9「遭遇」①


「どこから、というのは、どういう意味ですか?」

 上擦るような声の問い掛けに、その男性は僕の顔を見つめる表情を急に和らげた。

「いや、全部ただの冗談だ。思わぬこぼれ話でも出てこんかと、ちょっくらからかってみただけだ。まあまあ、そう怖い顔しなさんなって」

 男性は自らを三神みかみと名乗った。

「年は五十四歳なのよ。だけどよ、下の名前が三歳さんさいなんだわ、三神三歳。これ鉄板!」

 三神さんは自分の名前で遊んだ後、バッシバッシと手を叩いて笑った。しかし誰も笑っていない事に気がついて、「おう。そういうこと」と咳払いひとつで真顔に戻った。

「オッサン来る場所間違ってねえか?」

 池脇さんが腕組みしながらそう言うと、三神さんはマンションを見上げて顎を指でなぞりながら、

「かもしれんなぁ」

 と、しみじみとした声でそう答えた。そして三神さんは池脇さんを横目でじっと見据えた後、「ほう」と喜びをにじませた声をあげた。

「兄ちゃん、あんたどえらいもん背負っとるなぁ。見たところ霊感の類はなさそうだが、いやー、あんた、相当喧嘩が強かろう?」

 池脇さんは驚いた顔で顎を引き、

「どえらいもんて何だよ」

 と返した。

「詳しい正体まではワシにも分からんが、相当なもんだよ。まあそうさな、あんたがおるんなら、おう、ワシも付いてたっても構わんな。それはそうと、このワシを呼びつけた西荻のお嬢はどこにおるんかね?」

「オッサンも文乃に呼ばれたクチか。かー、あいつ何人呼んでんだ?」

 呆れた様子で答えようとしない池脇さんの代わりに、指でさし示しながら管理事務所の場所を告げると、三神さんは「ほおん」と頷きながら僕ではなく辺見先輩に視線を移して、不意に目を細めた。

「……気苦労が絶えんな」

 三神さんは温もりを感じさせる低い声でそう語りかけると、辺見先輩に向かってウィンクを飛ばした。辺見先輩は素早く上体を逸らしてウィンクをかわすと、

「セクハラッ」

 と鋭い答えを返した。

 不思議な事を言うな……。

 笑顔の三神さんを見ながら僕は考えていた。池脇さんが強い陽の気をまとっていること自体は、実を言えば僕にもなんとなく分かっていた。池脇さん自身が「霊感はない」と口にしたことで、おそらくそれが加護や守護と呼ばれるオーラなのだろうと理解していた。

 しかし果たしてそれを見て「どえらいもんを背負っている」と表現するだろうか。僕の目には池脇さんが何かを「背負っている」ようには見えなかったし、喧嘩が強いとか、そんな事の根拠になりえるものでもないと思っていた。……この時までは、まだ。

「何をされてるんです?」

 思わず僕はそう尋ねた。ずっと気になっていたのだ。三神さんは僕たちと話しながらずっと、両手で自分の身体をペタペタと触っていた。話す間も彼の視線は池脇さんや辺見先輩を行ったり来たりで、しかしにこやかで愛想の良い表情を浮かべていた為、誰もその事に触れなかった。

「煙草でも探してんのか?」

 やがて池脇さんがそう言い、三神さんに向かって自分の煙草を差し出した。すると三神さんははたと気が付いたように振り返り、

「しまった!タクシーに置いてきてしもうた!」

 と血相を変えて元来た路地へ戻りかけた。

「何をだよ」

「数珠だよ、数珠!」

 その時だった。

「ガッ!」

 池脇さんの口から言葉にならない呻き声が発せられ、激痛か何かに顔を歪めて白目を剥いたまま硬直した、所までは見えた。

「いけ、わき、さ?」


 ……それは、突然やってきた。


「ぎゃああッ!」

 辺見先輩が絶叫を上げて口鼻を押さえると同時に、僕の鼻と口両方に極太の棒が突っ込まれた。人糞を塗りたくった指で鼻の穴を勢いよくほじくり返されたような息苦しさと痛みが走り、あまりの臭さに喉の奥から胃液の濁流がさかのぼってきた。僕はそのまま盛大に吐いた。

「グギギイイー!グザアア!ザアアッ!」

 辺見先輩が喉を引き裂かれたような悲鳴を上げ、身もだえしながら体を折り、両膝を付いた。彼女の前にポトリと何かが落下したのが見えた。しかしそれが何かを考える余裕などあるはずもなく、この世のものとは思えぬ程激烈な臭気と実体を伴った暴力的な痛みに、意識すら失いかけた。数珠を忘れたと言った三神さんがこの時、どのような様子だったか僕には分からない。

 あるいはその瞬間、本当にそうだったかもしれない。僕たちの周囲に暗闇が訪れたと、そう思ったのだ。

 視界が歪み、咳き込もうにも喉を糞尿と自分の吐瀉物で塞がれ、目の中は涙ではなく唾や小便で淀んでいるのが直感で分かる。しかしそれでも、僕たちの周囲が急激に暗さを増したのが分かった。……地獄だ。地獄が向こうからやってきた。

 その時、何かが僕の腕にそっと触れた。ひんやりとしたそれは生身の肉体を思い出させ、前後不覚に陥った僕をこの世に留め置く存在であると感じた。


「滴る命の垂れ行くを、赤きを知らず、愛とは知らず……」


 声が、聞こえてきた。

 地上にいながらにして汚泥に沈んでしまった身動きの取れない僕の耳に、その声は微かに届いた。


「襲い来る激流の本能の、行き先を見ず、淡さに抱かれ。アアーア オオーオ。膨れる我が腹に満ちたるものよ、その名を叫べ、語り掛けよ。戻り来る静謐を退けよ、うち震えるわが身、全ての色消え去るまで」


 これは何かの経か祝詞か、呪文の類だろうか。細く消えかかる意識の中で、僕はその声を聞き逃すまいと集中し、踏ん張った。


「アアーア オオーオ! 天空を駆け行く星線となる、赤き半身、愛なるすべて。その一歩をして嘆きなどなし、導きたまへ、銀色の地平線まで!アアーア! オオーオ! 仰ぎたる我、白き蟷螂となりせば!」


 パシッと空気の爆ぜる音が聞こえた。

 その声は言った。

 竜二君!叫んで!

 その瞬間、すぐ側で狂暴な獣が吼え上げる声が轟いた。それは『声』と呼ぶにはあまりにも規格外の『大音量』だった。

「俺はここにいるぞォッ!」

 池脇さんの声だった。僕の目から大粒の涙が溢れて零れ落ちる。出会って間もない池脇さんの声とすぐ側に感じる彼の存在が、確かに僕を勇気づけた。


「いきます」


 文乃さんの声とともに、僕の体の中を波のような温もりが通過した。

 熱波はお腹のあたりから背中、肩、腿裏といった場所を通って外へと飛び出し、と同時に僕を掴んでいた暗闇と臭気が一瞬にして霧散した。


 

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