第94話 ありえない
その頃、ソラ王宮では、アグロが怒りに任せて笏を床に叩きつけていた。
「許されてなるものか! 許してなるものか!」
クロガが住まう宮からの帰り道である。激昂したアグロは、もう手がつけられない。それもそのはず。前代未聞の事が起こったのだ。
カケル、クロガの連名で、クレナへ神具取引に関する制裁がなされたのだ。
その内容自体は、然程問題ではなかった。クレナの楽師を娶った後、カケルがアグロ以上にクレナ王と近しい間柄になるのも面白くない。誰も選ばず帰国したことも、乱暴を受けて抗議するのも悪くないのだ。
神具を売り渋ったり値段を釣り上げたところで、どのみちクレナはソラの神具無しには立ち行かない国。例え五割増どころか、二倍の価格になっても、ソラから神具を輸入することは止められないだろう。必然的にソラに金子が集まり、それはいずれ帝国と対等に渡り合うための資金となるかもしれない。
しかしだ。
全てがアグロを抜きに進められてしまった案件だったのだ。
現在、宰相たるアグロにあらゆる権限が集中している。アグロは、これに隙は無いと思いこんでいたが、それは間違いであった。
これまでの砂上の楼閣は、王子達が穏便に政と距離を取ってアグロを自由にさせていただけのこと。このソラという国では、王の子供は宰相よりも上の立場であるのだ。
アグロが調べたところ、カケルとクロガは実に正しい手続きを行っていた。クレナへなされた制裁の内容は文官の会議にかけられて詳細に詰められて決定し、ソラ王家の正式な書簡としてクレナへ送られている。
だが、一切アグロは関与できなかったばかりか、徹底的に彼が認知できないよう隠されていたのだ。
アグロは、爪が食い込んで血が滲むのも構わず拳を握りしめる。なぜ自分は、詰めが甘かったのだろうかと。
確かにソラで定められている律令では、王に不測の事態が起こった場合、王の権限は一時的に第一王子へ引き継がれ、他の兄弟にもそれに隋する地位となることが記されている。これまでは、アグロが意識的に政と関わらせないようにするだけで事が済んでいたが、本来ならば律令自体をアグロの都合の良いように改訂しておくべきだったのだ。
今になって回ってきたツケを恨めども、腹立たしさは一向に消えることはない。
早速クロガへ抗議しにいくも、正攻法で反論されてしまった。元々は小役人という言葉に相応しい立場だったアグロは、ついつい王族から罵られると体を縮こませ、叩頭してしまうところがある。そんな染み付いた小物感が、我ながらますます嫌になるのである。
「おのれ、若造の分際で私にあのような暴言を吐くなど」
クロガは、アグロへの最後通告として隠居を勧めてきたのだった。クロガの調べでは、アグロはクレナや帝国と繋がり、己の利益を追求するために、あらゆる黒いことに手を出していた。
しかし、単純に罷免して制裁しようとすると、最後の足掻きとして何をやらかすか分からない。これでも王族以外では、国で最も権力のある男なのだ。他の政や、民の生活に悪影響が出てほしくない。それ故、ここは万歩譲って、多額の退職金と引き換えに身を引くことを勧めたのだった。
「私が隠居? ありえない。ようやくここまで辿り着いたのだ。諦めてなるものか」
クロガは既に金は持っている。欲しいものは自らが納得できるだけの栄誉と地位。もう少しで手が届きそうなのに、ここに来て揺さぶりをかけられているのは、あってはならないことなのだ。
「あやつをどうにかできる方法は無いものだろうか」
アグロは突然立ち止まった。後ろをついてきていた取り巻き達も、未だアグロの放つ怒気に震え上がりながら、慌ててその場に留まる。
「そうだ、あの手がある」
俯いていた顔が表を上げる。その醜いとしか言いようのない、しわがれた目元は、爛々と欲望でぎらついていた。
アグロは後ろを振り返る。
「お前たち、ここまででいい」
ついてくるな、という意味だ。アグロはニタニタしながら、渡り廊下の角を左へ曲がった。
◇
チグサは、自らの宮の奥を工房に改造している。一応礼儀かと思って、お仕掛けてきた宰相アグロをそこへ招き入れた。
「ありえません」
チグサは、淡々とアグロへ言い返す。何と彼は、妻問いに来たと話したのだ。
確かに女側としては、舐められるのもいいところである。下級貴族の政略婚であっても、事前に多少の文のやりとりがある上、間に父兄が立って恙無く事が進むよう図るものだ。
そして、今は真っ昼間である。通常妻問いは夜にするもの。さらにここは工房だ。風情なんて皆無。何もかもが掟破りなのである。
これが絶性の美男で格式高い家の出であったならば、チグサも仕切り直しをするよう勧めるだけの寛大さを見せただろう。だが相手は、自らの父親よりも年上かと思われる老いた男で、しかも憎き敵なのだ。
チグサは、クロガやカツと話す中で、前々からこうなる事も予測できていた。どの時代も、王家の姫を娶って自らの出世を望む輩はいるものだ。アグロの場合、帝国由来の毒を持っている。父兄はこれで始末して、ひとり残った王の血を引くチグサと番えば、アグロは実質的に王となり変わる事を考えるかもしれない。
「確かにこんな老いぼれですから、すぐにお気に召していただけるとは思っておりません。ですがこれでもマメな方だとよく言われております。必ずや、姫様の心身をご満足させますので何卒……」
そう言って、好色な気を纏うアグロがチグサへと手を伸ばしはじめた。その手の内側には、黒い血がこびりついている。侍女がはっとして立ち上がり、止めようとしたその時、しゅるしゅると勢いよく花火が燃えるような音がした。
「だから、ありえないと言っているのです」
そうチグサが言い終わった頃には、アグロは地べたに転がっていた。身体に黒い紐状の物が絡まっている。先だって、ワタリが受けたものと同じものだ。手下からの報告でこの神具の存在を知り、衣の下に水の神を降ろした神紙を挟んでおいたのだが、全ては網羅できていなかったらしい。手首、足首からは、煤けた臭いが上がっている。
「こんなことをして許されると思っているのか」
火傷は骨を裂くような痛みがあった。アグロは顔を歪めて床に這いつくばったが、思うように力が入らない。
「こんなもの、すぐに治して……」
すると、チグサは涼しい顔で手元の扇をくるくると回した。
「楽観視するのは早計ですよ。私を何だとお思いで?」
カケル、クロガ、カツは、紛れもなく一流の寝具師であるが、チグサもまたそれに続く腕がある。兄達が新しい神具制作の技を開発するのが得意な一方、チグサは神具の評価や改良に定評がある。今回は、カケルの神具へ彼女なりの手を加えたものだった。
「それがただの火傷なわけありませんでしょ? 私はこれを毒蛇と呼んでいるのです」
アグロが震える手で巻き付いた紐を外している。徐々に広がる痺れといい、確かにこれは蛇に噛まれたようなものだ。
「さ、早く下がってください。目障りです。王族たる私に貴方如きが妻問いなんて、笑えない冗談ですわ」
さらにチグサは、ついていた侍女の一人に、アグロがチグサにフラレて袖にされたと宮中に広めるよう指示したのである。侍女は喜々としてすぐに姿を消した。
その後、アグロは手下に回収され、彼の屋敷に帰っていった。そして、早速解毒を試みるも、一向に症状は回復しない。それもそのはず。これは、アグロ自身が帝国から輸入していた毒なのだ。
チグサは、クロガがこっそりと帝国からトドいたアグロ宛ての荷から横取りしたものを大量に神具へ仕込んでいた。今のところ解毒薬は無い。
さらには、アグロの元に、この毒の出処や対処法を知る者もいなかった。アグロはみるみるうちに弱っていく。外見も痩せて肉が削げ、骨だけのようになった事から、チグサ達兄弟はすっかりアグロを無力化できたとほくそ笑んでいた。
ところが。ある日、凶報が入る。
ソラ王が、刺殺された。
アグロが最後の力を振り絞って、王の寝殿に押し入ったのだ。アグロ自身もその場で体が冷たくなっていた。自死ではなく、毒による衰弱からのもののようだ。
これは、アグロの指示で毒を盛り続けていた王付きの医師を処刑して、解毒に関する情報を集め始めた矢先のことだった。あわよくば王が普通の生活ができるぐらいにまで戻せたかもしれないのに、と悲嘆にくれる兄弟。
ソラは国葬を行い、カケルが新王として立つこととなった。
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