2「異臭」
ちょっとだけ怖い話をします。
文乃さんはそう断りを入れて、話し始めた。
日の当たらなくなった学生食堂に照明が灯り、やけに明るい室内には時間を持て余す生徒たちがまばらに座っていた。先程まで暑いと思っていた気温が室内に場所を移した途端ぐっと下がったように感じられ、僕たちは窓際に座ってホットコーヒーを飲みながら、文乃さんの話に耳を傾けた。
「私は、都内でマンション経営をしています。いわゆる、大家さんというやつです。仕事の都合上、よその地域の大家さんともつながりがあって、ほとんどが不動産投資関係の話になるので、難しすぎてあまりそういったコミュニティに顔を出す事はないのですが、たまたま先日とある人物から、相談を持ち掛けられました」
文乃さんの声はとても穏やかで優しいのだが、比例してとても小さかった。自然、並んで座る僕と辺見先輩は机の上に体を倒して耳を寄せ、なるべく文乃さんの声を聞き漏らすまいと努めた。
「私は昔から、おかしな体質をしていて、変った事が出来る人間でした」
突然自分の話を始めた彼女に少し戸惑ったが、内容には非常に興味をそそられた。
「あ、うちの後輩君もそうなんですよ。バリバリの霊感体質なんで、今年の夏も学校の校舎のいたるところで騒ぎを起こしていたっけね!」
辺見先輩が茶々を入れて、僕の背中を叩いた。
「騒ぎなんて起こしてませんよ。人よりは見えるもんだから、サークルの皆も面白がって肝試し感覚で学内を歩き回っただけじゃないですか」
僕がそう反論しても、辺見先輩はその件には既に興味を無くした様子で、文乃さんに顔をぐっと近づけ、
「そういったお話で?」
と、まるで商人のような口振りで尋ねた。
「そうですね。新開さんのお話がオカルト方面で強いという意味なのであれば、それに近いジャンルになると思います。だけど私の場合は要するに、……見えないんです」
「……全くですか?」
僕の声には驚きと若干の落胆も含まれていた。
文乃さんが自らのおかしな体質について話し始めた時、僕は自分と似た属性の仲間に出会えたのかと思って、少し嬉しかったのだ。
「全く、ですね。その、見えるか見えないかで言えば、見えません」
「でも、相談を持ち掛けられたっていうのも、そういうオカルト系の内容なんですよね?」
辺見先輩の質問に、文乃さんは唇を結んで頷いた。
彼女の体質がどういう類のものなのか気になる所ではあったが、そこばかりを追求する無粋さにためらいを感じ、まずは文乃さんの話の続きを待った。
「私に相談を持ち掛けた方も、ここからそう遠くない場所にマンションを一棟運営されていて、立地条件も良いですし、これまでも運営状態は悪くなかったそうです。廃れた土地ではありませんし、そのマンションが建つ前は実は刑場だったとか、そういった歴史もないようなんです」
「……出るんですね?」
声を低くして、しかつめらしく辺見先輩はそう尋ねたが、先輩自身に霊感があるわけではない。先程会話に上った今年の夏の肝試しでも、常にあくびをしながら鼻歌を歌っていた程の豪胆である。
「それが、よくわからないんです」
文乃さんは言い、僕の目を見た。「その方が言うには、あんまり大きな声では言えませんが、その、もの凄く、臭いんだそうです」
……くさい?
「さっきもチラっと聞きましたけど、それは、幽霊が臭いんですか?」
単刀直入に辺見先輩が尋ねると、文乃さんは頭を振って、
「実際にそのマンションで幽霊やその他の影、類を見た住人はいないそうです。ただ、突然自分のすぐ身の回りが臭くなるんだそうです。それも異常なほどに」
と答えた。
臭いのかー。辺見先輩は腕組みをしてうなり、考え込むように目を閉じた。だがやがてニンマリと笑い、
「あんまりー、期待したほど怖くないねっ」
と言った。
「え?」
思わず声に出した僕に、辺見先輩は言う。
「だって、理由はいろいろと考えられるじゃない。人がたくさん住んでる場所なわけだし、今流行りのゴミ屋敷とか、ネットでよく言われる貯水タンクに死体が、とか。あるいはご老人の孤独死なんかもあるし、異臭騒ぎは私のまわりでもよく聞くもの」
なるほど。確かに言われてみればそうかもしれない。しかし僕は辺見先輩が言う程、怖くないとは思わなかった。いやそれどころか、普通に怖い。
「もちろん、辺見さんが仰るような事は、まず管理会社を通して先方も確認はとったそうです。そもそも、匂いの原因が特定出来たり、あるいはこの場所ですというのが最初から決まっているのであれば、あちらも私に相談などしてこなかったと思いますし」
「え?」
文乃さんの話に、辺見先輩は腕組みを解いてまた上半身を机に倒した。
「異常なくらい臭いんですよね。その場所がどこかわからないんですか?」
「そうです。さらには、一か所や二か所ではありません」
僕と辺見先輩は押し黙り、言いようのない感情に襲われた。
なんだこの話。ほら見ろ、やっぱり怖いじゃないか。
「なにか、おかしな感じがしますね。なんだろう」
僕はごまかすように声を出し、机の上に忙しく視線を走らせた。
「文乃さんは、実際にそのマンションを訪れたんですか?」
年上に向かって名前で呼ぶなんて。
辺見先輩の不躾な態度に一瞬僕は腹を立てたが、それ以上に文乃さんの返答が気になった。
「行きました。先程申し上げた私の特異な体質とも関係があるのですが、実は私、こういう事ができます」
文乃さんはそう言って、机の上で両手の指を組み合わせた。
その瞬間、彼女の飲んでいたコーヒーの入ったマグカップが……動いた。
僕と辺見先輩は音を立てて後ろへ下がり、座っていた椅子ごとひっくり返りそうになった。
「なん、なんですか?」
辺見先輩は両目を限界まで見開き、マグカップと文乃さんを交互に見た。
文乃さんは組んでいた両手の指を解くと、机の上で右手の小指を下側にして壁のように立てた。彼女のその手の平へ、またもマグカップがひとりでに動いて吸い込まれた。文乃さんはそのままマグカップを持ち上げて口元へ運び、コクリとひと口飲んだ。
「なんていうんでしたっけね。自称……『なろう系チート』?」
文乃さんはそう言って苦笑し、よくわかりませんけど、と言って僕に微笑みを向けた。
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