第10話 婚約者

 俺がルドルフの体で覚醒してから、早いものですでに3ヶ月が経過している。

 覚醒当時は、就寝時にまだ若干の肌寒さを感じたものだが、今では肌掛け一枚で事足りるようになった。


 ふぁ~あ、と軽くあくびをしつつ、すっかり馴染んだベッドの上で、俺はいつものようにむくりと体を起こす。


「おはようございます若様」


 すでに控えていたカールが慣れた様子で挨拶してくると、さっさと顔を拭けと言わんばかりに、湿らせたハンドタオル的なものをよこす。

 今ではすっかりお馴染みとなったやり取りだ。

 俺は無言で受け取ると、ガシガシを顔を拭いて無言のままカールに渡す。俺からハンドタオルを受け取ったカールもまた、何も言わずに俺の着替えを用意しはじめた。


 辺境伯家唯一の嫡子である、ルドルフ・フォン・ヴォルフガングの専属執事見習いとして相応しい装いのカールは、3ヶ月前までただの馬丁だったとは思えないほど、よどみなくテキパキと動いている。

 出会った日のカールは、アルプスで羊を追い回しているような服装であったが、そのうちその姿を思い起こせなくなりそうだ。


「おはようカール。今日もいつもどおりかい?」


 着替えをするためにベッドから降りると、そこではじめて俺が挨拶を返す。

 いつもどおりとは、午前中に講師からこの世界の知識などを学ぶ座学で、午後は剣術や乗馬など体を動かす訓練、という日程のことだ。

 わかりきっているやり取りなので、わざわざ聞く必要もないのだが、何故かこのやり取りが朝のルーティーンワークとなっている。実に不思議だ。


 ちなみに執事見習いのカールは、執事長という立場であった老齢執事のローレイに師事し、俺の世話は基本的に任せられるようになっている。

 ただの馬丁だった少年のスペックは元々高かったのだろう、俺以上のペースで様々な知識を吸収し、僅か3ヶ月で随分と執事らしくなった。

 ローレイに言わせるとまだまだらしいが、俺としては十分に思える。


 カールは”馬の世話が焼けても俺の世話は焼けない”、そう高を括っていて自活を覚悟していたが、今ではすっかり世話になりっぱなしだ。

 俺の専属になると発症するという精神崩壊もしてないし、本当にありがたい。


「本日は、ホルシュタイン伯爵家のお嬢様がお越しになります。お昼前には到着する予定です」

「え?」


 当然ように、『いつもどおりです』というカールの言葉が返ってくると思いきや、予期せぬ言葉が返ってきたため、俺は間抜けな反応をしてしまった。

 だが俺は、すぐに頭を切り替える。


「ホルシュタイン家のお嬢様? ……ああ、俺の婚約者というお嬢様か」


 他人に興味を抱かない俺がベースになっていたルドルフは、自身の婚約者にも無関心であったらしく、”そんな存在がいる”と軽く認識している程度だった。そのため、婚約者について詳しいことはわかっていない。

 とはいえ、俺とて他者と関わりを持つなど面倒極まりないと思っている。だからこそ、過去の俺の気持ちもわからなくもなかった。


 それはそうと、婚約者といえば面倒な人種の代表格だ。

 なにせ婚約者というのは、いずれ結婚して妻となる。

 妻というのは、生涯付きまとって夫の自由を奪い続ける極悪人だ。できれば関わりたくない、というのが本音である。

 しかし、貴族家の者としてそうも言っていられない。なんとなくであるが、それは俺も理解している。

 そして、今生の目的を果たすためには、我慢が必要なのも理解しているつもりだ。


 そんなわけで、婚約者であるお嬢様が到着するまで暇になった俺は、読書をすることにした。ちょっとした現実逃避……というわけでもない。

 日本人時代から読書好きな俺は、住む世界が変わった前世でも読書が好きで、それは今世でも変わらない。文字を追っていると、不思議と心が落ち着くのだ。


 意外なことに、この世界でも本が一般的に流通している。

 近世だか近代のようだった前世では、活版印刷も普及していて普通に読み物があった。だがいかにも中世ヨーロッパ的なこの世界で、本が流通しているとは思っていなかったのだ。これは嬉しい誤算であった。




「若様、お嬢様が到着されました」


 すっかり読書に没頭していると、カールから婚約者の到着を告げられた。


 ついに面倒な時間が訪れてしまったわけだが、逃げ出すわけにもいかない。

 俺は重い腰を上げて、婚約者の待つ応接室に向かった。


 カールの手により、応接室の扉が開かれる。

 自室と同様に派手さはないが、質の良さそうな調度品が程よく置かれた広々とした応接室は、床に少しだけ豪華さを感じさせるペルシャ絨毯っぽい赤系統の絨毯が敷かれている。

 そんな部屋の中心にあるソファーに、侍女を控えさせた少女が入り口に背を向けて座っているのが見えた。


 俺は慣れた足取りで、毛足の長い絨毯を踏みしめる。

 すると、俺の入室に気づいたのであろう侍女が、少女に耳打ちしていた。

 少女はおもむろに立ち上がり、くるりと体を反転させてこちらを向く。

 真っ白なかんばせにパッチリとした大きな目。その目に鎮座する漆黒の瞳がとても印象的だ。――が、少女はその大きな目を弱々しく細めて俯いてしまう。


 まああれだ、俺ってば嫌われ者だからな。この娘も嫌々会いに来てるんだろーし、この態度も納得だわな。


 少女の態度に、俺が機嫌を損ねることはなかった。むしろ、俺と対峙しても震えていないことを評価したくらいだ。


 ルドルフとして生活を始めて3ヶ月。俺と接する者の一部を除き、ほとんどの従者が一切俺と目を合わさないことには気づいていた。

 今までは俺自身が目を合わせることをしなかったが、今は意識して相手を見ていることで気づけたわけだ。

 とはいえ、俺に畏れを抱いているからこそ、俺の目を見られないのだろうと察しが付く。

 まだまだたったの3ヶ月。俺に対する負のイメージが、そう簡単に拭われないと理解している。だから我慢だ。

 『ルドルフイメージアップ作戦』は、まだ始まったばかりなのだから。


 そんなことを考えつつも俺は足を進め、少女の向かい側のソファーに腰を下ろした。だが、まだ挨拶もしていないのに座ってしまったことに気づく。

 やってしまったと思うも、ここで立ち上がるのもおかしい。はてさてどうしよう、そう考えていると――


「お、お久ぶりです、お兄さま」


 少女の方から、恐る恐るといった感じで挨拶をしてきてくれた。が――


 ――お兄さまってどー言うこと?


 俺の頭に疑問符が浮かぶ。

 目の前にいるのは、妹ではなく婚約者のはずだ。

 であれば、俺を呼ぶのに”お兄さま”という呼称は相応しくない。

 しかし、『なんで俺をお兄さまと呼ぶんだ?』と質問するのもおかしいだろう。


「やあ、久しぶり」


 だから俺は、とりあえず無難な返事を返してみた。

 コミュニケーション能力の低い俺だが少しは学んでいるのだ、挨拶を返すくらいお手の物である。

 一応、笑顔を作って軽く右手を上げてみたが、なかなかフレンドリーな感じを演出できたのではないだろうか。


 俺が自己満足していると、対面の少女は驚いたような表情をしていた。

 どこかおかしかっただろうか?


「ま、まあ座ってよ」


 俺は焦りつつも、淡い色合いのピンクのドレスを身にまとった少女に、着席するよう勧めた。

 あっけにとられた感じの少女だったが、後ろに控えていた侍女になにやら耳打ちされている。

 すると少女は、慌てた様子を見せながらも、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。


 行儀よく着席した少女を、俺は改めて観察する。

 前髪はパッツンで、後ろ髪は肩にかろうじて届いている感じだ。

 おかっぱというと野暮ったい田舎娘のイメージなので、この少女の髪型はボブというのが正しいのだろうか? 野暮ったさは感じない。

 貴族子女が短めの髪型なのは珍しいらしいが、牛乳を連想させるような乳白色の髪色も、これまた珍しいと思う。

 整った顔立ちをしているので、一般的にはカワイイとかキレイと言われる部類と推測する。

 年の頃は俺と変わらない……いや、彼女の方が年下だろうか。


 他者に無関心であった俺に、的確な判断などできるわけもない。

 あとでカールに、俺の観察眼が正しいか確認してみよう。


 少女の観察が終わると同時に、カールがこなれた感じでお茶を淹れ終え、俺の後方に控えた。

 執事見習いとして働き出して間もないというのに、長年執事を努めてきたような動きをするカール。

 彼は『ルドルフイメージアップ作戦』の駒として執事にしたのだが、想定外の成長は望外の行幸だったと思う。


 それはさておき、これから少女と話さなければいけない。

 はてさて、会話というのはどのように切り出すべきか。

 会話初心者の俺は、またもや考え込んでしまった。

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