第74話 帰還
クレナの田舎でも、重い実をつけて枝垂れる稲穂が、黄金色に輝く季節となった。都も暑さが少し和らいで、夜は虫の音が涼やかに響き渡るようになり、鳴紡殿は久方ぶりに華やぎを取り戻そうとしていた。
ソラへ遠征していた楽師団が、ようやく帰国したのだ。馬車の行列は、鳴紡殿を目指して、ゆっくりと都大路を進んでいく。
女官から知らせを受けたコトリは、本堂の前へ向かうことにした。もちろん、出迎えのためである。
菖蒲殿と社を行ったり来たりしていたコトリも、改めて居を鳴紡殿の宿舎へと移していた。やはり、二人部屋を一人で使うのは寂しい。早くサヨの顔を見て、その無事を確かめたいと気が急いてしまうのだ。
本堂に着くと、楽師達の荷を受け取ったり、広間へ案内するための女官達も大勢が列を成して待っていた。だが、そこにいる楽師はコトリだけ。他にも留守番となっていた者達はいたはずだが、顔が見えないところをみると、もうそれぞれの田舎へ帰ってしまい、もう戻らぬつもりなのだろう。これは例年のことである。
◇
翌日、いつもの大広間に楽師全員が勢揃いしていた。アオイが労いの言葉をかけ、恙無く遠征を終えることができた喜びを皆で分かち合うのである。
その集まりが、もう解散になるのかと誰もが思っていた時、アオイは唐突に一人の少女へ目を移した。
「さて、コトリ」
「はい」
一番後ろの端に座していたコトリは、少しだけ頭を下げた。既に緊張で掌が濡れている。
「留守の間の成果を見せてもらいましょう」
コトリは、シェンシャンを構える。曲の指定はされなかったが、「碧玉節」で良いだろう。各地で間もなく収穫を迎えるこの時期にはぴったりだ。
神経を研ぎ澄ませて、あらゆる邪念を払い、自らを操り人形のごとく無の境地に追い込む。弾片が弦を弾いた。しゃらん。しゃらんと鳴る。どこまでも機械的で、行儀よく並んだ音の葉が、固唾をのんで見守る楽師達の間をするりと泳いで抜けていく。
それでいて、神気の色は譜面通りの変化を見せていた。コトリは、道具に頼ることなくその目で確認しながら、慎重に音を紡ぎ、やがて無個性な演奏会は幕を閉じた。
拍手など、何も起こらない。ただ、アオイの声だけが真っ直ぐに広間へ通り抜けた。
「よくぞここまで仕上げてきましたね。これならば、各地の収穫祭への派遣にも耐えうるでしょう。これからも努力を怠らず、奢ることなく、腕を磨きなさい」
ほぼ絶賛に近かった。その落ち着いた中にも力の入った声には、アオイの安堵と期待がこもっている。
マツ、タケ、ウメのいつもの三人は、何やら気に入らなかったのか、ざわざわとしていたが、アオイに視線でいなされると、すぐに静かになった。
「ありがとうございます」
コトリは再び頭を下げる。
アオイ達、他の楽師が求める音は出せるようになった。しかし、これで本当に正解なのだろうか。もっと別の方向性の良い音というものも存在するのではないだろうか。コトリにはそう思えて仕方ないものの、ひとまず楽師団を追い出されずに済みそうだという安堵の方が今は大きい。心の中の小波が消えて、どこまでも凪いでいくのを感じていた。
◇
夜、楽師達は、内輪の小宴をそれぞれの部屋で催していた。無事の帰還を祝い、正妃から菓子も届いていたので、それらを食しながら話に花を咲かせるのである。
初めコトリは、サヨ、ミズキの二人と集まっていたのだが、ハナから声をかけられてしまった。気心の知れた者だけでの方が肩の力が抜けて良いのだが、目上の者に呼ばれると断ることもできない。渋々彼女の部屋へやってきた。
すると、ナギやその連れまでいるではないか。元々ハナの傘下にいるカヤの姿もある。大所帯となってしまった。しかし、二位ともなると広い部屋が割り当てられているため、別段狭苦しいわけではない。
コトリは、サヨとミズキの間に挟まれて座すと、出された茶を口に含んで、こっそりとため息をついた。
「カナデ様、お疲れですね」
サヨが気遣うように声をかけてくる。コトリは慌てて首を横に振った。どう考えても、疲れが残っているだろうはサヨの方のはず。少し申し訳なくなり、声を落として返事する。
「いえ、そういうわけじゃないの。ただ……」
「ただ?」
「間もなくクレナの田舎への遠征が控えているでしょう? そして、またあんな素っ気ない演奏をしなくちゃならないと思うと、何となく気落ちしてしまって」
「そうですね」
サヨも微妙な表情を浮かべると、曖昧に頷いた。サヨ自身も、楽師団の方針には思うところがあるのだ。
「それに私、父上とのお約束があるから。あぁいう音を是とする楽師団で、首席をとるってどうしたらいいのかしらね。しなきゃ自由になれないけれど、できる気がしないというか、何だか間違っているような気がしてしまって」
「私も、カナデ様が弾く『普通の』シェンシャンの方が好きですよ」
サヨも、コトリが言わんとする事は分かっていた。けれど、コトリが帝国へ行くような事態は、絶対に避けねばならない。やはり、至高の音を求めるよりも、主義を曲げて楽師団の伝統に倣う方が早道だと思うのだ。
そこへ、ミズキも話しかけてきた。
「カナデ様、私もカナデ様の普通の音の方が好きです」
サヨは、分かっているわねとばかりに、我が事でもないのに得意げな顔をする。
「だからこそ、今の楽師団を変えるべきですよ」
「そんなこと……私達は新人なのに」
コトリは言い淀んでしまうが、ミズキはうきうきした様子でコトリの肩に擦り寄った。すぐさまサヨが睨みつけるが、ミズキは素知らぬフリで動かない。
「実はサヨ様に聞いたんです。カナデ様は首席を目指してるって! 高い志を持つことは素敵だと思います。だから遠征中に、サヨ様と一緒にいろいろと調べたんですよ」
それは、楽師団の首席がどうやって決まるかについてであった。コトリも以前から気になってはいたが、遠征すら連れて行ってもらえぬと言う事で、それどころではなかったのだ。
「どうやらですね、首席は春に決まるそうなのです」
「春?」
つまり、年に一度しか機会が無いということだ。コトリが約束の十八歳になるまでに、春は後一回しかやってこない。ミズキの瞳には、驚いて顔色が若干悪くなったコトリが映っていた。
サヨは、周囲の楽師達が自分達に注目していないのを確認すると、お茶を飲むふりをしてミズキの言葉を解説する。
「カナデ様。春に王家主催の園遊会があるのです。桜を愛でる会ですわ」
「あぁ、あの会……」
それは、アヤネ亡き後は、コトリが一度も参加を許されたことのない会であった。正妃から姿を見せぬよう言われていたのだ。
「はい。園遊会では、楽師団内でいくつかの組に分かれてそれぞれ演奏し、最も評価の高かった組のまとめ役が首席となるようです」
「評価するのは誰かしら?」
「王家をはじめ、参加した貴族達で多数決を取るのです」
つまり、王が最後の悪足掻きをしてくる可能性もあるということだ。単純にシェンシャンの技を磨くだけでは太刀打ちできないということになる。
「ねぇ、サヨ。その組というのは、どうやって決めるのかも知ってる?」
「えぇ。地方の収穫祭への遠征を終えると、楽師団内の目立った方々が、それぞれ仲間の楽師を集めて練習されるとか」
「あぁ、なるほど。では、この場もその一環ということなのでしょうね」
サヨは苦々しげに頷く。コトリは、遠くで談笑するハナを見つめた。つまりは、ハナはコトリを傘下に入れようとしているのだ。こうして部屋にも呼ばれるようになっては、実質的にそうと見なされてしまいかねない。
「カナデ様、元気を出してください。これは、勧誘の機会でもありますよ」
ミズキが励ますように明るい声を出す。
「カナデ様の奏では特別です。カナデの奏でが好きな人は他にもいっぱいいるはず。そういう人を集めましょうよ」
「ミズキ様……」
「そして、カナデ様の志を広げるのです! だって、今のままじゃ、いろいろ間違っているんですもの」
コトリはミズキの優しさに、少しだけ頬を緩めた。そんな彼女達をサヨが物言いたそうに見つめている。
部屋の中は賑やかだ。買った土産の話。途中立ち寄った村で、男から言い寄られたという話。ソラの離宮にあった神具をどうにか輸入できないかという話。
そんな中、カヤは、コトリ達から少しだけ離れた場所にいた。コトリ達が何を話しているのかは、はっきりとは聞き取れない。しかし、カヤにとって面白くない話であるのにはちがいなかった。
「これは、ハナ様に報告せねば」
そう呟くと、再び他の楽師達の話の輪に戻っていくのである。
ハナの部屋での小宴がお開きとなったのは、もう夜も遅くだった。自室への帰りがけ、コトリはハナに呼び止められて、小さな木箱を手渡される。
「これ、お土産よ。開けてみて」
言われるがままに蓋を取ると、中には小鳥の形をした置物があった。籠の中に入っている。
「可愛らしいでしょう? まるであなたみたいだと思って、ソラの都で買ってきたの。よかったら、お部屋に飾ってちょうだい」
「……よろしいのですか?」
「もちろん。今度、あなたの部屋にも遊びにいかせてね」
コトリは咄嗟に笑顔を作ったが、どこか引きつってしまった。きっとハナは、ちゃんと飾っているかどうか、確認しにやってくるのだろう。
小鳥。コトリ。
囚われて、飛び立つことのできない玩具。
偶然だと良いのだがと思いつつ、コトリの胸の内は不吉な予感で渦巻いていた。
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