25章 美味しさは元気から

第1話 お医者さまの人徳

 葛原くずはらさんはとても穏やかなお客さまだ。男性で、ふくよかな体格と下がった目尻、のんびりとした話し方が人の良さをにじみ出している。


 そんな葛原さんは内科のお医者さまである。以前は勤務医だったのだが、今では一国一城の主人。開業医だ。


 クリニックは電車の距離にあるクリニックビルの一室。事務員さんひとり、看護師さん3人で運営されている。


 そしてお住まいの最寄り駅がこの煮物屋さんと同じで、帰りに良く寄ってくださるのだ。独身のひとり暮らしで、家に帰ってもひとりでご飯を食べるのは味気なく、またここでワンクッション置いて、診察などで緊張した心を解されるのだ。


 葛原さんは今日もにこにことビールを傾けている。医者の不養生なんてことにならない様にと、飲み過ぎない様に気をつけておられるので、いつも瓶ビール1本だけをゆっくり大切に飲まれるのだ。


 今日のメインは鶏もも肉と卵と長ねぎのポン酢煮込み。ポン酢と水の割り合いは1:3。生姜しょうがとお酒と砂糖も加えてことことと煮込む。柔らかな酸味のポン酢を使い、さっぱりとした一品に仕上がっている。彩りには青ねぎの小口切りを散らす。


 小鉢のひとつはきゃべつと桜えびのごま炒めだ。ざく切りきゃべつを菜種なたね油で炒め、塩をしてしんなりとしたら桜えびを加えて香りが立ったらお酒を加え、香り付けのお醤油を鍋肌から回し入れたら、たっぷりの白すりごまを振って全体を混ぜ合わす。桜えびと白ごまの深い旨味が強い一品だ。


 小鉢もうひとつはごぼうと人参と絹さやのごまマヨネーズ和えだ。歯応えを残すために太めの千切りにした野菜をさっと茹で、白すりごまとマヨネーズ、少量のお醤油で作った和え衣で和えた。白ごまとマヨネーズの甘味が野菜の旨味を引き出した、しゃきしゃきとした一品である。


 葛原さんはちびりとビールを傾け、ポン酢煮込みの鶏もも肉を口に放り込む。


「ああ〜、これ本当にお酒に合いますねぇ〜。飲み過ぎない様にするのが大変ですよ〜」


 そう嘆息たんそくしながらもその表情は嬉しそうだ。葛原さんはその体型の通りたくさん召し上がれる方で、いつも大盛りでご注文される。大盛りは追加料金をいただいて、通常量の1.5倍をお盛りする。食べる量が多い方には好評なのだ。


「せめてご飯はお腹いっぱい食べてくださいね。私的にはもう少し飲まれても大丈夫じゃないかしら、なんて思ってしまうんですけど」


 佳鳴が少しおどけた様に言うと、葛原さんは「そうですねぇ〜」とのんびり言う。


「でも『今日も1本で抑えられたぞ』っていう達成感も良いものですよ〜。中瓶1本で500ミリはあるでしょう? 充分と言えば充分なんですよねぇ〜」


「そうですねぇ。中瓶はちょうど500ミリですね。缶ビールの大きい方と同じですものね。そう思うと確かに、おひとりでしたら充分な感じもしますけども」


「はい〜。悪いのは、ついついお酒が進んでしまう美味しいご飯ですよ〜」


「あら」


 おちゃらけた風に言う葛原さんに、佳鳴はくすりと笑う。


 煮物屋さんのご飯は優しい味付けだ。レシピによっては少し濃いめになるものもあるが、基本的にお醤油などの塩気は控える様にしている。その代わりに甘みや素材の旨味が引き立っている。


 一般的に味の濃いものがお酒やご飯に合うとされていて、確かに塩辛で日本酒なんてすばらしいと思う。佳鳴も千隼も大好きだ。だがこの煮物屋さんではご飯をたらふく食べて欲しい。だから優しい味付けを心がけているのだ。


 こうしたお酒を出す店の場合、利益が出やすいのは酒類である。だがこうした味付けと営業形態のためか、深酒をする様なお客さまは滅多におられなかった。


 何か嫌なことがあって、来店時には「今日はやけ酒!」なんておっしゃるお客さまも、佳鳴たちや馴染みのお客さまに愚痴ぐちをこぼしつつ、優しいご飯を食べると心をほぐしてくださるのだ。


「ビールが無くなったらブレンド茶で我慢です。でもできたらやっぱりビールで締めたいですよねぇ〜」


 そんなことを言う葛原さんに、佳鳴は冷蔵庫から出した缶ビールをちらりと見せた。135ミリのミニ缶だ。


 普段煮物屋さんではお出ししないものなのだが、葛原さんのために最近置く様になったものだ。罪悪感無く飲める量だと思っている。


「あ、あ、店長さん、それは目の毒ですから〜」


 嘆く葛原さんに、佳鳴は「ふふ」と小さく笑う。


「お身体の健康も大切ですけど、心の健康と栄養も大事だと思いますよ。ぜひ美味しくお酒とお食事を楽しんでくださいね」


 葛原さんは「ありゃあ〜」と弱った顔を見せた。


「医者の僕が言うことを言われちゃいましたよ〜。でも確かにあまり我慢するのも良く無いですもんねぇ〜。もし無くなったらいただきますね〜」


「はい。いつでもおっしゃってくださいね」


 そうしてまたお食事を続けていると、少し離れたところに掛けていた女性の常連さんが葛原さんに近付いて来て、こそっと「葛原さん」と声を掛ける。


「はぁい。どうされました〜?」


 葛原さんは手を止めてにこやかに応える。女性は少し不安げな表情だ。


「あの、私最近、下腹が痛いことがあって」


「下腹ですか。いつもですか〜?」


「いえ、時々です」


「お腹を壊したり、逆にお通じが無かったりとかありますか?」


「どちらも無いです」


「生理痛はどうですか? 重いですか?」


「そう、でも無いです。少しお腹が痛くなるぐらいで」


 すると葛原さんは少しばかり考えて、すぐににっこりと安心させる様な笑顔を浮かべた。


「お腹って、ストレスでも結構簡単に痛くなっちゃうものですからね〜。でももし続く様なら、婦人科の病院に相談されてみたら安心かも知れませんね〜」


「そ、そうですか」


 女性は幾分かほっとした様な表情になる。


「こんなところでまでごめんなさい。ちょっと気になったものだから」


 女性は申し訳無さげに頭を下げた。葛原さんは「いえいえ〜」と笑顔のまま。


「違和感があると不安になりますよねぇ〜。クリニックでは無いのでお話を聞くぐらいしかできないですけど、よろしかったらいつでもどうぞ〜」


「はい。ありがとうございます。本当に助かります」


 女性はまた頭を下げて、自分の席に戻って行った。


 葛原さんはお医者さまなので、世間話の中で愚痴の様に不調を訴えるお客さまもいる。そんな時葛原さんは「大変ですねぇ〜」などと言いながら耳を傾けて、ほんの少しばかりアドバイスをする。そんなことはしょっちゅうである。


 だが時折、こうしてやや深刻そうな相談事も持ち込まれる。そんな時葛原さんはまるで問診の様にお話を聞くのだ。


 クリニックでは無いので医療行為はできない。だから当然無償だ。だが葛原さんはどのお客さまに対してもにこやかに応えられている。


「これで少しでもご不安が減ったら良いですよねぇ〜」


 そうおっしゃるのだ。何とも頭が下がる。


 そんな葛原さんなので、きっとクリニックで患者さんにも慕われているのだろう。患者さんで満員御礼なのが歓迎すべきかどうかは複雑なところだが。

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