁ……」


 突然息が苦しくなり、胸を押さえて膝をついた。


「あっ……ぐぅ……」


 どんどん視界が暗くなり、意識が遠のいていく。

 しかし、意識が途切れる寸前で、少しずつ呼吸が楽になってきた。

「はぁ……はぁ……」

 なんとか息ができるようになり、ひと呼吸ごとに楽になっていくのを感じた。


「ふぅ……」


 呼吸が楽になるにつれ、意識もはっきりとしてきた。


「やだ……」


 実里はそう呟くと、ホテルの外へ出た。

 駐車場で待つ送迎車の窓を叩く。


「……どうしました?」

「ごめんなさい」


 物腰の柔らかい中年の男の言葉をさえぎり、ひと言だけ告げる。

 持っていたスマートフォンを地面に叩きつけ、思い切り踏み抜くと、その場を走り去った。


「やだ……やだ……」


 呟きながら、実里は駆けていた。


「やだやだやだやだやだ……」


 ホテルの前で、陽一のことを思い出してしまった。


「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……」


 これから陽一以外の男に会うと思ったら、急に息ができなくなった。


「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……」


 陽一以外だれにも触れてほしくない。


「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……」


 自分がどこをどう歩き、なにに乗ってきたのか、一切の記憶はない。

 ただ、気がつけば、陽一とともに探したマンションの前に立っていた。

 マンションに入ると、マンションコンシェルジュが挨拶をしてきた。

 見覚えのある顔に、実里は軽く頭を下げた。

 オートロックの番号は知っている。

 手早く入口のドアを開け、エレベーターに乗った。


「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ……」


 もう義弟の顔すら見たくない。

 知らない男に触れられるなんてごめんだ。

 実里は陽一の部屋の前に立ち、インターホンを押した。


「はい」


 扉の向こうから現われた姿に、ドクンと胸が大きく高鳴る。

 彼のこと以外なにも考えられない。

 この男が、自分に恋などというものを教えたのが悪い。

 だから――


「――責任取ってください」

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