第2話 決意

 サブスク。その言葉自体は知っている。定額でサービスの利用権を得る、最近流行りのビジネスモデル。

 一番世の中に浸透しているのは音楽サブスクだろうか。毎月定額で、数千万曲が聴き放題。いつでもすぐに解約でき、気が変わればまたすぐに再契約することができる。そんなサービスがここ数年急速に増えている。

 俺自身も音楽サブスクと電子書籍のサブスクを利用しているし、色んな業界でサブスクリプションというビジネスモデルが盛り上がり始めているのはよく知っていた。

 でも、このメールには何と書いている?


 殺人サブスクリプション。


 ――タチの悪いイタズラか。

 俺はすぐにそのメールをフリックしてゴミ箱送りにした。

 ああ、今日も疲れた。早く寝よう。


 俺はスマホのアラームをセットして枕元に置き、瞼を閉じて眠りにつこうとした。

 だが、中々寝つけない。会社の、特にクソ上司のことを考えてブルーな気分になってしまい、眠れなくなってしまうのは日常茶飯事だ。でも、今日の寝つきの悪さはそれとはまた違う理由にあった。

 なぜか頭の中から『殺人サブスクリプション』という言葉が一向に消えない。あのイタズラメールの文面が、何度も何度も脳内をループする。


『おめでとうございます。貴方は殺人サブスクリプションサービス、【コロホ】のベータ版に当選されました。以下のURLより専用のアプリをダウンロードして初期設定を完了させてください』


 ふざけたメールだ。何が殺人サブスクリプションだ。そんなサービスがあってたまるか。

 大体何なんだよコロホって。殺し放題の略か? イタズラにしても度が過ぎる。

 あんなメールのことなんてさっさと忘れろ。どこかの馬鹿のお遊びに付き合ってやる必要はない。

 

 ――でも。もし、本当だったら? 殺し放題。そんなサービスが実在したら?

 

 イメージしてしまう。あのクソ上司がいない世界を。俺は憂いなく会社に出勤し、頼もしい先輩達と一緒に業務に励む。

 仕事にやり甲斐を感じるようになった俺は、家族に心から言える。「全部、順風満帆だよ」と。


「……末期だな。俺」

 イタズラメールに希望を見出し、ありえない現実を妄想するようになった自分に辟易する。

 ちょっと考えれば分かるだろ。殺人サブスクなんて、この国でまかり通るわけがない。

 

 ――じゃあ、何であのメールを完全消去しないんだ?


 それは。

 自分の心の問いかけに、自分の心が口籠もる。

「ああっ! クソっ、早く寝ろよ俺!」

 俺はバッと体を起こして頭を強く横に振り、深呼吸した。

 そして再び枕に頭を落としたが、結局その日は深い眠りにつくことができなかった。


 ◇


 翌日もクソ上司はその本領を遺憾なく発揮していた。


「課長。A社との共同プロジェクトの打ち合わせについてなのですが……」

「忙しい。後にしろ」

 スマホ片手にコーヒーを飲みながら課長が呟く。

「しかし、なるべく早めに確認しておきたいことが」

「後にしろと言ってるだろ!」

 デスクを蹴りつける課長。その声がオフィスの喧騒の中に響き渡る。

 俺は仕方なく頭を下げ、自分のデスクに戻った。


「あいつほんとやべーな」

 椅子に腰を落とした俺の耳元で、隣の宮下さんが囁く。

「ほんと殺したい」

 その表情には冗談っ気が含まれていたが、心なしか目だけは本気だったように見えた。

 俺は何も言わず、ただ苦笑いすることしかできなかった。


 その日は何度か課長に声をかけたが、何かと理由を付けて追い払われてしまった。

 資料の作成のために確認したい点がいくつかあったのだが、今日は諦めるしかなさそうだ。

 溜め息をつきながら迎えた終業間際。俺は課長に呼び出された。


「A社とのプロジェクトの資料、あらかた準備できている頃だろ。今すぐに提出しろ」

「え? あの、資料はまだ作成途中なのですが……」

「なぜだ?」

「それは、課長にいくつか確認を取らなければ作成できない項目があったので……」

「ではなぜ確認を取らなかった?」

 目の前の中年が何を言っているのか、よく分からなかった。

 俺は今日何度もお前の所に行ったよな? お前が忙しいと言って俺を追い返したんだよな?

「あの、今日何回か課長にお声かけしましたが、お忙しいとのことでしたので……」

「ほう。俺が悪いと言うのかな?」

「いや、そういうわけでは……」

 何なんだ。何がしたいんだこいつは。プロジェクトの進捗を遅らせてまで俺をいびりたいのか?

「はっきりとしないな。ちゃんと答えてみろ。俺が悪いのか? うん?」

 デスクの上で指をカタカタ鳴らしながら課長が捲し立てる。

「とんでもありません」 

「そうか。では、お前の怠慢ということだな?」

「それは……」


 吐きそうなほどの憤りと嫌悪感が体中を駆け巡る。

 荒くなる息を必死に抑え込む中で、俺の中のある願望が急速に膨らみ始めていた。

 

 殺 し た い。

 

 落ち着け。冷静になれ。相手はクズだが仮にも上司だ。変な気を起こせば今後の俺の人生が台無しになる可能性もある。

 落ち着け、とにかく落ち着――「まったく、ウチの部署もとんだ無能を引き受けたもんだ! 蛙の子は蛙、無能の子は無能なんだろう。さぞかし親もロクな人間じゃないんだろうな。お前に似たマヌケ面が容易に想像できるよ、ハッハッ!」


 その瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが弾けた。

 周囲から音が消えていく。怒りで上昇していた体温が、嘘のように下がっていくのを感じる。

 プッツリと、糸が切れた操り人形になったような気分。


 殺そう。こいつを。


 自分がコケにされるのはまだ耐えられた。でも、誰よりも大切な家族を人前で馬鹿にされるのだけは死んでも許せない。

 決めた。殺す。何としても殺す。俺の人生なんざどうだっていい。ただ、俺の家族を貶める奴がのうのうと生きることだけは絶対に許さない。


「もういい、戻れ。そろそろ終業だ。今日はノー残業デーだし、資料はまた明日提出しろ」

 そう言いながら課長が欠伸をする。

「……はい。申し訳ありませんでした」

 俺は頭を下げて席に戻り、無言で帰り支度を始める。

「お前、大丈夫か? 何か急に顔色が……」

 どうやら宮下さんが俺の異変に気付いたらしく、心配するような声色で言葉をかけてくれた。

「大丈夫ですよ、ちょっとお腹下し気味なだけですから。じゃあ、お先に失礼しますね」

「え、終礼は……まあいいか。気を付けて帰れよ」

「はい。今日もお疲れ様でした」


 これから自宅でゆっくり、あいつの殺し方を考えなければいけない。

 早足で会社を後にした俺は、自宅に着くまでの間、心に芽生えた殺意をひたすらに育み続けた。

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