クロール。~彼と彼女と過ごした夏の終わりまで

江戸川ばた散歩

第1話 地下のライヴハウス

「おいコノエ、本当におごりなんだろな?」


 行き先に近づくにつれ、何となく俺は不安になった。

 普段は行かない地下鉄の駅。湿った空気。かなり古めの壁。タイルのつやつやした緑。

 思わず俺は前を歩く、本日の行き先のスポンサーの肩を掴んだ。

 奴は振り向いた。整った眉がぴくんと上がる。腰に手を当てて苦笑する。明るい色の短い髪が、外向きに飛び跳ねた。


「アナタもねえ…… たいがいあの学校の学園生なのに、せこいんではないですかね? カナイ君や?」

「だってなあ」


 そうは言っても、所詮高校生だ。なったばかりの。


「だから最初っから言ってるでしょう? オトモダチの一人が行けなくなったんで、無駄にするのが嫌なだけなんですってば。そりゃワタシも、払ってもらえたらそれにこしたことはないんですけどね」

「……」

「またそんな顔する。期待してませんよ、別に。ただチケットは今日のもう一人持ちだから、今すぐに渡せないんですってば」

「ならいいけどさ。今月金欠なんだよ」

「それはそれは」


 奴はひらひらと笑う。何処か道化た、標準語とはやや違うくせが端々に感じられる。色んな意味で目立つ奴だ。

 そんなこのクラスメイトが、何でまた、俺を誘うのだろう? 奴のクラスメイトではあるが、俺は特に友人とまで言える程ではない。

 割と有名な伝統私立、小中高一貫教育を歌う俺達の学校は、各過程進級の際、少しばかり外部の人間を入れる。だいたい一割。一学年にクラスは十あるから、外部の連中は各クラスに五人居る計算になる。

 うちのクラスにも無論、五人配置されているのだが、コノエその一人だった。

 奴が目立つのは、地毛だというやや明るい髪とか、180センチ越えた高い背とか、何か一つ一つのパーツがくっきりして整った顔立ちとか、そういう外回りだけのことではない。女子が騒ぐのは、そういう外回りのことが多い。俺なんかからすると、片ひじ立ててふっと笑う時の顔なんて、同じ歳の連中より、何か少しばかり上にも見える方が大事だ。

 俺自身は、まあ年相応に育ってきたって感じのルックスだ。それ以上でもそれ以下でもない。クラスに居ると、埋もれはしないだろうけど、飛び抜けて目立つという訳でもない。背丈だって、まあ低くはないんだろうが、奴ほどある訳じゃないし。

 それに奴の目立つというのは、外見だけではない。そもそも外部生っていうのは、厳しい受験をくぐり抜けて全国から集まってきた奴らなんだから、成績はいい。―――いいはずだ。

 さすがにまだ最初のテストの結果すら出ていないのだから、周囲と比べてどうのって、決定的なことは言えないのだが。

 けど何となく判る。例えば普通の授業態度。例えばちょっとした受け答え。そういったものでも、奴は答えに余裕がある。付け焼き刃でない、何か。

 そう言えば、男子の外部生はコノエの他に、マキノという奴が居る。まだ俺は特に話したことは無い。小柄で可愛いのだが、何となく声をかけ辛い雰囲気がある。これと言ってつるんでる奴も今のところ見当たらない。そもそも作ろうともしていないように見える。けど一人きりぽつんと暗いという訳でもない。ただふわふわと自分の世界を作っているような所があるように見える。

 とは言え、基本的に俺は人好きらしいので、声を掛けてくる奴には仲良くなろうって気が起きてしまう。このコノエの場合の様に。

 新学期である。

 となれば、出席番号順に席が決められてしまうのはよくあることだ。カ行の男子はこのクラスには少なかった。カナイ君のあとには、コノエ君。俺の後ろに、明るい髪。配られたプリントを回そうと振り向いてぎょっとした。視界に入った明るい髪。しょっぱなから奴は、堂々と居眠りを決め込んでいた。

 さすがにこりゃまずいんじゃないか、と突っつくと、本当に眠そうに、う~っとうめきながら顔を上げた。その時に目が合ってしまったのが、運のツキだ。

 今日も今日とて、部活とか決めていない暇な俺を、知ってるバンドのライヴチケットが余ってるからと連れ出した。

 地下鉄の駅から出てしばらく歩いた。見慣れない道だ。普段来たことの無い、ちょっとばかりごみごみとした通り。まだ五月にもなっていない夕暮れは、ちょっと肌寒い。


「お、居ました居ました」


 コノエはひょい、と手を上げた。

 その視線の向こうには、赤や黄色の電球がついている看板灯が道のへりに置かれていて、「不夜城」なんて書かれてる。奴はそのまますたすたとその看板灯の方へと進んでいく。


「遅いじゃない!」


 女の子の声がした。

 途端、コノエの表情が変わった。学校では見たことの無い程にあからさまに嬉しそうな笑い。看板の向こう側に小柄な少女が居た。何やらずいぶんと大きめのジャケットに、下はデニムの短パン。少し寒そうだけど、すんなりと伸びた脚は綺麗だった。長めのカラフルな靴下を適当に履いてるだけなんだが、それが妙に似合ってるから不思議だ。そしてその下に、ずいぶんと厚底のスニーカー。


「ああごめんなさいな…… でもまだ大丈夫ほら」


 奴はそう言ってその女の子に近づくと腕時計を見せる。手首を覆ってしまうくらい大きいそれは、文字盤も実にくっきりしている。


「ワタシがキミとの約束を破ったことなんて、ないでしょう?」

「そりゃそうだけどさあ?」


 彼女は首を傾げる。そして次の瞬間、俺の身体は凍り付いた。

 長い腕が伸びた。コノエは当たり前のようにその彼女をふわりと抱きしめた。そしてちょうど奴の胸のあたりに顔が埋まる彼女の頭をぐりぐりと撫でる。お前は何だ、欧米人か。

 相手は相手で、その腕を奴の背中に回してはすりすりと撫でている。大きな袖があふれかえったすき間から見えるのは、細い腕。何やら今にでもキスの一つでもしかねない奴らの様子に、初心な俺は赤面しそうになって目をそらした。


「で、これ、何?」


 そんな俺に気付いたのか、奴の腕ごしに彼女はぬっと顔を出す。大きな目を見開く。濃い眉。童顔だ。化粧気もない。いや、リップクリームくらいは塗っているのか? そこだけがちょっと赤い。でもそんな化粧など、必要ない程にくっきりした顔立ち。


「ん? ガッコの友達。カナイフミオ君っていうんだよ。キミも仲良くしましょーね」

「カナイフミオ君、ね? ふーん」


 ふーん…… って…… おい。

 そんな俺の驚いたマヌケ面に気付いたのか、コノエは彼女を抱きかかえたまま、向きだけを変えた。


「で、カナイ君、これ、タキノね」

「たきの?」

「タキノでーす」


 にこにこと笑いながら彼女は自己紹介をする。だけどそれ以上は二人とも言わない。曖昧な名前。名前なのか名字なのかさっぱり判らない。聞こうとしたら、コノエの言葉にそれはかき消されてしまった。


「チケット、渡してあげなさいな」

「んー?」


 どーしよっかなー、とかつぶやきながらも、彼女は上着のポケットから、チケットを取り出した。コノエはそれを受け取ると、数枚あるその中から一枚を俺に差し出した。


「あげますけどね、気に入ったら、ちょっと後で色つけてくれると嬉しいんですけどね?」


 はいはいと俺はそれを受け取った。

 手にしておや、と思う。

 サイズも小振りだし、何やら細いマジックで手書きの番号が書かれていた。コンビニで発券されるものしか見たことの無い俺には、なかなかそれは新鮮なものに映った。


「ねーそろそろ行こうよ」


 タキノはコノエの袖を引っ張った。はいはい、と奴はまたもや表情を変えると、俺にこっち、と合図を送った。

 合図のままに俺は動き出した。地下のライヴハウスなんて初めてだ。

 階段を半分だけ降りると、チケットのチェックがあった。そこで番号を確認されて、俺達は階段を再び降りる。

 空気が湿っぽい。壁のコンクリがカビ臭い。

 壁には、所狭しとポスターだのちらしだのが貼られている。凝った綺麗なカラーのものもあれば、何処をどう見てもコンビニエンスのコピー、というものまで千差万別、実に目に楽しい。

 開演時間も近いということで、客も結構入っていた。けど動き回れない程多い訳じゃない。前に詰めかけた連中はともかく、後ろのほうはゆったりと、休める程度のスペースがまた所々にある程度。

 慣れているらしく、コノエとタキノの二人は、その合間をするすると抜けていく。ちょっと待てよ、と俺は慌ててコノエの制服のジャケットの裾を掴んだ。


「何なの」

「何なのってお前、そんな、前へ……」

「だってカナイ君や。タキノは最初のバンドがお目当てなんだよね」

「最初の?」


 俺は慌ててポケットからチケットを取り出す。確かにそうだ。バンド名かと思っていたのは、どうやらその日のイヴェント名らしい。その下にちょろちょろと幾つかのバンドの名前が印刷されていた。

 ステージは暗転したまま、何やらごそごそと誰かが動き回っている気配。本当に時間通り始まるのだろうか、と何となく心配になる。

 スピーカーからは、耳にしたことはあるが名前までは知らないバンドのナンバーが延々と流れている。コノエは何だかんだと言って、タキノをかなり前のほうにまで押し出してやっていた。それについている俺も一緒ということだが。

 と、いきなりスピーカーの音楽が止まった。

 次の瞬間、何処かの線が数本ぶち切れたようなギターの音のけたたましいナンバーが響いた。ピストルズですね、とコノエのつぶやく声が耳に入った。

 タキノはそれが合図のように、コノエの腕の中からするりと抜け出すと、前のほうに群れている女の子の中に入っていった。


「お目当てなの。彼女の。哀しいじゃないですか。ワタシは取り残されるのですよ」


 はあ、とズボンのポケットに手を突っ込み、おどけた口調のコノエのつぶやきに、俺は否定も肯定もしないあいづちを返す。


「でも可愛いではないですか? ああいうのは見ているだけで楽しい」

「お前それじゃあ、オヤジだよ」

「ん? そーですかねえ? 至って普通だと思うんですがねえ」


 何処がだ。

 そう思いつつ、ばりばりと響くギターの音に、俺は見も知らぬバンドの演奏が始まったことを知った。背中しか見えないタキノはその瞬間から、腕を振り上げ頭を振り振り、実に楽しそうに踊っている。

 何処がいいんだろう、と俺はその演奏を腕を組んで見る。まあ別に下手って訳じゃあないんだ。と言うか、俺はそこまでいちいち聞き分けられる程、音楽を普段から聴き込んじゃいない。とりあえず耳障りではない、その程度にしか判断はできない。

 ただきゃあきゃあ騒ぐ連中の感覚はやっぱり理解できない。

 俺の斜め前に居るコノエもそのへんは同感らしく、視線こそ前へ行ってはいるが、それはバンドよりは、彼女のほうを見ているとしか思えなかった。

 気が知れない。それがその時の俺の正直な感想だった。

 だが数十分後に、それがひっくり返されることになろうとは。

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