第194話 余韻と不安

 セラフィナイトは、チグサの屋敷で朝を迎えていた。久方ぶりの陽の光は眩しすぎて、すぐに目を逸らしたくなってしまう。


 隣では、夜着を羽織っただけのチグサが、小さな寝息を立てながら泥のように眠っていた。髪を掬って額を露わにしてやると、無垢で幼い顔が覗く。


「大切にする、か」


 前日、自分が放った言葉を反芻していた。我ながら、陳腐な口説き文句だ。


 父である皇帝も、多くの妻達を形ばかりは大切にしていた。大きな宮殿、綺羅びやかな衣装、大陸中から集めた美食、珍味の数々。妃達の中には、そんな贅沢で満たされる者もいたが、やはりそれだけでは足りぬ者も多く、ひっそりと抱えた淀みや負の心は、その息子や娘に受け継がれ、各地へと散らばっていった。そして今、新たな動乱を起こす火種となっている。


「本当の豊かさとは、何なのだろうな」


 紫は、帝国では鼻で笑われそうな前時代的文化の中、極めて質素な暮らしをしている。しかし、欲望にぎらついて、権利にしがみつこうと血眼になっている気色の悪い者は、意外と見当たらない。外の世界を知らないからこその、穏やかさかもしれないとセラフィナイトは結論づけた。


「今が、一番幸せかもしれないな。ね、そう思わない? チグサ」


 セラフィナイトは、再びチグサの髪を指で梳く。


 なんだかんだで、周囲の期待に応えたかったり、評価されない正義感に燃えてみたり、父親に振り回されるばかりで過ごしてきた人生だ。故に、前日のチグサから投げかけられた問は、突飛ではあったが、はっとさせられる真新しさがあった。


「したいこと、か。母にだって、聞かれたことがない」


 母親とは、ずっと連絡をとっていない。いや、存在がいつの間にかなくなっていた。疎まれている王子の母など、王都に居場所がなかったにちがいない。仕方ないと割り切りたいが、見放されたという事実が、胸にひっかき傷として残っている。身内は誰も、彼を本当の意味で欲してくれることはなかったのだ。


 だが、チグサは違う。あくまでセラフィナイト、個人を見ていた。それも、最初からだ。さらには、力量や可能性に賭けてくれていた。罪人相手にも関わらず。


 そして、セラフィナイトが生きることを諦めず、これからは自分のために生きるという新たな選択肢を教えてくれたのだ。


「痛いわね。引っ張らないでくれない?」


 突然、チグサがセラフィナイトの手の甲をぶった。本人は不機嫌なまま寝返りをうつ。顔は見えなくなってしまった。


「ねぇ、昨日のこと、嘘じゃないわよね?」

「何が?」

「何が、じゃないわ。私がせっかくミズキ様と面会する場を設けてあげたというのに、あなた、ずっと不真面目なんだから」


 セラフィナイトがここ、チグサの屋敷に着く前、先に王宮へ立ち寄っていた。ミズキは、セラフィナイトの顔を見るのも嫌だという様子だったが、チグサのとりなしで、やっと謁見の機会が与えられたのである。


「真面目だってば。いや、もともと俺、堅苦しいのは苦手なの。いつかバレるんだったら、初めから隠さないほうがいいかなって。ほら、俺は皇帝になって、紫を守ることになる。長い付き合いになるんだからさ」

「そう、それよ! 皇帝になるって、簡単じゃないのよ? 本当に自覚あるの? こんな軽さじゃ、兄弟蹴落としたり、あちこちの国に影響力強めたりなんかできない……ん」


 チグサは、セラフィナイトに背後から抱きつかれて、口を閉じた。昨夜の戯れを思えば、それ以上に恥ずかしいことなど何もないはずなのに、今更顔を赤らめて抵抗している。


「俺はちゃんと約束した。約束を果たせなかった時は、俺が不幸の死を遂げる時だ。そうならないように、お前がいる」

「人を万能神具みたいに呼ばないでくださる?」

「俺にとっては、神そのものみたいなものだ」


 神具より上、神の名まで出された上、声色いたって誠実。チグサは小さく笑うしかなかった。


「私がどれだけ役に立つかどうかはともかく、ミズキ様から許可をいただけたのは良かったわ」


 チグサは、セラフィナイトと手を組み、次期皇帝として擁立できるよう強力に支援する許しを王に願い出たのだ。ミズキは、しばらく黙って考えていたが、側近のハトと目だけで会話した後、しっかりと頷いたのである。


 セラフィナイトが紫国から出ていくこと、そして紫国にとって後々良き方へ働くと考えてのことだろう。普通に考えれば、チグサが人身御供になるようなものだが、それは本人が是と言っているので問題は無い。たまたま王宮にいた弟のカツも同席し、チグサの気持ちを後押ししたいと告げたのも大きかった。


「それより、これからどうなさるおつもり? この国にいても、外の様子は何も分からないわ」

「ひとまず、アダマンタイトに潜伏して、現状の把握から始めるしかないんじゃない?」

「でも、危険よね。もう、戦も、人が亡くなるもこりごりだわ。帝国も、極東の小国なんて蔑むぐらいなら、いっそ忘れたことにして捨て置いてくれれば良いのに。どうすれば狙われずに済むのかしら」


 セラフィナイトは、半ば死んだ目で話を聞いていた。チグサ本人は至極真面目に話しているのだが、何せ殺人兵器の生みの親である。半年前には、多くの者がチグサの神具で命を散らすか、廃人になった。


「私の神具を頼りにしてくれるのは嬉しいけれど、兄達程の力量はないの。それに神具なんて、神の依り代のようなもの。小手先の便利な道具よ。神の信仰が無い場所では、石ころ以下の価値しかないわ」

「でも、その神具と信仰に負けたんだ。おそらく、父が死んだのもきっと……」


 チグサも、そのような気がしていたのだ。皇帝が突然死んだのは奇異である。恐怖と崇拝で支配し、完全に洗脳を施した、ある種絶対的な信頼の置ける者達で身の回りを固めていたと聞く。なのに、簡単に寝首をかかれるとは考えにくい。


「皇帝が崩御したのは、我が国にとって行幸だったけれど、それでも次もまた同じような人が立てば、結果は同じ。いくら紫でも、帝国本国の大きな軍隊がやってくれば、ひとたまりもないでしょう」

「だからこそ、俺だ」


 セラフィナイトは、紫国風に正座をする。チグサも、思わず居住まいを正した。


「昨夜も言った通り、俺は不良王子で、出来損ない。ほんと、中途半端で駄目な奴だ。アダマンタイトでは、意外と現地の兵達を上手く導けていたけど、結局自分が何をしようとしているのか、何が目的なのか、どうしたいのかなんて、全く分からなかった。とりあえず皇帝に言われて、いつか見返してやりたくて。でも、従うしかなくて。でも、今ははっきりしてる。俺は、普通の人になりたい。そろそろ、正義感とか、報われたいとかで動くのは飽きた。疲れたんだ」

「どういうことですの? つまり、それは、やる気が無いということ? それなのに昨夜は私を……」

「勘違いしないでよ。皇帝は死んだけど、今でもこうやって俺達を苦しめてる。そういう負の鎖をしっかりと断ちたいんだ。生きたい。生きのびるために、俺はお前が絶対に必要なんだ。分かるかな?」


 言葉に力がこもっていく。さすがのチグサも、もう彼が茶化しているのではないと理解して、静かに耳を傾けていた。


「このままじゃ、俺は見つかって殺される。でも、逃げるのも格好悪い。どうせ、逃げてもいつか見つかるだろうし。それに、俺みたいに皇帝に苦しめられた人は、他にもたくさんいる。それを放っておくことはできないし、きっと味方につけることができる。たぶん、こうやって皇帝の亡霊や、金と権力の亡者である兄弟と、真っ向からやりあって、紫みたいな平和を目指せるのは、俺しかいないって思うんだ。こんな夢みたいな話、馬鹿みたいだろ? でも、お前がいたら、何とかなる気がしてきて」

「だから、私はそこまで役に立たないと」

「お前、自己評価低いな。少なくとも、俺はお前に救われた。だからこそ、隣にいてさえくれるなら、お前の望み通りになってもいいと思ったんだよ」


 セラフィナイトは、小難しく幼稚な夢を語っているはずが、いつの間にかチグサを改めて口説く形になっていた。


「ならば、私が皇帝に、と煽らなくとも、なるべくしてなった結論だったのね」

「まぁ、そう、しょげるな」


 チグサは、再びセラフィナイトに抱き込まれる。


「お前は、自分から俺を選んだつもりでいるんだろうが、俺は俺の意志でお前を選んだ。これは大切なことだ。決して忘れるな」


 チグサは、一瞬目を大きく見開いた。その後、思い出したかのように、ふと顔をそむける。


「私のこと、最後の姫とおっしゃってましたね。それは、確かに事実です。私しか候補がいなくて、残り物で申し訳ないですわ」


 これは、照れ隠しだ。セラフィナイトもそれは分かっているが、今は彼女を構い倒したい気分だった。


「拗ねるなよ。威勢の良い女が好きだ。ってか、たぶん俺は、お前が好きだ。これから長い付き合いになる。いつかお前も、条件や身分や偶然のめぐり合わせでなく、俺のことを好きになってくれる日がくることを願ってる」


 既に、本気になっているとは、口が裂けても言えないチグサであった。



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