第8話 ナナさんはかく語れり

 寒い、とそのライヴハウスに入った瞬間俺は思った。

 空調が効きすぎなのだ。確かに外は暑いことは暑い。夏なのだ。もういー加減、夏休みも目の前なのだ。

 そんな、やや暇になった時期だった。

 期末のテストが終わり、点数つけのために午後いっぱいが休みになっていた。ちょっとばかりテスト勉強の関係もあってご無沙汰していた界隈へと、足を向ける気にもなるというものだ。

 ACID-JAM。誘われていたんだが、どうにもタイミングという奴が悪くて、ずっと来られなかった。部活の誘いを断り続け、途中に中間・期末テストをはさむと、意外に遊んでいるようでも慌ただしい日々だったりするのだ。結局俺は部活には入っていない。中学までは運動系だったが、どうも高校に入ってまでそれを続ける気力が無い。

 まあ全く勉強してない訳ではない。コノエの家に行った時なんかに、明日当たりそうだと思うと、その教科くらいはちらちら見たりする。

 それに、コノエがまた、ちょっと質問すると、これが実に簡単に答えてくれたりするからしゃくに障る。悔しいからそういう辺りは利用してやっていた。奴は実に俺の弱点である英語には強いのだ。

 外の大気はもう、むっとするほど濃い。特に今日は暑い。台風が近づいている、と「ズームイン・朝」で言っていた。湿り気満載。ぱたぱたと手で扇いでも、なま暖かい風が起こるぶんだった。


「でも半袖はちょっとまずいですよ」


 なのにこの暑い中でも長袖シャツをきっちり着ているコノエは、ライヴハウスに向かう間に言った。


「何で」

「何でって言われましてもねえ」


 そしたらこの空調だ。半袖の俺はいい加減震え上がった。


「何せ『冷凍庫』って呼ばれてるくらいだからね」


 また入り口で待ち合わせしていたタキノは、笑いながらそう俺に説明する。


「何だってこんなに温度下げるんだよっ」

「ごめんねー、これこうゆう奴なのよお」


 明るい声。あまりにも大きな声で喋っていたせいだろうか、カウンターでドリンクを配っているおねーさんが、笑いながら俺の独り言に答えた。


「こうゆう奴?」

「そうそう。あのね、このハコ昔はもっとでかかったのよ。その頃取り付けた奴だから、今の広さだと寒いの」

「それってあれじゃないですかね? 四畳半の40インチTVみたいなもの……」


 そうそう、とカウンターに両肘を乗せ、彼女は笑った。彼女自身は、紺色の半袖Tシャツを着ていた。慣れてるのだろうか。


「何呑む?」

「あ、オレンジジュース」


 俺は反射的に口に出していた。彼女の後ろで噴水のようになっているオレンジジュースが妙に目についたのだ。


「氷は入れないでくれる?」


 いいわよ、と彼女は言うと、二つに分けたふわふわの髪を揺らし、後ろを向いた。俺はポケットに入れたドリンク券をカウンターに置く。基本的にこのライヴハウスはドリンク券で何でも見られるという場所なのだ。

 コノエとタキノもそれぞれのドリンクを手にすると、のんびり見られる場所を陣取るべく、そこから離れていった。俺もそれに続こうと思ったのだが、できなかった。


「ねえねえ、もしかしてキミら、***の生徒?」


 彼女は俺達の学校の名前を出す。


「え? ……まあ」

「あ、そーなんだ。あたしね、キミらと同じ学校の子知ってるわよ」

「同じ学校のって……」


 そう言えば。コノエが初めて奴を見かけた時のことを思い出す。確かこのひとは。


「そいつって、マキノっていうんじゃない?」

「そうそう」


 ああやっぱり、と俺はうなづいた。


「友達?」

「……うーん…… クラスメートなんだけどさ」

「だろうね」


 彼女はやや複雑そうな笑みを浮かべた。


「あんまりあの子、学校のこととか言わないからね。まさかいじめられなんかしてないよね?」


 俺は首を横に振る。よかった、と彼女は胸に手を当てた。


「奴は良く来るんですか?」

「よく? うんそうね。今日も来てはいるんだけど」

「え? だってその辺では見なかったけど……」

「うん実はね、あの子今日熱出しちゃって。楽屋で寝てるの」


 楽屋で。当たり前のように言う言葉に、奴がこの界隈でどういう扱いなのか、何となく俺は判ったような気がした。可愛がられてるな。


「そういえば何か今日はぼーっとしてたなあ……」

「それでも学校は行ったのね。あの子」

「テスト…… も昨日終わったし…… 学校自体は休みませんねー…… 何でかなあ」


 そう言えば、そうだ。学校は休んだところなどほとんど見たことがない。


「うん…… 確かに。俺何にも知らないなあ」

「そんな気はした」


 ふう、と彼女は息をつく。


「なあんかね、気になるのよ。見てて不安」

「不安…… なんですか?」

「ちょっとね。何処がどうっていう訳じゃないんだけど……何となく。危なっかしいっていうか」

「へえ……」


 俺はカウンターに片ひじついて、ドリンクに少しづつ口をつけながら、なるべく平然とした顔で彼女の話に耳を傾けた。


「でも楽屋に居るってことは、今日出るバンドのどっちかの知り合いってことですよね?」


 かまをかけてみる。


「ええそうよ。今日三つ出てるでしょ。その中の、ベルファと結構仲がいいの。別に何かする訳でもないけど、うん、何となく、皆あの子が好きよね…… うん」

「皆、ですか?」

「ん?」


 綺麗に描いた細い眉と、同じ側の唇の端が、ぴんと上がる。そしてやや苦笑いになった。


「こら、何か考えてるの?」

「別に?」

「嘘だあ。キミ結構意地悪いんじゃない?」


 俺もまた、苦笑を返した。だけど知らないことは知らないし、知っていることは知っている。知らないことを聞きたいだけなのだ。


「あまり良くはないですけどね。おねーさんに話聞いたら、何か奴にキョーミが湧いてきたの」

「ふうん。それで、キミ……」

「カナイって言います。仮の名に井戸の井」

「あたしはナナよ。で、カナイ君、キョーミ持ってどうすんの?」

「別にどうもこうも。面白い奴だったら友達になりたいって思うだけで。何か他にあるんですか?」

「ううん、キミもバンドやってる子なのかなあって思って」


 キミ「も」?


「何で? 確かに奴はピアノ弾けるんでしょうけど」

「……ああ、そっか」


 そう言えばそうだったわね、と彼女は一人で納得する。


「何か他にあるんですか?」

「ううん、あの子ベース弾けるから、その関係かなあって思ったの。それだけ」

「ベース?」


 俺はプラコップを握りつぶしそうになった。


「そんなに驚くことかなあ?」

「……いや、だけど何か」


 くすくす、とナナさんは笑う。何となくあのマキノとベースという組み合わせがぴんと来ない。


「うちのベースが、あの子を結構気に入ってるからね。ベース教えてるみたい」


 ふうん、と俺はうなづく。

 そうこうしているうちに、客電が消えた。行ってくれば、とナナさんは言った。俺はプラコップを持ったまま、コノエとタキノのいるテーブルに向かった。


 ライヴが終わって外に出ると、やや風が嫌な感じになっていた。南東の方から吹く風。髪がふわっと舞い上がる。


「低気圧ですねえ」


 コノエは街の灯りが反射しているぼんやりとした空を振りあおぎながら言った。


「どーして低気圧なの?判るの?」


 タキノが訊ねる。コノエはこのなま暖かい空気の中でも、彼女を引き寄せて答える。空を指して、くるくると指を回してみせる。


「ん、ほら、大気の回り方がね。低気圧の時には上がってくんですよ」

「中学校で習ったよな、そう言えば」

「じゃ、わかんない訳よね」

「そうですね。仕方ない」


 ?

 時々こいつらの会話は判らなくなる。意味が確かにあるんだろうが、聞くことを何となくためらってしまうような、会話。それをあまりに無造作にするので、聞くタイミングを失ってしまうというのもあるが。


「おや」


 不意に奴は声を立てた。何、と問うと、奴はほら、と今度は指を立てた。

 裏手から出てくる人々。今日出ていたバンド達が、どうやら帰るところらしい。


「台風だから早く帰った方がいいんでしょうな。我々も早く帰りましょうや。カナイ君、キミはどうするんですかね?うち、寄ってきますか?」


 どうしようか、と俺は迷った。やはりあまり帰りたい家ではない。だけど、台風の中で一人待つあのひとを……考えるのも好きではない。


「今日は帰るよ」

「そうだね、それがいいよ。おかーさんが心配する」

「おかーさんは大切にしましょうね」


 俺は苦笑する。他の女の子が言ったら嫌みになるような言葉なのに、タキノが言うと、そうでもない。コノエもそうだ。こいつは言葉のあちこちに時々シニカルな色を見せるくせに、こういう時にぽろっと言うのは、奇妙にストレートだ。

 返す言葉がなかなか見つからなくて、俺は視線をやや逸らす。ちょうど視界には、出てくるメンバーの姿が入った。と。


「あれ」


 ベルファ――― BELL-FIRSTだった。何となく見覚えのある、派手な頭のヴォーカリストが、あのカウンタのナナさんと居るのが見えた。


「ああ……」


 何となく俺は、悔しいような気持ちになる。別に会ったばかりの彼女がどう、とか言うのではないが、やっぱり、ああいう人にはそれなりの彼女が居るのだな、と。

 店の前に、楽器を運ぶ時に使うのだろう、ワゴン車が止まっていた。何やら話し合っているようだ。俺は何となくそこから目が離せなかった。


「どしたの? カナイ君」


 しっ、と俺はタキノに合図する。やがて、他のメンバーがだんだんに出てくる。車の後ろが開いた。だが、楽器を積み込むのかと思ったら、それは違った。積み込まれたのは、バイク……やや大型のスクーターだった。

 おおいトモこれでいいのかあ、とあのステージの上で響いたいい声が、誰かに訊ねている。それに対する答えは聞こえない。答えの代わりに。


「お」


 コノエの両眉が大きく上がった。

 背の高い、黒っぽい上下。見覚えがある。確か、ステージの上でベースを弾いていた。その腕には、誰かが抱えられている。軽々と、抱きかかえられていたのは、やはり俺も見覚えのある――― ナナさんは、確か何って言ってたっけ……


「マキノだ」

「そのようですね」


 さすがに奴も気付いたようだ。


「熱出したって言ってたな」

「聞いたんですかね? あのおねーさんに。キミもなかなか」

「そんなんじゃないよ」


 だがそんな俺の態度にはおかまいなしに、奴は続けた。


「ああなるほど。それで送ってくと。でも彼氏一人暮らしですからなあ。熱出たって看病してくれる人が居るでなし」

「うん」


 どうするつもりだろう、と俺は何となく気になった。

 ワゴン車は結局、他のメンバーは乗せずに、ベーシストとその楽器と、バイクとマキノだけを乗せて、その場から走り去った。他のメンバーはメンバーで、別の方法で家路につくらしい。


「ま、ワタシ達も帰りましょうや」


 というコノエの言葉で、俺達も帰ることにした。

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