20「先輩と後輩」


 携帯電話のバイブ音が聞こえた時、僕と文乃さんはウィンダーインゼリーを飲んでいた。

 文乃さんの体調も落ち着き、この部屋を出て岡本さんのマンションへと移動する事にした。その前の腹ごしらえにと、文乃さんからバナナ味を手渡されたのだ。私の好きな味です、と彼女は言い、自身はチョコ味を選んだ。

 夜中の三時を回ったリベラメンテの、マンション管理事務室。何も感じないと言えば、それはウソだ。怖がらせてはいけないと思い文乃さんには何も言わずにいるが、霊体はこの部屋の中にいないだけで、壁一枚隔てたすぐそこにいる。玄関前ももちろんだが、何気に恐ろしいのは僕たちの背後だ。並んで腰かけている壁のすぐ向こう側に立って、ずっとこちらを見ているものがある。そしてそいつが発する形容しがたい声と音が、僕の耳に入り込んで来ていた。文乃さんがいなければ、こんな所には一瞬たりともじっとしていられないだろう。

 それでも、文乃さんがゼリーを飲みながら、

「……失敗したー」

 と、小声でぼやく横顔を見ていられる時間は幸せだった。

「でも、変ですよね」

 文乃さんは言う。「私が最初に長谷部さんから相談を受けた時、このマンションで幽霊騒動はなかったはずなんです」

「……ああ、本当だ。確かにそう仰っていましたね」

「物凄く臭い。それが、事の発端です。私は今も何も見る事ができませんが、新開さんのお言葉通りなら、今このマンション周辺は地獄絵図です」

「まさに」

「なにが起きているのでしょうか」

 その時だった。文乃さんのカバンの中で、彼女の携帯電話が震えた。

 相手は、三神さんだった。

「もしもし」

「おー、お嬢。すまんな、こんな夜中に」

「いえ。どうされました?」

「言いにくい話だんだがね、今日一緒に現場で会った、あの若い学生なんだがなあ」

「はい」

 文乃さんの目が、僕を見た。

「相当、やばいことになっとる」

「え?」

「お嬢。今から出てこれるかね」

「はあ、はい。どこへです?」

「病院だよ」

「え?」

「あの、例の目の良い坊主にも連絡をとってやってくれ。辺見というあのレディだか、緊急搬送されてたった今も虫の息だ。ワシもなんとか手を施したんだが、想像以上に悪い」

「ど、え、何故ですか!? 何故そんな急に!」

 立ち上がった文乃さんに驚き、僕もゆっくりと腰を上げる。嫌な予感しかしなかった。だがまさか、文乃さんと三神さんが辺見先輩の話をしているなど予想だにせず、僕はこの事件に何か進展があったのだろうかと見当違いな想像を巡らせていた。

 電話を切った文乃さんが唇をぐっと噛締め、そして僕の手を取った。

「走りましょう、新開さん。タクシーが捕まる場所まで、一心不乱に」





 何が起きているのか、僕にはさっぱりワケが分からなかった。

 到着した深夜の総合病院では、三神さんだけでなく池脇さんまでもが僕と文乃さんの到着を待ち構えていた。夜もここまで更けると時間の概念が希薄になる。辺見先輩とバスに乗って帰路についたのは、昨日だったか、今日だったか。少なくとも数時間前まで僕たちは一緒だったのだ。

 何故、辺見先輩だけが。何が起こったんだ。

 緊急外来の受付を通り過ぎると、総合待合いの無数に並んだ椅子に座っている三神さんの背中が見えた。そしてその隣には、苦汁に満ちた顔で立ち尽くす池脇さんの姿もあった。

「竜二くん!」

 文乃さんが声を上げ、二人が振り向いた。

「辺見先輩はどこに」

 挨拶すら忘れて僕が問うと、立ち上がった三神さんが頭を撫で上げながら、

「さっき、処置が終わって今は落ち着いている、だが、衰弱が激しい」

 と答えた。

「……衰弱?」

 何故今その言葉が使われたのか。確かに僕と別れた時、辺見先輩は疲れているように見えた。だが彼女は病気ではないし、それはここにいる全員が分かっているはずだ。彼女がとても明るく、元気だった事を。

「なぜそこに思い至らなかかったんだろうか。これはワシのせいでもある」

「い、一体何の話を」

「お前さんも分かるだろ。これはだよ。あれだけの禍々しい怖気に触れたのだ。ましてや体の内側から腐り果てるような苦しみを味わいながらも間一髪お嬢の手で生還させてもらったにすぎんのだ。よもや何の影響もないと考える方がおかしかろう」

「それなら何故辺見先輩だけが!」

「ワシには心得がある。お前さん程目は良くないし、お嬢ほどの力は持ってはおらん。しかしワシには経験と手順を身につけた心得がある。この池脇のはその身にとんでもないモノを宿しておる。お前さんはさしずめ、今までお嬢と一緒におったのではないか?」

「……」

 言葉を失った。

 たまたまなのか。

 辺見先輩だけではない。僕自身も危なかったということか。僕は文乃さんを助けた気でいたのに、逆だったんだ。彼女の側にいたから、霊障の直撃を受けずに済んでいたのだ。まともに触ることすらためらわれるほど湯飲みを熱くした、文乃さんの張った気の内側にいられたから……。

 ふらりと一歩を踏み出した僕の体を、三神さんが止めた。

「今はまだ行かん方がいい。お前さんの身にまとわりついておるものがまた彼女に影響せんともかぎらん」

「僕は、どうしたら」

「ワシなりに手は施した。思った以上に衰弱が酷く、医者も混乱しておったが、なに、時間をおいてまたワシがなんとかしよう」

 僕は黙って三神さんに頭を垂れた。それしか思いつかなかった。霊障など医者が治せるわけがないし、そもそも現代医学がそんなものをまともに相手するわけがない。栄養剤をどれだけ流し込んだところで、今の辺見先輩の体がそれをそのまま受け止めてくれるかも疑わしい。

「悪かった」

 と、池脇さんが言った。「お前らをガキ扱いしておいて、じゃあ俺は一体なんだって話だよな。黙ってお前ら二人だけで帰すんじゃなかったよ。大人の振りするなら、最後まで面倒見やがれってんだ」

「いえ、池脇さんにそこまで仰っていただくようなことでは……」

「連絡をもらったんだよ、俺が、あの子から」

「辺見先輩から?」

「あの子なりの、SOSだったんじゃないかねえ」

 三神さんがそう言った。

「辺見先輩が、池脇さんに?」

 サークルの後輩である僕ではなく、今日会ったばかりの池脇さんに?

 三神さんは困惑する僕を見つめて、目を丸くした。

「なんじゃあ、もしかしてお前さん、気づいとらんのか」

「三神さん、そのお話は本人の意思を尊重してくださらないと」

 不意に文乃さんがそう言葉を差し挟んで来た。僕はますます混乱し、誰を見て良いのかすら分からなくなった。その時だった。


「先生? 処置室へ向かうには、この廊下にある、何色の線を辿ったらいいのでしょうか」


 そこに場違いな少女が立っていた。

 黒髪の、おそらく十七歳の、そして蠱惑的なまでに美しい、それが三神幻子みかみまぼろしとの最初の出会いだった。


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