第155話 妄想 野戦病院(気の弱い人は読まないように)

 某スポーツ競技場


 銀色に輝く急造の大型酸素タンクに有名酸素製造企業のタンクローリーが液体酸素を補給していた。低温のため、タンクローリーの周りには白い霧が発生している。

 簡易的な屋根のついたブロック塀には黒い酸素ボンベが転倒防止の枠に固定されて、延々と並んでいる。酸素タンクが設置されるまでは、ここに並んだボンベから、酸素が供給されていた。一時は医療用酸素ボンベが不足して、工業用の酸素ボンベを転用するところまで追い込まれた。


 配管が整うまでは、酸素濃縮器や酸素ボンベが、ベッドの脇に置いて使われていた。

 酸素濃縮器は、その場の外気を利用して、酸素を濃縮するため、多数の患者が集まった臨時医療施設では、機器内部が汚染される。このため、臨時医療施設では、使われなくなった。主に、個人宅の在宅治療で使われる。吸気口に紫外線と静電集塵装置を付加した機種が開発中といわれている。


 駐車場には移動式のCT検診車が2台停まっていて、ストレッチャーに載せられた患者が、数人順番待ちをしている。


 競技場の正面玄関には、救急車や、民間救急車がひっきりなしに到着し、カバーをかぶせたストレッチャーや車椅子に乗せられた患者が、PPEを装着した看護士や救急隊員によって、競技場の中に運び込まれていく。


 競技場の中には、整然とパーティッションで区切られて、ベッドが並び、天井からつられた仮設フレームから配管が降りてきて、各ベッドに酸素が供給されるようになっている。

 300床あるベッドはほとんど埋まっている。各ブースには、異常を知らせる赤いパトランプがついている。 いくつかのベッドでは、パトランプが点滅している。

 奥のほうには、テントで作られた簡易ICUが10個並んでいる。

 これは、アウトドアメーカーと医療機器メーカーが共同開発した試作品を使っている。


 天井には、仮設のダクトが数メーターおきに設置され、強力な換気を行っている。

 壁際には大型空気清浄機とパッケージ空調 天井には、深紫外LEDランプが仮付けされている。排気は、念のため強力な紫外線ランプで殺菌してから屋外に排出される。

 隅のほうには、初期の頃に使った黒い酸素ボンベが大量に転がっている。

 さらに、観客席には消毒、洗濯が間に合わないリネン類がビニール袋に詰め込まれ、いくつもの山になっている。


 内部は喧騒に包まれていた。

 看護士も、ドクターもほとんど小走りで動き回り、ストレッチャーや、医療機材を積んだ台車とぶつかりそうになっている。目の粘膜からの感染が無視できないため、防護メガネやフルフェイスのプロテクタを装着している医療従事者が多い。


「3番 血中酸素濃度低下 流量調整をお願いします」

「87番 体位変換の時間です」

「95番 血圧低下、心拍数低下 至急対応してください」

「移動ECMO車両到着 8番ICUの患者さんを大学病院に搬送してください」

「1番ICU ご遺体を搬出願います。」

「新規の患者さん到着 28番ベッドが使用可能です。 意識がありません」

「255番 ARDS状態です。1番ICUが空き次第、人工呼吸器の装着を行います」

「185番 心室細動 NチームはADEの処置をお願いします。」

「ベッドに移します。 1! 2! 3!」

「巡回チームは、定時状態チェックをお願いします」

「点滴チームは、点滴のチェックをお願いします」


 スピーカーから流れる指示や看護士の声が、反響して、騒然としている。


 灰色の遺体袋はストレッチャーに載せられて、準備室に運ばれる。

 準備室には、白木の棺が何個も山積みにされていて、PPEを着た葬儀社の社員が、遺体袋のまま納棺し、5人分まとまると、フォークリフトに乗せて裏口から運び出す。

 裏口には、大手物流会社の保冷車が待機している。 犠牲者は、遺族と対面することもなく、まとめて保冷車でしばらく遺体保管センターに送られ、数日後に火葬場に運ばれる。そして、白い骨壷に入って、無言の帰宅をすることになる。この施設に収容されたとしても、生きて帰る保証はない。


 ここは、臨時医療施設として開設され、デルタ株の時には、整然と運営され、ある程度の治療が行われ、重症者は専門病院へ、軽快者は、回復期を受け入れる病院へ搬送され順調に稼動していた。第5波は感染爆発の初期で、なんとか感染拡大が収まり、成功例とされていた。ここをモデルに、各地で、臨時医療施設が開設された。


 ワクチンの接種率も、ほぼ7割を越え、やっと終息に向かうかと思われたが、突然現れたφ(ファイ)株は、mRNAワクチンの抗体から完全に逃避し、急激に感染が広まった。

 感染力はデルタ株の2倍程度と強力で、あっという間に感染爆発を起こした。症状は、肺炎のほかに、心筋炎や多臓器不全を起こしやすく、平均死亡率は8.5%と高く、若年層でも3%を越える死亡率となっていた。

 既存の抗体カクテルは期待されたほど効果がなく、新しく開発された抗体カクテルは効果があるものの、供給量が非常に少ない。

 PPEも国内で増産が始まったが、消費量の増加に追いつかなくなっている。


 医療従事者がクリーンゾーンに入るためにはいくつかの関門が設けられている。

 半導体クリーンルームで使われるエアシャワーで低濃度オゾンを含む気流を浴び、次の部屋では深紫外線LEDライトを全方向から照射され、さらに、次の部屋では、殺菌された空気の陰圧室でPPEを注意深く脱いで、やっとクリーンゾーンに入ることができる。

 クリーンゾーンは、殺菌された空気で陽圧に保たれている。


 学校は休校になり、通勤電車でクラスターが発生したため、鉄道は運行を中止し、結果的に、ロックダウン状態となっている。

 市中で、症状が突然悪化して、道路に倒れるいるのが発見されたり、1人暮らしで、孤独死する例も多発している。

 街からは人影が消え、道路は食料や日用品を運ぶ物流会社のトラック、ごみの収集車、インフラの保守のための緊急車両、その間を縫ってサイレンを鳴らして走る消防車、救急車、パトカーしか見られない。


 新興感染症非常事態特別措置法が、手続き上、若干の疑問があるものの、全国に施行された。国会クラスタが発生したため、両院とも、定数割れとなっていたが超法規的措置で可決された。原子力災害特別措置法並の権限が政府に与えられた。

 頑固に「臨時医療施設」と言っていた政府関係者も、いまは公然と「野戦病院」と呼ぶようになっている。


 スーパーでは駐車場で、ダンボールに入れた食料パックの形で販売を行っている。内容の選択肢はない。食料を受け取るための長い列ができていた。


 一応、経口の3CLプロテアーゼ阻害剤を感染初期に飲めば、軽症ですむが、まだ治験も不十分で量産体性が整わず、感染爆発を押さえるほど十分な量が供給されていない。

 ファイ株対応のワクチンは試作品は各社が開発できているが、まだ量産までには数ヶ月かかる。ワクチン接種の人員が確保できそうにないため、たぶん自動注射器で、自分で接種することになるだろう


 WHOはこの変異株の名称を"SARS CoV-3" α株 病名をCOVID-22と変更することを決定した。

 人々は、自宅で息を潜めながら、災厄が通り過ぎるのを待っていた。



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 もうすぐ9.11がやってくる


 米国では、9.11のあと、斬新なテロ攻撃のシナリオコンテストを毎年開催していた。

 ナンデモアリのテロに対して、常識に縛られない危機の洗い出しを目的としていたらしい


 モニタリング会議やアドバイザリーボードの非公式分科会として、中堅、若手SF作家を集めた分科会を作ったらどうだろうか。

 そこで出てきた最悪のシナリオを専門家の監修の下でアニメ化して政府広報で流すとか。 「ふざけるな」と憤慨する人がいそうだが、ちょっと推測すればわかる未来を都合よく無視して、楽観的な対策で済ましてきた大多数に「ふざけるな」といいたい。


 著名な専門家が「起こらない」と断言したことは、かなりの確率で「起こる」ことが多い

 原子炉はメルトダウンし、M9の大地震は発生し、百年ぶりのパンでニックは目の前で継続している。


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