24.絹雲母は、セリサイトという名の鉱物だから

「うっわー…… ひでえな」

「おい、何か変なにおいがするぜ」


 次にあたし達が足を向けたのは、松崎の兄が勤めていた試験場だった。

 足を踏み入れた瞬間、高橋は、顔をしかめて鼻をつまんだ。


「まさか」


 若葉は小走りに奧へと進む。あたし達はそれについていく。この中を一番良く知っているのは、彼女なのだ。

 やがてああ、と悲痛な声が上がった。水槽の前で、彼女はうずくまっていた。


「あ」


 思わず声が出る。水槽の中では、大きな魚がぷかぷかと浮いていた。中の水はよどんでいる。


「水温調節が必要な魚だったんです。このあたりの川では採れない魚だったんですが、品種改良の可能性があるから、と遠くから取り寄せていたんですが」

「この暑さでやられちゃったというのね」

「でも、暑さに駄目なんだろ? ということは、どこか一年中冷えてるとこがあるのか?」


 遠山はよどんだ水につ、と指を差し入れる。


「暑いったって、水温はそう上がってないぜ」

「そこまでは私は」

「や、渓谷の奧だったら、一年中そう温度が上がらなかったりするんだ」


 松崎は壁に背をもたれさせ、腕を組む。渓谷か、と高橋もそれにならったように腕を組む。


「確か、絹雲母が採れるのも、浮草渓谷とか言ってなかった? 遠山くん」

「ああ、そういえば、阿部センはそういうこと言ってたなあ」

「松崎くん、遠いの?」


 問いかけると、うーん、と松崎は首をかしげる。


「どうしたの?」

「渓谷に行くのはそう難しくないんだ。昔は観光地にもなっていたくらいだから…ただ、そこからどう入ったものなのか」

「地図は?」


 ぼうっとした声で、森田は松崎に問いかける。


「地図?」

「地図みれば、判るかもしれへん」


 あったかしら、と若葉は事務室の方へと向かった。少しして戻ってくる。


「何かないみたい。たぶん私の家にはあると思うから、取って来るわ」

「ああ……」


 待っててね、と彼女は飛び出した。

 自転車に乗り直したその背中が見えなくなった時、遠山はよぉ、と松崎に問いかけた。


「で、実際のとこ、どうなんだ?」

「どうって?」

「隠すなよ。お前知ってるんじゃねーか?」


 松崎は眉を寄せた。二人の目線が合う。


「どうしてそう思う?」

「何となく」


 ふう、と松崎は息をついた。


「まあね。ただし、確実なものじゃあない。俺も記憶はあやふやだ」

「だったら何でそれを言わない? 若葉ちゃんだって、判るかもしれないだろ?」


 松崎は言葉に詰まった。


「言いたくなかったんやろ」


 するり、と森田は言葉を滑り込ませる。いつもと同じような口調で。


「若葉ちゃんを、行かせたくなかったんと違うか?」

「森田」

「違うか?」


 穏やかな、それでいて容赦ない口調で、森田は友人を追いつめる。違わない、と松崎は目をそらした。


「軽蔑するか?」


 や、と森田は首を横に振る。表情は変わらない。不思議なほどに、森田の顔は、変わらないままだった。


「人間やし。しゃあない。俺等は不完全な人間の不完全なガキや。やけど、今やることやない。俺達は何のために来たんや?」


 松崎はうつむいたまま、黙って髪をかき上げた。


「そうだよな。時間はそうある訳じゃないんだ」


 先日の若葉の言葉を思い出す。彼女はどうしても松崎をきょうだいにしか思えない。それは彼も判っているのだ。

 ただ、この道行きの間は、それでも彼女は自分に近かった。兄よりもおそらくは。

 けど兄を見つけてしまったら。

 そしてそれはそう難しいことではないのかもしれない。


絹雲母きぬうんも、という名で知ってた訳じゃないんだ。兄貴が知っていたのは、セリサイトという名の鉱物だ」


 せりさいと、とあたし達は口を揃えた。


「絹雲母絹雲母というから、ずっと判らなかったんだ。セリサイトなら俺も知ってた。別名だよ。昔の鉱工会社の跡にも行ったことがある」

「何で今まで言わなかったんだよ!」

「忘れてたんだよ。本当だよ! ……だけどずっと自転車で走ってて、黙って走ってて、何か色んなこと、考えるじゃないか。若葉のこととか兄貴のこととか、色んなことが頭をがーっと横切るじゃないか。そしたらぽっ、とそういうことがあったな、と思い出したんだ。セリサイトが、絹雲母のことだったんだ、って、やっとその時結びついて」

「だったら話は早いやないか。俺らはそこにいかなあかん」

「森田、けど松崎の気持ちも」

「決まってることなんやろ?」


 それはお前がどう言ったところで変えようがないことなんだ。そういう意味がこもっているように、あたしには思えた。実際、若葉もそういう意味のことを彼には言ったのだろう。

 ただ、頭で納得したところで、気持ちが納得する訳ではない。


「情けねえぞ、松崎」

「高橋」

「でもさ、俺だって情けねえのよ。故郷の豊田を出てくる時に、手紙出すわね、って言われた彼女に、結局去年、男ができたんだぜ。俺だっていまだにひきずってる」


 そして遠山は、黙っていた。


「俺はお前等みたいのはよぉわからん。だから何も言う資格はないのかもしれん。……けど、今ここで、はよお前の兄さん探さんことには、若葉ちゃんが悲しむ。それは確かや」

「そうだな」


 松崎はうなづいた。


「若葉と合流して、行こう」

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