第四章 クライシス
第四章 クライシス
ゴンッと、何かが落ちる音がした。浩一郎は振り返り、音の正体を探す。
けれども、音の正体は掴めなかった。おそらく大した事はないのだろうと思う。
その日の業務を終え、浩一郎は大きく伸びをした。外に出ると、真っ暗だ。
車に乗り込み、自宅へと告げる。と、車体はゆっくりと動き出した。
「自動運転ってこういう時に便利だなぁ……」
この車を購入して既に三年近くが経とうとしているが、今だにそう思う事が多々ある。
疲れている時にはなおさらだ。
もちろん、浩一郎の所有車もいちおう自分で運転はできるのだが、実際にやった事はない。
免許は持ち歩いているが、ほとんどペーパードライバーと変わらない。
しかしそれは、現代社会で車に乗っている人間なら誰もが通る道だ。
教習所を出てから、ハンドルを握った事のある現代人なんて皆無だろう。
それこそ、趣味でもなければ。
しかし、今なら仮想空間で運転という選択肢がある。わざわざ事故の危険のある実際の道路出運転なんてありえないのだろう。
とりとめもなくそんな事を考えながら、浩一郎は背もたれに体を預けた。
さて……サラとひまわり、二人は仲よくしているだろうか。
浩一郎は脳内で二人が一緒に遊ぶ様を想像して、にやりとした。
我ながら気味が悪いな、と思う。けれども、これは仕方のないことなのだと言い聞かせる。
果たして一体、どのあたりが仕方のないことなのか彼自身にもわからなかったが、仕方がないのだから仕方がない。
「それにしても、不思議だな」
技術革新と言われて久しいけれど(今はもう、その言葉すら聞かなくなったが)、浩一郎の若い頃はまだ、世の中はこんなふうじゃなかったように思う。
ではどんなふうだったかと訊かれると、返答に困るのだが。
浩一郎は自らをそれほど社交的とは思っていなかったので、それまでの世界というものに全く関心を寄せてこなかった。それは、今でもあまりかわらないが。
人の気配の消失した地域。おそらく、世界のあちこちで同じようなことが起こっているのだろうと想像すると、薄ら寒いものがある。
浩一郎はぶるりと身震いし、嘆息した。
確かに世界は便利になっただろう。けれど、平均寿命も二百年近く伸びたと言われている。
しかしそれでも、人類は今だ死を克服できてはいなかった。
もし、人類が死を克服できていたならば……と考えずにはいられない。もしそうだったら、きっとカーラは死なずに死んだのだから。
考えても仕方のないことだとわかってはいたが、そう思わずにはいられなかった。
人類は今だ、シンギュラリティに達しているなどとは浩一郎には到底思えなかったのだ。
「いや……それも僕の感傷に過ぎないのかな」
浩一郎は車窓からの景色を眺めながら、呟く。
寿命は延びた。二十年前に発表された希望的観測が混じった発表とはだいぶ異なってはいるけれど、確かに人類は神へと近付きつつあるのだろう。
だからこそ、こうして僕は自動運転車に乗っているわけだけれど。
浩一郎はふっと表情を緩める。意識して、そうする。
夜の帳の降りた窓には、浩一郎のみすぼらしい顔が映っていた。憮然とした顔だ。
せめて、家に帰るまでには、サラに会うまでにはほぐしておかなくては。
浩一郎はぐにぐにと手の平で頬を触る。何度もマッサージを行う。
そうしていると、何だか今度は楽しげ気分になってきた。
帰ったらただいまを言おう。リビングから、サラが駆けて出てきてくれるだろうから。
駆け寄って来て、僕の胸に飛び込んでくるだろうか。おかえり、という小さな娘の大きな声が聞こえるようだ。そうしたらもう一度ただいまを言う。
なんて楽しいんだ。なんて幸せなんだ。
浩一郎は帰宅後のその様子を想像して、マッサージの手を止めた。
もう、自然と笑えているからだ。これなら大丈夫。
と、ぐっと突然、体が前のめりになる。それなりに勢いがあった。
シートベルトをしていなければ、ハンドルとぶつかってしまっていただろう。大怪我をしていた可能性が高い。
浩一郎は何事だ、と外へと視線を向ける。
すると、車のヘッドライトに照らされた先に、人影があった。
それも、一人や二人ではない。ざっと見て五人はいる。
「危ないじゃないか!」
浩一郎は車から降り、彼らに向かって叫んだ。普段の彼からは考えられない、怒気を孕んだ声だった。
AIに管理されているため、自動車同士の事故はほぼ消滅した。人身事故に関しても、九十%以上の精度で回避可能になった。
だからというわけではないが、事故はほぼなくなったと言っていいだろう。
浩一郎の車が彼らを轢くことはないだろう。しかしそれにしても、危険であることに変わりはない。
浩一郎は彼らを睨んだ。が、集団が怯むことはなかった。
彼らは統率の取れた動きで素早く浩一郎を取り囲む。何事だ、と思ったが、抵抗する暇もなく車のボンネットにあごを叩きつけられた。
「……何をする」
鈍痛が体を駆け巡る。楽しい想像は一瞬にして掻き消え、今は目の前の不審者集団に意識が向いてしまっている。
一体……何が目的だ? こいつらは何者なんだ?
浩一郎が問いを投げようおとすると、直接取り押さている男がガッとあごをボンネットに擦り付けてくる。痛い。
無駄口は叩くな、ということらしい。
浩一郎は黙ったまま、男たちの動向を観察する。
全員、黒一色の服装だ。まるでどこかの特殊部隊を思わせる。統率の取れ具合といい、きっとそうなのだろうと思われる。
浩一郎は政府機関について詳しいわけではない。それでも、そんな彼でも知っているものがいくつかある。
おそらくはそのどれにも該当はしないだろう。けれど、そういったものの内のどれかなのだろうなと推察される。
無頼の輩なら、ここまでのことはしない。武器をちらつかせて、暴力に訴えるはずだ。
だったら、話の通じない相手ではないだろう。いや、だからこそか。
浩一郎は無理矢理体を起こさせられる。そのまま、引きずられるようにして彼らが用意していたと思しき黒い車へと乗せられた。
バタンッとドアが閉まる。それを確認して、男たちは素早く同じ車に乗り込んだ。急発進するものだから思わず前の座席に手を突いてしまう。
けれども、彼らはそんな浩一郎の反応などお構いなしに猛スピードでどこかへと走っていく。
「……サラ」
娘の名を呟く。これから帰って、楽しいディナーだというのに。
すまない、と心の中で謝罪する。口に出せば、何をされるかわからないから。
浩一郎は遠ざかっていく車のヘッドライトを見ながら、何度も謝っていた。
〇〇
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