4-6 本音
「和解失敗って……」
とりあえずヒロを部屋の中に入れると、彼は勝手にベッドに腰掛けて、伸びをした。突然押しかけてきた上にくつろいでいらっしゃる。まあ、いいけど。
「もっかい話し合おうと思ったんだけど、反対されるばっかでさ。もうマジで家出する。明日になったら俺は部屋にいない。もぬけの殻だよざまあみろ」
「ざまあみろって、じゃあ今夜はどうすんの?」
まさか一晩中、ここにいるつもりじゃあ……。うっすらと嫌な予感がする。
ヒロは案の定、私に向かって深々と頭を下げた。
「絶対に迷惑かけないんで、朝までだけ泊めてください」
やっぱり。それでこの大荷物か。
「私だって困るんだけど。お父さんとお母さんにバレたらどうしてくれんの……」
ヒロの隣りに座って肩を落とす。怒られるどころの話ではない。
「それは、もしバレたら俺が悪いんですって謝るから。明け方に玄関から家、こっそり出ていかせてくんない?」
「……出てって、どうするの?」
「ハルがいいって言ってくれたら一晩か二晩か泊めてもらって、そのあとは学校のダチで泊めてくれる家を転々とする。母さんに見つからないように父さんに連絡取って、サインもらえるように頑張るか、母さんが折れてくれるのを待つ」
ヒロのお母さん、頑固そうだし折れないだろうなあ。正直、家出しなくてもお父さんにサインくらい上手くやればもらえるんだろうけど、これはそういう問題じゃなくて、彼にとっての「絶対に事務所に入る」という母親に対する意志表示なんだろう。
「うちらもう子どもじゃなくて一応高校生の男女だよ? ほんっとうに見つかったらヒロが謝るだけの問題じゃないんだけど……。たぶんお父さんがヒロを殴り飛ばすよ」
「ぜっっったいに見つかんないように出てくから。ついでに、さっちゃんにも死んでも何もいかがわしいことしないから」
「ついでって失礼な。でも、うーん」
……今回だけだ。自分に無理やりそう言い聞かせる。
「わかった。もううちの両親、寝てると思うから。何か飲む?」
客人に飲み物を出す程度の最低限のもてなしはしてやろうじゃないか。ベッドから立ち上がる。
「ありがと。何でもいい」
部屋を出ようとする私に、ヒロが小さな声でお礼を言った。
*
「俺、あったかい牛乳好き。なんでわかったん?」
私が自分の分のココアとヒロの分のホットミルクをこそこそと準備して部屋に戻ってくると、ヒロが不思議そうに私を見た。
マグカップを手渡し、ベッドを背にして床に座る。ヒロも同じようにして隣りに三角座りをする。
「だってよく飲んでたじゃん。幼稚園くらいのときにうちにお泊まりしにきてさ、いつも寝る前に牛乳飲んでるから飲まないと寝れないって駄々こねてたよ」
「覚えてねえ……」
難しい顔でぼやきながらカップに口をつけるヒロに、私は笑みをこぼした。
なんだか懐かしい。昔はよく、どちらかの家にお泊まりしていた。
ヒロの家に行ったときには、志紋くんもいて。ちょっとした非日常な感じが楽しくて仕方なかった。
「そういえば、パソコンで何見てた?」
突然思い出したのか、ヒロがカップを置いて私の机の上に首を伸ばす。PC、開けたままだった。動画も途中で停止状態だ。
「……踊ってみた?」
ヒロが露骨に顔をしかめる。彼は私がもう一度踊ることにはきっと反対だ。何を、どう言おう。
「いや、そんな泣きそうな顔されたら、なんも言えねえし」
「……え?」
手が伸ばされて、口もとをぐにーっと伸ばされる。
「笑えー」
「いひゃい、ひ、ひろ、いひゃい!」
上手く喋れない私を見てヒロのほうが笑っている。くすくすと真正面いる彼の体が揺れて、一瞬お互いの顔がものすごく近づく。
「あ……」
至近距離で目が合ってしまい、私は中途半端なかすれ声をもらして固まった。不思議な沈黙が私たちの間に流れる。
何秒経ったかわからない頃に、ヒロがパッと手を離して体ごと横を向いた。
「……ふざけすぎた」
「……」
三角座りで顔を膝にうずめているヒロを、私は無言で見つめた。
なんだろう、これ。胃か心臓か、よくわからないけど胸のあたりが、変だ。
ヒロとどんなに物理的に近づいたって、あんなおかしな雰囲気になったことは一度もなかった。緊張感がすごかったからもうごめんだ。……けど、もう少しあのままでいたかったような気も、しないでも、ない……?
「踊んの? 別に俺、怒ったりしねえよ」
膝から顔を上げたヒロが、不機嫌そうに私を見る。
その言葉で我に返った私は瞬きを数回した。今は、踊ってみたの話の途中だった。
「でも、怒ってない?」
「怒ってない。心配なだけ。もう大丈夫なわけ?」
「……わかんない」
私は呟くと、ヒロみたいに顔を自分の膝に埋めてみる。姿勢は楽だけど息が苦しくて、そのまま横を向いて耳を膝につけると、三角座りのままのヒロと目が合った。
「ハルから聞いたよ。ホームページに私たちの顔写真を載せたいって東さんが言ってたんでしょ? それから踊ってみたもまたやってみたらどうかって話も出たって」
「ああ、それ。でも無理強いはしないって」
「うん。東さんには私が直接断った。でも、私だってハルちゃんねるのメンバーだもん。本当はみんなと一緒に写真を載せたい。私のダンス動画がチャンネルの再生回数アップに役に立つなら、動画も出したい。そういうの関係なくても、踊るのは好きだったからまた踊りたい。だから……一回、挑戦してみようかなと思ったの。あれから二年経ってるし。もしかしたらカメラの前に立っても平気になってるかもしれないじゃん? 試しに踊ってみて、撮影してみて確かめようかなって」
こうなる前、本当の私は踊ることは好きだったから。踊って身体を動かすことそのものも、上手だねって顔も知らないたくさんの人たちから褒めてもらえることも。
黙って話を聞いていたヒロが、悲しそうに笑った。
「……そっか。俺も同じ。みんなと一緒に写真を載せたい。俺だけ契約できなくて、俺以外のみんなが俺を置いていくのが、嫌だ」
「うん」
「亜紀羅、ごめん」
突然、本名を呼ばれてどきっとする。ヒロは私の方を向いて、後ろめたそうに私の少し横に目線をずらしていた。
「な、何が?」
「俺、寂しかったんだ。兄貴とお前が一緒に踊ってるの見てると。俺はダンスとか、からっきし駄目だし。ずっと仲間外れだと思ってた。だから、亜紀羅が踊り手をやめたとき、喜んでた」
「ヒロ……」
そらされていた目が、私を見る。澄んだ焦げ茶の瞳だ。
「ハルちゃんねるに入ったのも、亜紀羅を守ろうとかそんなんじゃなくて、また仲間外れになりたくなかっただけ。亜紀羅と一緒に動画作ることで、今度は兄貴を仲間外れにできるような気がしてた。兄貴から亜紀羅を奪えたような気がしてた。ていうか正直言うと今もちょっとそんな気がしてる」
そうだったんだ。ヒロはそんなことを思ってたんだ。私が自分のことしか考えていないうちに。
「ごめん。こんな理由で一緒に動画投稿するとか言い出して。でも、もう今さらやめたくないんだ。こんなに楽しいって思ってなかったから。ごめん」
そんなに謝らなくていいのに。眠気がやって来てふわふわする頭で、私は思い出す。踊っていたときのヒロ。踊るのをやめたときのヒロ。一緒にハルちゃんねるに入ると言ったときのヒロ。どんなだったかなあ。詳しくは思い出せないけれどとにかく、いつでもヒロは優しかった。心の奥で何を思っているかを上手く隠すように。
「私こそ……寂しかったのに気づかなくてごめんね。私が踊ってるときも、踊らなくなったときもそばにいてくれてありがとう。理由がなんでも、ハルちゃんねるで私が嫌な思いをしないように助けてくれてありがとう」
SNSが怖くて、コメントが怖くて、動画に写るのが怖くて。
「ちゃんとヒロは私のこと守ってくれてるよ。なのに、今ヒロが困ってるのに助けられなくてごめんね」
「ううん。今、家出するの手伝ってくれてんじゃん」
「だってそれくらいしかできないからさあ。ヒロのお母さん怖いし私は説得できないし」
「それな。母さんマジ頑固だし困るわ」
ヒロが泣きそうな顔で、笑った。
*
緩く肩を揺すられて目を開けると、部屋の中が朝日でうっすらと明るくなりかけていた。
「さっちゃん、俺、もう出るから」
「ん、うん……」
知らない間に寝ていたみたいだ。ベッドに横になることすらせずに、三角座りのまま背中をベッドの側面にもたれかけた状態で目覚める。
時計を見ると、午前五時ちょうど。
ヒロは荷物を持って準備万端といった状態で私の顔をのぞき込んでいた。
まだ寝ているであろう両親を起こさないよう、二人で慎重に部屋から出て廊下を歩く。玄関の鍵を開けてドアノブを動かすと、小さくカチャリと音が鳴って心臓が跳ねた。
けれど心配も杞憂で、親が起きてくる気配はない。そのままするりとヒロは玄関の外に出た。
「じゃあ、ありがと」
「ん。早めに家、帰りなよ」
「母さんが折れればね」
「あっ、ちょっと待って」
唐突にインフルで寝込んでいたときのことを思い出す。
「なに……痛ってえ!」
私の渾身のデコピンをくらったヒロが両手で額を押さえながら後ずさる。
「これでよし。すっきりしたー」
「よしってなんだよ、全然よくねえよ」
「はいはい。もういいから見つかる前に行って」
「意味わかんねえ。暴力反対。じゃあな」
不満そうにエレベーターのほうへ歩いていくヒロの背中を眺める。
やれやれ。家出したからといって何がどう解決するものでもないというのはヒロ本人もわかってはいるんだろうけど、どうなるのかな、これから。
とりあえず学校に直行するというヒロを見送って、私は再び家の中に戻った。まだ登校の準備をするには早すぎる時間だ。二度寝しよう。
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