第38話 ワタリとサトリ

 正妃に鳴紡殿を追い出されたワタリが向かったのは、文官達が詰めている殿だった。道中、ワタリの背後では、付き人達が口々に嘆きの言葉を吐いている。


「ワタリ様はいずれ王となられるお方だというのに、恥をかかせるなんて母親のすることか」

「周りの楽師達もけしからん。少しシェンシャンの腕が良いからと言って、澄ました顔ばかりしよって」

「そうだ。ワタリ様と名を交換したいと言い出す者がおっても良いものを。あそこは見る目が無い女ばかりだ」


 この国では、婚姻の際に、本名――――古語での名前――――を知らせ合い、互いの名を書いた紙を細長く折り畳んだ後、飾り結びをしたものを社の火で燃やすという風習がある。これは、命が燃え尽きるその時まで添い遂げ、運命をともにするという誓いの意味が込められているとか。この灰は大切に保管され、砕いた香木と共に小さな袋へ入れて持ち歩くことも多い。


 ちなみに、貴族以上の男は、複数の女を娶ることができ、その数に制限は無い。正妻となる女以外とは通い婚となり、結びつきの強さによっては男が女の家へ施しをする。


 例え施しがなくとも、地位の高い男と婚姻状態になることは、その女の誉れとなる。それ故、身分の高い男は、有事の際に味方として頼れるような女と、名ばかりの婚姻を数多結ぶことも少なくない。


 先頭を歩くワタリは突然立ち止まると、後ろを振り向いて一喝した。


「静かにせぬか。あのような女達との婚姻など、こちらから願い下げだ」


 そうは言ったものの、まだワタリには正妻がおらず、王からあてがわれた愛人のような女が二人いるきりである。王子という身分にしては少ない印象ではあるが、節操がないよりかはマシだという世間の評判である。


 付き人達はすぐさま口を噤み、恭しく頭を垂れた。ワタリはふんっと鼻を鳴らすと、再び前へ進み始める。


 ワタリの周りにいるのは、次期王の座が約束されている王子から、少しでもその権力や権益のおこぼれを貰おうと群がっている者ばかりだ。彼らは決してワタリ個人を見ようとはしていない。故に、機嫌を損ねぬよう注意を払うことこそあれ、諫言をすることはなかった。ワタリ自身も、そんな取り巻きに甘やかされていることに気づいていないところが手に負えない。


 ようやく目的の場所に着いた。


「サトリ、いるのだろう?」


 通常は、先触れを出した上で数人の文官を通してから本人と面会するものだが、ワタリは直接弟の元へ押しかけた。地位に物を言わせた横暴だ。


「兄上、このような所までいらして、どうされました?」


 サトリは積み上がった書状や陳情書、分厚い綴じ本の山の影から顔を上げる。暑さが厳しくなる季節柄、被り布はしていなかった。


 文官の長であるサトリの仕事の多くは、決済印を押すことと、部下の文官から上がってきた報告を判断しては口頭で指示を出し、大切な案件については自ら調査分析の上、企画書や計画書や作成すること。首にかけっぱなしになっている手拭いを見るに、この日も多忙を極めているのは明らかだ。


 ワタリはサトリの卓の前に椅子を見つけた。よく使い込まれているらしく、座ると軋んだ音がする。


「ほんの少しだけお待ちください」


 サトリは何か書き付けている途中だったらしい。忙しなく筆を走らせている間、手持ち無沙汰なワタリは部屋を見渡した。


 この殿も他と同じく赤い柱に白い壁、青い瓦の屋根を持つありふれたものだが、中はとにかく物が多い。主に書物と、箱類だ。ワタリは、ここにコトリのシェンシャンがあるのではないかと踏んでいたのだが、これでは見つけ出すだけでも苦労しそうである。


「お待たせいたしました」


 サトリがやってきて膝をつくと、ワタリはただ大きく頷いた。


「お前、コトリのシェンシャンを持っているだろう?」

「コトリのものといえば、初代様の遺産のあれでしょうか」

「そうだ」

「それならば、ここにはありません。他のものでもよろしければ、シェンシャンはいくつかあったはずですが……」


 サトリは、立ち上がると周囲の箱の中身を物色し始めた。途端に絶妙な均衡を保っていた古書の山が崩れ、それをサトリの部下が片付けることとなる。ワタリは当たり散らすように足元にあった木箱の蓋を蹴り上げた。


「そうか。渡す気がないのだな」

「は?」


 サトリは一番下の弟で、昔から何かと要領が良い。さらに、兄弟の中では一番コトリとも仲の良い男でもある。そう簡単に尻尾は出さないとは考えていたが、いちいち追求するのも面倒になってきた。何より、この部屋は埃っぽくていけない。やはり、尊い身分の自分には不似合いな場所だとワタリは思うのだ。


「もしかしてコトリが、シェンシャンを失くしたのですか?」


 サトリは心底心配そうな顔をする。今からでも探しに行きそうな勢いだ。


「もう、いい。それより、金を出してくれ」


 ワタリは早く用件を切り上げて、自分の宮へ帰りたかった。


「何にお使いになるのですか? 金額は? 父上の決済は済んでいる案件ですよね? 事前に予算申請してくださっていた分でしたら、すぐにでもお出しするのですが」


 サトリは一気にまくしたてる。ワタリは顔をそむけて、足の貧乏揺すりを始めた。これは、都合が悪くなって苛立っている時の癖だ。


「何でもいいだろう? 慈善活動のようなものだ。王には後程私から話を通しておく」

「分かりました。王の決済が下りて、こちらへ承認の書が届き次第、指定の金子をお届けに参ります」


 あくまで、すぐには出さないという態度を貫くサトリ。王家は常に困窮しているのだ。不明な用途の出金は、いくら王子といえ許されない。


「そんな暇は無い。私は急いでいるのだ」


 しかしサトリは、無言のまま良い笑顔を崩さない。それに嫌気がさしたのか、ワタリは乱暴に椅子から立ち上がった。


「どいつもこいつも使えない奴ばかりだ。せいぜい、ここのガラクタの中に工芸品があれば、私の宮へ持ってくることだ。価値あるものならば、今日のことは水に流してやってもいい」


 ワタリは部屋を出ると、また取り巻きと共に殿を出ていった。見送りに外までついていったサトリは、ほっと大きく息を吐く。


「本当に使えないのは、どこの誰でしょうね」


 うっかり本音が口から漏れていたらしい。誰が聞いているか分からぬから注意するように、と侍従が責めた。それでもサトリは止まらない。


「兄上さえしっかりしてくだされば、今頃、姉上はここにいらっしゃったのに」


 サトリは、空を仰いだ。


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