闇の残火―近江に潜む闇―

渋川宙

第1話 琵琶湖のほとりで

  琵琶湖を吹く爽やかな風を受けながら、快調に自転車を漕ぐ。大学の長い夏休みを利用して旅をする古関文人は、暑い日差しと爽やかな風に充足感を覚えていた。

「ああ、いい。これぞ受験を乗り越えた者だけが得られる快感」

 そんなことを思う。去年の今頃は模試の結果に一喜一憂。覚えきれない英単語に四苦八苦。まさに、どんより灰色の夏だった。それがどうだ。晴れて大学生になり、貯金もばっちり貯まった今年は、こうして爽やかな夏色を満喫できる。

「さて、この調子で残りも回っていくぜ。もはや歴史学者への道のりを止めるものは何もない!」

 が、吐き出される野望は一般の大学生とずれている。そう、この男、重度の歴史馬鹿だった。歴史学者に憧れ、司馬遼太郎と高田崇史を愛読する変わり者なのだ。もちろん池波正太郎も好きだが、あれは時代劇的で楽しみ方は別だなと思っている。それと同じ理由で畠中恵も楽しむ系に分類している。と、文人の読書遍歴はこのくらいでいい。

「まずは空気感を掴むのが大事。そのために、滋賀から京都に掛けては重点的に回りたい。それも低予算で」

 それが、この爽やかに琵琶湖沿いを自転車で飛ばしている理由だった。普段は東京の大学に通う文人は、なかなか関西の歴史情緒満タンなこの地域を訪れる事が出来ない。だからこそ、夏休みを最大限に利用して見て回りたかった。

 そのために、前期はちゃんと単位を取りつつもバイトに明け暮れていた。体力だけは自信があるので、というより、いずれフィールドワークに出るからと鍛えていたので、工事現場や引っ越し業者もお手の物。無駄なくきっちり稼いだ。

「彦根城は良かったなあ。ひこにゃんには会えなかったけど」

 きこきこと、旅予算の大半をつぎ込んで調達した自転車を漕ぐ。安定性重視乗りやすさ重視のこの自転車はもちろんマウンテンバイクに分類されるものだ。十二段階ギア付きである。

 そんな文人はただいま大津市を爆走中だ。ここから比叡山方面に向かいたいのだが、どうしようかなと悩む。

 というのも、比叡山の中腹にある紀貫之の墓に寄りたいのだ。ということで、どのルートが楽なのか。それを考えながら山に入って行かなければならない。しかもマウンテンバイクでの移動だ。出来る限り、急坂ではないところを選びたい。

「とはいえ」

 そこは比叡山。密教である天台宗の大本山だ。そこは修行の場でもある。千日回峰行が行われることでも有名だ。つまりは神域であり、結構険しいところもある。しかし、滋賀側からも京都側からもケーブルカーが走っているから、完全に民間人お断りではない。

「昔はもっと制限されていたのかもしれないけど」

 そこはまだ勉強不足と思いつつ、琵琶湖から比叡山方面へとハンドルを切った。

 大津市の町並みを堪能しつつ、自転車は快調に比叡山へと近づいていた。しかし、すでに昼過ぎ。これは今から山に分け入るのは危険だろう。どこかで素泊まりするしかない。

「一応は寝袋を持っているけど、山越えを考えると、ちゃんと布団で寝たいなあ」

 そんなことを思いつつ、これはあまり市内から離れないほうがいいかなと計算。ビジネスホテルだったら安く泊まれるだろうし、大津市は滋賀県中でも発展している市の一つだ。カプセルホテルもあるかもしれない。

「まあ、温泉地でもあるけど」

 と、それは遠い目をして押しのける。今回は回るところが多いから、温泉宿でゆっくり一泊すると計画が狂うし何より金銭的に辛くなるかもしれない。さすがにある程度の移動は新幹線を利用しているので、その分のお金だって残しておかなければならない。

 つまりは、京都に行って観光し終えたら、そこからは新幹線で東京に戻る予定にしているのだ。京都から東京までの交通費は死守したい。そうしないと、途中まで在来線か自転車で稼ぐことになる。それは、行きはよいよい帰りは云々の言葉通り、避けたいところ。

「時間が余れば奈良にも行きたいし。奈良には行く予定にしてるけど、このままだと東大寺で終わりそうだな」

 ともかく目的は滋賀と京都。ここだけでも、浪漫ある一帯だ。戦国好きも垂涎だし、平安時代マニアにも堪らない。

「あ、忍者も滋賀だな」

 ふと、甲賀市も滋賀だったと思い出す。そこからちょっと南に下ると三重県伊賀市がある。まさに忍者の本場だ。

「でも、今回は平安メインで」

 琵琶湖を一周する計画も考えたが、それだと京都観光が薄くなってしまう。ただでさえ、京都は回るべきところが多い。ポイントを絞らないと、どうしてもぶれた観光になる。しかも、文人はただの観光目的で来ているのではない。勉学を深めるために来ているのだ。中途半端なことはしたくなかった。

「琵琶湖の続きと、それから京都の続きは来年になるなあ。冬休みは――寒そうだから鎌倉で我慢するとして」

 京都の底冷えは凄いらしい。その噂を聞く度に、冬は無理と思う文人だ。実は冷え性。冬は油断大敵なのだ。筋トレしても治らないのだから、もはや体質なのだろう。下手すると風邪を引き、インフルエンザに悩まされる。

 そんなことを考えつつ自転車をこぎこぎ。ふと、前方の道路沿いを歩く女子高生三人組に目が止まった。夏休みでも制服を着たがる高校生は多い。特に女子は多い。塾の帰りなのか本当に学校があったのかは定かではないが、受験をどうするかという話題で盛り上がっていた。

「頑張れ」

 今年、夏休みを満喫している文人は思わずエールを送ってしまう。もちろんこっそり。しかし、三人組の一人がこちらに気付いたかのように振り向いた。

「――」

 人形のようだ。それも市松人形みたいな日本人形のようだと、その振り向いた少女に目を奪われる。が、自転車を漕ぐ足を止めることはなく、ぐんぐんと近づく。

「気をつけて」

「っつ」

 そして追い抜き様、どういうわけか、その少女の声が聞こえた。驚いて止まろうかと思ったが、何だか怖くてそのままこぎ続けてしまった。

気をつけて。その言葉が、何故かずっしりと重く響く。後から考えればこの警告は当然のもので、しかも計画変更すべき警告だったのだが、この時の文人は知るよしもない。

「へ、変なの」

 そう思ってぷるぷると頭を振り、安宿を探すことに専念したのだった。

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