第17話:人生美味礼讃・5

 電気を消してから何分経っただろうか。白花はなかなか寝付けなかった。

 普段は眠いときに寝る生活を送っているせいか、意識して寝ようと思うと途端に目が冴えてきてしまう。明日は朝が早いので、いつものようにNetflixで夜更かしというわけにもいかない。

 軍人は眠るべきときに眠るのも重要なスキルだという話を前にどこかで聞いた記憶がある。アンダーグラウンドの住人たちもそうなのかもしれないと思っていたら、ジュリエットが身体を起こしてベッドから降りた。

 ジュリエットはそのまま窓を開けてバルコニーに出ていく。


 夜更かし仲間を見つけ、白花もその背中をふらふら追ってバルコニーに出た。

 夏の夜の気持ちいい風が身体を通り抜ける。広いバルコニーは綺麗に手入れされた草木に彩られ、中央には小さな噴水まで置かれている。

 その隅にあるベンチでジュリエットは足を組んで座っていた。ミニバーの冷蔵庫から持ち出したワインで一人晩酌をしている。夜景を見つめてぼんやりする姿が絵画のように美しい。

 邪魔をしてしまったかと思ったが、ジュリエットは白花の姿を認めると、余ったグラスにワインを注いでサイドテーブルに差し出してきた。白花も隣に座ってグラスを傾ける。

 心地よい沈黙の中、ぼんやりと夜景を見ていると、妹の勤め先の上司に仕事ぶりを聞きたいような気持ちが湧きあがってきた。


「あのさ、黒華ってアンダーグラウンドだとどんな感じなの? 元気にやってる?」

「わたくしの見解で宜しければ、全く問題なくやっていると思われます。先ほどの交渉をお聞きになればわかる通り、彼女は察しが良く機転も利きます。連絡が付かなかったりとややマイペースなところはありますが、それをただちにフォローして有益な取引に変換できる要領の良さを持っております。更には『蚊柱』としてのスキルも極めて有用、控えめに見積もっても上の下以上には評価できる優秀な人材で御座います」

「その立派な才能を使ってアンダーグラウンドで何をしているのかな。管理局では極悪犯罪者扱いされてたけど」

「それはわたくしにはわかりません。しかし、彼女が管理局に追われる身だからといって、強い反社会的思想を持って活動するテロリストのように考えるのは一面的な見方であると言わざるを得ません。確かにアンダーグラウンドは一般には受け入れられない思想や行為が渦巻く裏社会ではありますが、その一方、表社会からドロップアウトした人々の揺り籠でもあります。特に後ろ盾を持たない若いブラウの場合、アンダーグラウンドに自分の居場所を求めて奔走する中で違法行為に手を染めることもあるでしょう。つまり、わたくしが言いたいのは、いかなる現在もその生い立ちと不可分であり、黒華様が今何をしているのかを知りたければ、それは血を分けた同胞である白花様自身が取り組むべきことだということです」

「あれ、いま私、説教されてる?」

「そう捉えて頂いて構いません。いかに依頼主やターゲットと言えど、他人の家庭環境に口を出すのは無粋の極みではあります。しかし、十代の少女がアンダーグラウンドに潜る理由を問われたのであれば、それは少なからず生育にあると考えるのは自然なことでしょう。結局のところ、黒華様がいま何をしているかを知るのは貴女の仕事なので御座います」


 ぐうの根も出ない正論だ。いつかきちんと考えようと思って後回しにしていたことをジュリエットから指摘されてしまった。

 そもそも黒華が白花の殺害を依頼した理由は何なのか。黒華は何を思って何をしているのか。ジュリエットと黒華の取引が無事に完了したとしても、それを解き明かさない限り白花にとってこの事件は終わらない。

 「妹と正面から向き合う」と言ってしまえば簡単なことだが、現状でも別に仲が悪いわけではないということが却って話をややこしくする。会えば普通に話はできるし、今でもまだ仲が良い姉妹と言っていいはずだ。喧嘩していて仲直りしたいとかいう状態では全くない。

 強いて問題があるとすれば、二人が共有していない時間が長くなりすぎたことだ。険悪ではないが疎遠ではあるのだ。彼女が何を考えているのかわからない理由がそのあたりにあるのは間違いない。

 グラスの縁を噛んでいる白花を見てジュリエットが助け舟を出す。


「相手がわたくしでもよければ、一度他人に話してみることも考えを整理する良い方法の一つだと思われますが」

「じゃあお願いしようかな。えーと、どこから話せばいいんだろう。仲が悪いわけじゃないけど、ここ二年くらい顔を合わせてなくて、両親が死んだのも原因の一つではあるかもしれないんだけど……多分決定的なことではなくて……」


 ジュリエットは白花のグラスにワインを注いだ。まだ飲み切っていなかったのだが、再びグラスの縁まで届いたワインを口元に運ばざるをえない。


「わたくしとしては、姉妹にしては少し年齢差が大きいところが気になります。そのあたりからお話しになられてはいかがでしょうか」

「そうだね。六歳差で、今は私が二十三だから、黒華が十七のはず。今でこそ二人とも二十歳前後ってことになるけど、成長が早い子供の頃は私の方が何倍も年上だったかな。そもそも、六歳差もあると同じ学校に通うことが無いんだよね」


 白花が中学校に上がった頃、黒華はようやく小学校に通い始めた。

 それまでは白花が幼い妹の面倒を見ることも多かったが、それぞれが別々の学校に通うようになると、姉妹で一緒に過ごすよりは学校の友達と遊ぶことの方が多くなる。家族全員ならともかく、姉妹二人で何かをした記憶はあまり残っていない。


「で、私の大学の入学式くらいで両親が事故で死んだ。私が十八だから、黒華が十二のとき。私はもう割と大人扱いされる年齢だったから、どこかに引き取られるようなこともなくて、そのまま二人暮らししてた」

「それは白花様が黒華様の親代わりになったということでしょうか。二人とも未成年とはいえ、十二歳に対する十八歳は実質的な保護者だと思われます」

「やっぱりそう思う? でも私はそうしなかったし、黒華がそれを求めたことも無かったよ。それぞれ勝手に好きなように暮らして、遺産を適当に引き出してリビングに置いといて必要なときに必要なだけ持ってく感じ。保護者っぽいことをしたのは……うーん、免許を取ったあと、私の運転でどっか行ったときくらいかな」

「一般論としては小中学生の健全な生育環境とは言い難いですが、黒華様ならばそれで特に問題なかったのでしょうね」


 夜の新宿からは小さく唸るような音が聞こえる。バイクがエンジンをふかす音、誰かが喧嘩をしている音。それらがたまたま共鳴して増幅されたとき、街全体の雄叫びになって明るい夜空に響くのだ。


「そうだね。どちらかと言えば私の方が色々聞いて助けてもらうことが多かったかな。二人ともインドア派だから家にいることが多かったけど、私が小説を読んだり映画を見たりしてる横で、妹はだいたいいつも本を山のように積んでパソコンの勉強してた」

「なるほど。あの若さでAtCoder黄ランクの技術力をいつ培ったのかが疑問でしたが、それで腑に落ちました」

「アトコーダーって?」

「エンジニアのスキルコンテストのようなものです。まさか御存知ないのですか? 黒華様はアンダーグラウンドではエンジニアとしても一目置かれており、高い技術力を活かしてハッカーとして活躍されていることも多いですよ」


 ジュリエットは宙に持ち上げた両手を伏せ、十本の指をバラバラに上下させた。キータイプのジェスチャーだ。


「へえ、私と違って理系なのは知ってたけど、そんな特技があったんだ」

「特技で片づけるにはレベルが高すぎます。元々極めて高い素養があったことは前提として、完全に放任された家庭が黒華様にとっては一人で自由に研鑽を積める環境として良い方向に作用したのでしょう。そして恐らく、中学生二年生か三年生頃から黒華様はあまり家に滞在しないようになったのではありませんか?」


 街の唸りが止まる。さっきまでの地響きが嘘のように、不意に訪れた静寂がバルコニーを包んだ。

 ランダムに鳴り続ける騒音は共鳴して増幅されることもあれば、ぶつかり合って相殺することもある。定常状態が訪れないが故の無秩序だ。


「なんで知ってるの? 確かにそのあたりから外泊が多くなって、高校に上がる頃には全く帰ってこなくなったね」

「黒華様がアンダーグラウンドに現れたのがその頃だからです。何か大きな事件を起こして注目されたというよりは、ちょっとした仕事を上手く回せる堅実なプレイヤーとして重宝されていました」

「へえ、ちゃんと人様のお役に立ってたんだ。てっきり、なんかもっと悪い不良になったのかと思ってた」

「確かにもっと昔なら、十代の不良少女がその身一つでできることは売春くらいしかなかったかもしれません。しかし、インタポレーション以後のアンダーグラウンドではもっと多様なスキルが評価対象になります。弱肉強食の世界であることは、能力さえあれば老若男女問わず重宝されることと裏表です。黒華様は『蚊柱』としても技術者としても十分なスキルがありました。学校で授業を受けるよりもアンダーグラウンドで依頼を捌く方が性に合っていたことでしょう」

「そっか。なんかアンダーグラウンドで自己実現してたみたいで良かったよ。黒華が家出してから不幸な目にあってないかずっと心配してたんだ」


 料亭で飲んだ分も合わせてだいぶ酔いが回ってきた。頭がぼんやりする。腰に体重をあずけてベンチに寄りかかる白花の顔を、ジュリエットが前から覗き込む。


「本当にそう思っていますか? お言葉ですが、本当に心配して黒華様のことを調べていたのであれば、彼女のエンジニアとしての才能くらいは知っていても良さそうなものです。プログラミング関連の書籍を大量に購入していたのなら、少し工夫して調べればコーディングコンテストの痕跡くらいには辿り着けるでしょう。それに、黒華様が完全に行方をくらましてから、白花様は捜索願を出しておりません。それを咎めるつもりはありませんが、率直に申し上げて、白花様の黒華様に対する関心は薄いという印象を受けます」

「そう言われると辛いけど、この世でたった一人の肉親だし、心配してるのは本当だよ。幸せになってほしいのも本当。陳腐な言葉だけど、黒華のことを愛してるつもりだよ。ただ、黒華自身の人生を私が気にかけたり干渉したりするつもりはないんだ。幸せになってほしいけど、そのために私が手を貸すような関係ではいたくない。黒華が崖に向かって突っ走っていくのを止めるのは私の仕事じゃない。憎まれたくはないけど、感謝されたいわけでもない」

「つまり、お互いに干渉しない関係でいたいということでしょうか。この際なので申し上げておきますが、白花様の他人に対する無関心さはそれに限ったものではありません。管理局では、黒華様の殺人だけではなく、交際があったはずのヴァルタル様の死亡に対しても全く動揺がありませんでした。一般的に言えば、知人が知人を殺すという事件は人生のトラウマを作るのには十分なイベントです」

「少し薄情っていう自覚は無いわけじゃないよ。でも、黒華についてはそうじゃないんだ。上手く言えないけど、むしろ逆のような気がする。私は黒華とは他人として接したくない、姉妹の絆を社会的な人間関係にしたくない、黒華の前ではペルソナを使いたくない、私が主格で黒華が目的格の行動をしたくない……」

「では、もしそうやって距離を置き続けている間に黒華様が落命していたらどうしたのでしょうか。それでも彼女を助けなかったことを後悔しないのでしょうか」

「そうなったら、黒華の死体の隣で私も腹を切るよ。自分が死にそうなとき、一生懸命助けてくれるより、黙って一緒に死んでくれる方が私は嬉しい。無条件の運命共同体でいること、それが私にとって理想的な関係」

「やはり姉妹ですね。以前、黒華様ともこうしてお話しする機会がありましたが、そのときも……」

「そのときも?」


 ジュリエットはグラスを深く傾け、残りのワインを一気に喉に運んだ。


「いえ、やめておきましょう。プライベートな会話を他人に漏らすのはマナー違反です。あとは白花様御自身で黒華様とお話し下さいませ。もういい時間です、そろそろ明日に備えて眠りましょう」

「そうだね、話を聞いてくれてありがとう。ジュリエットとはあと二日の関係みたいだけど、これからも宜しくね」

「どういたしまして」


 ジュリエットは立ち上がると、ワインの瓶を逆さにして飲み切れなかった余りを噴水の中に流し込んだ。

 循環式の噴水が薄いピンクを夜空に巻き上げ、跳ねる飛沫が夜の光を反射した。

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