第22話 母と叔母

「ルドルフ、姉様はね――」


 そんな言葉から始まったベルの話はこうだ。


 ヴォルフスルーデル地方に存在する伯爵家はふたつ。

 ひとつはミルヒの実家であるホルシュタイン伯爵家で、もうひとつがラントヴィルト伯爵家だ。

 母マレーネは、ラントヴィルト伯爵家の長子である長女として生まれたが、生まれつき体が弱かった。

 武力が尊ばれるこの地方では、女性であっても強さが必要なのにも拘わらず。


 虚弱なマレーネが成人を目前にした14歳のとき、ラントヴィルトには現れないはずの高位の魔物が出現した。

 ラントヴィルト伯爵から要請を受けたヴォルフガング軍がやってくるやいなや、その魔物は簡単に討ち取られてしまう。

 そのヴォルフガング軍を率いていたのは、成人になりたてで若干15歳のイゴール・フォン・ヴォルフガング。

 当時はヴォルフガング家の継嗣だった、現ヴォルフガング辺境伯だ。


 イゴールは若くして”狂狼”の異名を持つほどの戦闘狂で、戦闘以外に一切の興味を持たないと言われていた武人である。……が、ラントヴィルトの地で目にしたマレーネに心奪われてしまい、いきなり求婚したのだ。


 オオカミのリーダーはつがいで戦う。


 これはヴォルフガング領を超え、ヴォルフスルーデル地方全体の常識だ。

 ヴォルフガング辺境伯家の次期当主であるイゴールに、戦えないマレーネは相応しくない、そう周囲に諭されるもイゴールは譲らない。

 そこから紆余曲折ありながらも、マレーネが成人すると同時に結婚した。


 マレーネが戦闘に役に立たないのであれば、もう一つの仕事である跡継ぎを生む、という仕事をこなせばいい。

 だがしかし、マレーネが虚弱体質のせいか、結婚から5年経っても一向に子が生まれなかった。

 その間に、戦狂いの”狂狼”と呼ばれたイゴールも、牙を抜かれたオオカミのようになってしまう。


 そして当時の辺境伯は、イゴールに強制的に側室を充てがうことを検討し、翌年には実際に娶らせたのだ。

 しかもその側室は即座に身籠り、一年後に長女グレータを生み、翌年には長男モーリッツと立て続けに子をなす。

 周囲からはマレーネを廃して側室を正妻に、との声も上がったが、イゴールは決して首を縦に振らなかった。


 そんなとき、王国が侵略戦争を開始した。

 僅か半年で目的地を陥落させたこの戦争は、通称”南征”と言われている。

 この南征は、王国軍……ではなく、ヴォルフガング軍の強さを世に知らしめるものであった。

 だが、最大の功労者である当時のヴォルフガング辺境伯夫妻が、戦勝騒ぎのさなかに亡くなってしまったのだ。――何故か死亡の経緯は未だに黙されている。


 偉大なる領主”白狼”を失ったヴォルフスルーデル地方は悲しみに暮れた。

 しかも跡を継ぐのは牙を抜かれ、もはや”狂狼”とは呼べないイゴール。

 民たちの心を占めるのは不安であった。


 しかし翌年、マレーネに待望の第一子が生まれた。

 それがルドルフ・フォン・ヴォルフガングだ。

 結婚から9年後のことである。


 これにより、失った牙を取り戻したイゴールは、低迷期が嘘だったかのように武力を示す。

 一方、長らく日陰者であったマレーネも、ギリギリではあるが正妻としての努めを果たせた。

 だがそれでも、肩身の狭い状況はあまり改善されていない。

 しかも元来の虚弱体質が祟ったのか、産後のマレーネは体調が優れない日々が続いていた。


 ルドルフの誕生から4年後、その間に更にもう一子をもうけた側室とは違い、居住地のヴォルフスシャンツェで床に臥せっているだけのマレーネは、口さがない者たちの言葉を耳にし、体とともに心をも病ませていた。

 そこでイゴールは、気候もよく長閑のどかで住み易い、それでいて領都ガングから一番離れたミュンドゥングで、マレーネを療養させることにしたのだ。


 後顧の憂いでもあったマレーネの件が一段落したイゴールは、今まで以上に魔物討伐に精を出した。

 それによりイゴールは、ヴォルフスシャンツェに戻らないことが増えたのだ。


 それから5年、両親のいないヴォルフスシャンツェで、ルドルフが暴君として君臨したのは周知の事実。

 イゴールの心情はわからないが、ルドルフの言動が目に余るということは聞かされているだろう。

 そしてマレーネは、自分を責めて悲観する日々を送っている。


「――だからルドルフ、私はヴォルフガング家がどうこうの建前ではなく、姉様の心の重荷をどうにかしたいの」


 随分と長いベルの独白だったが、あくびをしながら聞き流すこともなく、俺は真剣に耳を傾けたいた。


「私としては、ルドルフを矯正するのは骨が折れる作業だと思っていたわ。でも、幸か不幸かルドルフは心を入れ替えていた。だから次期当主に必要な知識を与えることに専念できたの。でも――」


 切れ長の目に気の強そうな碧い瞳で、俺を射殺さんばかりに見据えるベル。

 その迫力に、俺は思わず身を震わせた。そして――


「記憶がほとんどないのであれば、もっと根本的なことから教えないといけないじゃない! 知識がある者に知識を上積みさせるのと、知識のない者に一から覚えさせるのでは、当然教え方が変わるのよ! どうして早く言わなかったの!?」


 今日一番の雷が落ちた。


 俺の背筋は自然にピンっと伸びる。

 この人を怒らせちゃいけない。俺は本能的にそう感じた。


「ご、ごめんなさい……」

「はぁ~、3ヶ月もあればルドルフが何を知っていて、何を知らないかを聞き出すこともできたというのに、とんだ時間の無駄遣いだわ」

「…………」


 面倒くさがり屋なりに頑張っていたつもりでいたが、それでも面倒がってしまう部分があったのは確かだ。反省しなければ。


「一応確認しておきたいのだけれど」

「何なりと」

「ルドルフは自分の素行不良や、身から出た錆で評判が悪い自覚はあるのよね?」

「あります」

「それを直したい、覆したいと思う気持ちは?」

「あります」

「じゃあ、継嗣の座を射止め、次期辺境伯になる気は?」


 将来はボッチに戻ることを考えている俺からすると、そんな役割などお断りしたいところだ。

 だが後の脅威に備え、選択肢を広げる意味で継嗣となる道も用意しておいた方がいいだろう。

 まずは生き残ることが最優先なのだから。


「……あります」

「頑張れる?」

「頑張ります」

「それならいいわ」


 なんとも情けない。


「それからもうひとつ」


 そう口にしたベルはソファーから腰を上げ、なぜか俺の隣に腰掛けた。


「もう悪いことはしないでね」

「……ふぁ、ふぁい」


 よくわからないが、俺はベルに抱きしめられた。

 ベルの豊かな胸元に顔を埋める形になってしまい、凄く息苦しかったのだが、柔らかさに包まれると、俺は心の中が穏やかになってくのを感じた。


 俺は二度の人生で、母に抱きしめられた記憶などない。

 ベルは母ではなく叔母だが、母に抱きしめられるというのは、こんなに心地良いものなのだろか、などと考えてしまうも、今はこの心地良さに身を委ねることにした。



「さて若様、もう少しだけ私とお話ししましょう」


 どれくらいベルに抱きしめられていたのだろう?

 すっかり気が抜けていた間に、俺の方からベルの腰に腕を回していたようだが、その腕をベルにほどかれると同時に、”お話し”のお誘いを受けてしまった。

 あまり好ましいものではない、そう予感が警笛を鳴らすが、今の俺にお断りするすべはない。


「はい……」


 淡々とした物言いのベルだったが、キリッとした目の奥で俺と同じ碧色の瞳が意地悪そうに光ったのを見逃していない。

 覚醒初日に俺が壮年従者へ尋問したように、今度は俺がベルから尋問されるのだろう。


 嫌な予感は的中し、ベルからの尋問は長時間に及んだ。


 日付が変わってもまだ続いたベルからの尋問でわかったことがある。

 それは、俺には多少の教養がありつつも、知識という点では本当にダメダメだということだ。

 それでも尋問終了時に、ベルが深い溜息を吐きつつ疲れた表情を見せたので、軽くではあるが俺の溜飲を下げてくれた。


 そして悲しいかな、睡眠時間がいくら短かろうと、俺はいつもどおりの時間に起こされてしまう。

 しかも、9歳児の体には厳しい短時間の睡眠しかなかったところに、今日は朝食から食事マナー講座だ。


「ベル叔母……ベルさん」

「ベルで結構です」

「……せめてミルヒが滞在している間は、気兼ねなく生活させていただけないでしょうか?」

「そのようなへりくだった言葉遣いは必要ございません」

「うぅ……」


 叔母としてのベルは熱血漢だ。

 だが、感情が露わにされているというか、変にかしこまらないお陰で、ちょっと怖いが何気に嫌いではない。

 しかしお仕事もモードのベルは、淡々としていて無感情なところが冷たく感じ、どことなく恐ろしく思えてしまう。

 俺がほぼ記憶喪失だと知らなかった頃のベルは、淡々としていてももっと柔らかい感じがしていたのだが……。



 針のむしろに座らされたような朝食が終わると、なぜかミルヒと一緒にベルの講義を受けることに。

 そしてそれは、ミルヒがガングに滞在している期間中ずっと行われるのであった。

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