第2話 食べられるようになった理由

 煮物屋さんの仕込みをするかたわら、牛すじ肉の料理も作って行く。


 まず、牛すじ肉は水から茹でこぼす。あくと脂で、沸いた湯はあっという間に真っ黒になって行く。そのまま1時間ほど。


 その間に煮汁の準備。鍋で玉ねぎをしっかりと炒めてきつね色にしておく。


 牛すじ肉が茹で上がったら流水で洗い、包丁でやや大きめの一口大に切って行く。牛すじ肉は火を通してやっと包丁が入る様になるのである。


 それを玉ねぎを炒めた鍋に加え、さっと炒めたらフルボディの赤ワインを入れる。しっかりと煮詰めてアルコールを飛ばし、とろみが付いて来たら、缶詰のデミグラスソースと水を入れ、ローリエを乗せて煮込んで行く。


「よっし、牛すじ終わりっと」


 そう言って、ふぅと満足げな息を吐く千隼ちはやに、佳鳴かなるが「千隼」と声を掛ける。


「そろそろ煮物の味付けやっちゃって〜」


「お、はいはいっと。ありがとうな、姉ちゃん」


「どういたしまして〜」


 千隼が牛すじ肉に取り掛かっている間、佳鳴が煮物の下ごしらえを進めていたのである。


 その分、今日は小鉢を手軽なものにさせてもらった。しかし味は保証できるので、ご安心いただきたい。




 その日のメインは、豚肉を使った煮物だ。豚のかたまり肉と大根、ごぼうと茹で卵を柔らかく煮込み、彩りに塩茹でしたちんげん菜を添える。


 小鉢はきゅうりともずくの和え物と、白菜キムチと青ねぎのマヨネーズ和えである。


 それは19時を過ぎたころ、店のドアが開かれる。顔をのぞかせたのは須藤さんだった。


「いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませ〜」


 佳鳴と千隼はいつもと変わり無い様につとめながら、須藤すどうさんを迎える。そして須藤さんは少し元気が無い様に見えた。


「こんばんは」


 そう微かな笑顔で言って、カウンタに掛ける。おしぼりを受け取って手を拭くと、「ん〜」と困った様に眉を潜めた。


「あの」


 須藤さんが意を決した様に口を開く。


「はい」


 佳鳴が応えると、それでも須藤さんは少しためらう様に口をつぐみ、だがまた「あの」と声を上げる。


「今日のご飯は、牛肉は使っていないですよね?」


 確かに今日は豚肉を使った煮物がメインなので、佳鳴は「はい、使っていないですよ」と返す。


「ですよねぇ。あの、実は、私が入ってた宗教団体、解体したんです」


 と言うことは。


「もしかして、今日の新聞で見たんですけど、牛の像を崇拝している宗教団体がどうこうってあって。あれが」


「はい。うちです。薬物を使っていたのが教祖とか上層部だったことと、団体そのものがそう大きくなかったってこともあって、跡継ぎもいなくて、解体するしか無かったみたいで。新聞に載ったのは今日の朝刊ですけど、警察が入ったのは昨日の朝です。もううちの実家大騒ぎで、母から電話が掛かって来て大変でしたよ。何かの間違いだ、警察の横暴だって」


 須藤さんはそう言って苦笑する。ご両親は熱心な信者だと須藤さんが言っていたので、それは確かに大ごとだろう。信じたく無い気持ちもあるだろうが、実際にこうした顛末を迎えたのだから、受け入れるしか無いのだろうが、今はまだ難しいだろう。


「私も生まれた時から入っていた宗教なので、まぁ少し複雑な気持ちではあるんですけど、両親みたいに熱心じゃ無かったですしね。まぁこうなったらなったで仕方が無いかなって」


 そこで言葉を切り、「で」と言い、ごくりとのどを鳴らす。


「意図した訳では無いですが、信者じゃ無くなったので、牛肉を食べても良い様になりました」


「あ、そうですね!」


 そうだ。須藤さんは宗教があって牛肉が食べられなかった。だがその大元が無くなってしまえば、制限も無くなると言うことだ。


「なので、牛肉を食べてみたいと思ってるんです。なんですけど、何せ食べたことが無いので、もちろん味を知らないですし、私が美味しいと感じるかどうかも判らなくて。なので迂闊にステーキ屋さんとかに行くことも出来なくて。それにせっかく生まれて初めて牛肉を食べるんだったら、絶対に美味しいこのお店でいただけたらって。なので今度また牛肉の煮物の時に来ますね」


「はい。お待ちしていますね」


 佳鳴が言ってにっこり笑うと、千隼が「姉ちゃん、これ」と、メインの煮物の土鍋の横の鋳物ホウロウ鍋を指差す。


「ああ。なるほど」


 佳鳴が言うと、千隼は須藤さんに「少し食べてみますか?」と問う。須藤さんは「え?」と目を丸くした。


「少しお待ちくださいね」


 千隼は小鉢を出すと、鋳物いものホウロウ鍋から中身をほんの少し取り分ける。それを手に上の居住スペースへ。


 キッチンに入り、電子レンジを開ける。煮物屋さんでは電子レンジを使うことがほとんど無いので置いていないのだ。


 小鉢にラップを掛けて、レンジで温めるとすぐにラップを外し、下の煮物屋さんへ戻る。


「お待たせしました」


 そうして須藤さんに提供したのは、明日のランチ用にと仕込んでいた、牛すじ肉のデミグラスソース煮込みである。ほんの数切れを盛り付けた。それに小さなスプーンを添えている。


 須藤さんはそれをじっと見つめ、次に不思議そうな顔を上げた。


「これはなんですか?」


「牛のすじ肉を、デミグラスソースで煮込んだものです。洋風のシチューですね。定番なんですよ。デミグラスソースの味がしっかりしているので、もし牛肉の味が苦手でも大丈夫だと思うんですが」


 須藤さんは恐る恐ると言った様子でスプーンを取り、そっと煮込まれた牛すじ肉をすくい上げる。それをゆっくりと、そして思い切ったという感じで口へと入れた。


 じっくりと味わいながら噛み締める。その表情は徐々に輝いて行った。


「美味しい……! 牛肉美味しいです! わぁ、本当に美味しい!」


 そう嬉しそうに声を上げた。残りの数切れも次々に口に運んで行く。


「牛肉って本当に美味しいんですね! これは確かに人生の半分以上損をしていたかも!」


「お口に合って良かったです」


 千隼が言うと、須藤さんは笑顔で「はい!」と元気良く頷いた。


「今度は牛肉がメインの日に、思いっ切りいただきたいです。楽しみです!」


「牛肉は焼いたり炒めたりしても美味しいですから、機会があったらいろいろ試してみてください。これはすじ肉なので、赤身のお肉だったらまた味や歯応えも違いますし、ホルモンなんかもいろいろありますしね」


「あ、そうですよね。お肉売り場で見たことがあります。これからはそういうのにもチャレンジしてみたいです。調理の仕方が判らないんですけど、どこで食べられるんでしょうか」


「焼き肉屋さんとかホルモン焼き屋さんでいただけますよ。お友だちとご一緒されても良いかもですね」


「そうですね。私に「損してる」って言ってた友だちが牛肉好きなので、付き合ってもらおうかな。その時にいろいろ教えてもらおうっと」


「良いですね。楽しんで来てくださいね」


「はい!」


 須藤さんはそう笑顔で応えた。




「で、姉ちゃんも焼き肉が食いたくなったと」


「うん。さ、焼こう焼こう」


 須藤さんの牛肉デビュー日すぐ後の煮物屋さん定休日の夜、千隼と佳鳴は駅前の焼き肉屋で、七輪を挟んで向かい合っていた。


 まずは塩タンだ。炭で熱せられた熱々のあみに乗せるとタンはじわじわと縮んで行き、それが収まるとひっくり返す。薄切りなのでさっと焼くだけで大丈夫だ。


 焼き上がった塩タンをしぼったレモン汁でいただく。柔らかなタンが持つ甘みとほんの少しの癖、それがレモン汁と程よく調和して、口の中に広がる。


「あ〜美味しい! やっぱりタンは塩焼きが好きだなぁ」


 佳鳴がうっとりと目を細めると、向かいで千隼も「おう」と頷く。


「俺も。タンシチューなんかも旨いけどな」


「須藤さん、焼き肉行かれたかなぁ」


「どうかな。あの時はめちゃくちゃ感謝されたよなぁ」


「本当。うちのお昼ご飯少しお分けしただけだったのにね。お金まで払うって言われちゃったもんね」


「あれは断るのに骨が折れたよな。あんな少しだったし、金なんてもらえないって」


 その時のことを思い出したのか、千隼は小さく笑う。


 須藤さんは本当に嬉しかった様で、何度も何度も佳鳴たちに頭を下げ、ぜひ商品代を支払わせて欲しいと食い下がった。


 それを佳鳴たちは丁寧に何度も辞退し、どうにかこうにか引いてもらった。


「本当にうちのお昼をほんの少しお分けしただけなので受け取れません。またうちをご利用いただけたら、それで充分ですから」


 渋々ながら引き下がってくれた須藤さんは、「はい」と力強く頷いた。


「もちろん何度でも来ます。これからは牛肉の煮物の日も来れますから。私も牛肉が好きになると思います」


 須藤さんが信心していた宗教が失われたことは残念だったのだろう。だが熱心では無かったと須藤さんは言っていた。なら不謹慎かもしれないが、牛肉が食べられる様になって、なおかつ好きになれそうだと言うのから、須藤さんにとっては良かったのかも知れない。


 塩タンの皿が空になり、佳鳴たちは続々と運ばれてくるロースやカルビを次々と焼いて行き、その旨みを堪能たんのうする。


 須藤さんもこの幸せを享受きょうじゅされただろうか。だったら良いなと、佳鳴と千隼は絶妙に焼けたロースを口に放り込んだ。

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