第2話 フフェマクッグプ(後悔莫及=後悔先に立たず)
釜山から目的地の厳原迄、たった二時間しか掛からない。
出航して、まだ十分と経っていないのに・・・・・最早一日、或
いはそれ以上に時が経ったのでは。
と、そんな錯覚を覚える。
どうかしてる、私・・・・・。
厳原の港へと向かうジェットフォイルの中、猛スピードで過ぎ去
って行く窓外の海原をぼんやりと眺めながら、無為に爪を噛もうと
していた。
そうして左手の親指を口の中に運ぼうとした刹那のこと、薬指に
あしらわれたホログラムの白い花弁がきらと光り左眼を射る。
躊躇して噛むのを止めた。
思い留まったところで、史樹との結婚がどうにかなるものでも無
いのに・・・・・。
でも、やっぱり、もう少しこのままにしておこう。
せめてあと少し、嘘でもいいから史樹の花嫁で居よう。
気が付けば爪を噛むのを止めた自身に、我知らず苦笑していた。
帰国する前夜のこと、日本で施術して貰ったジェルネイル。
もうすぐ一ヶ月、そろそろ寿命を迎えるものの未だ綺麗なまま白
く耀いていた。
女だてらに医師などと言う仕事をしていると、たまの休みに両面
テープでオーダーチップを貼り付けることくらいしか出来ないのだ
けれど、その夜は、せめて結婚の報告の時くらい、と。
そう思って、わざわざネイルサロンに出向いたのだった。
でもそれが、今、ナンビになろうとしている。
そうだ、これって、ナンビって日本語で何て言うんだっけ。
日本語で考え事をしていたつもりが、つい口を吐いて出てしまっ
た国の言葉。
一ヶ月も日本を離れると、日本語まで覚束無くなってくる。
気だけが焦り、中々その意味の日本語が出て来ない。
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眼を瞑って大きく一つ溜息を吐き出した。
するとどうしたものか、途端に「無駄」と言う言葉が脳裏に閃く。
そう、思い出した。「無駄」だ。
このネイル、無駄になってしまうかも知れないけれど。
でも・・・・・あともう少しだけ、このままにしておこう。
その夜は、「フレンチで」、と、ネイリストに告げた。
真っ白な定番のフレンチネイル。
それだけでは面白くないので、ホログラムの花弁と、ラインスト
ーンをあしらって貰う。
ウェディングネイルとか、ブライダルネイルとか言われるものら
しいけど、せっかく綺麗にしたこのネイルが、全部無駄になってし
まう可能性が大だ。
でももし、史樹が今からしようとしている二回目のプロポーズを
受けるのなら、このフレンチネイルも無駄にはならない。
でもそれは出来ない・・・・・受けられるものなら受けたいけど。
そんなことは、絶対に駄目。
でも、やっぱり史樹以外には考えられない・・・・・。
そうやって幾ら考えても答えを出せない、馬鹿な自分。
出来ることなら史樹から貰ったエンゲージリングを、この白い花
弁をあしらった左手の薬指に嵌めたいと思う。
そうと思いを巡らせ、恵美は左手の薬指をぴんとまっすぐに立て
てみた。
思い起こせば、以前ネイルサロンに行ったのは三年も前だ。
三年ぶりに、綺麗になったネイルだと言うのに・・・・・。
まさか両親にあんなにも反対されるとは、思ってもみなかった。
或る程度予期はしていたけれど、それにしても、父も、母も、あ
そこまで反対するとは・・・・・あそこまでとは・・・・・。
家を出て行けとまで言われた。
仕方が無いから家を出て行くと言ったら、父に力尽くで部屋の中
に押し込められてしまう。
それからと言うもの、家の中ではほぼ軟禁状態だった。
トイレも、食事も、お手伝いのおばさんの監視付き。
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まるで囚人扱い。
昨日も母に、嘘を吐いて出て来るしかなかった。
トンデムン(東大門)のファッションビルに買い物に行った後、
ソヨン(昭媚)の家に泊まるから。
と、そうとだけ言い残して、昨日の昼過ぎに家を出た。
実際に高校時代の友人の昭娟に、協力して貰ったのである。
両親に私の家に泊めるから、心配しないで欲しいと言わせたのだ。
昭娟には悪いことをしたが、彼女に頼むしか無かった。
彼女だけだったのだから、私の気持ちを分かってくれたのは。
彼女も日本への留学経験があり、そして私と同じように日本人男
性と恋に落ち、また私同様家族に猛反対を受けた。
尤もそんな彼女も、今では韓国人男性と結婚して、二児の母とな
っているのだが・・・・・。
ともあれ彼女だけが私に協力してくれた。
後で悔むより、今為すべきことを為せ。と。
私の両親が怒っても、代わりに叱られてあげるから。
だから行きなさい。と、言ってくれたのだ。
フフェマクッグプ(後悔莫及=後悔先に立たず)。
そう言って送り出してくれた。
昭娟は私が今朝の厳原行きのジェットフォイルに乗った頃を見計
らって、私の両親に告げると言っていたから、丁度今時分である。
ソウルの実家では、今頃さぞ大騒ぎになっていることだろう。
昨夜のうちに、KTX(韓国高速鉄道)に乗って釜山まで辿り着
き、ホテルで一泊した。
そして釜山から朝一番の厳原行きに乗り、今私はこのジェットフ
ォイルと呼ばれる水中翼船の中に居る。
両親にも、昭娟にも悪いことをしたと思う。
でも、どう考えても、日本人と結婚することがそんなに悪いこと
とだとは思えない。
唯、好きになった男(ひと)が、史樹が日本人だっただけ。
そのことを、何度も、何度も、何度も繰り返し両親に訴えた。
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ところが何度訴えても尚、理解してはくれなかったのである。
それこそそれは、私のせいでも、史樹のせいでも無い筈。
でも今思えば、何でも言うことを聞いてくれていた父が、日本に
留学したいと言った時だけは反対したのだから、そのことを考慮に
入れれば、史樹との結婚の反対も当然と言えば当然であった。
幼い頃から一人娘を溺愛してくれた、父。
その父がその時だけは、留学したいならアメリカに行けと言った。
私はその時生まれて初めて、私の望みを父に拒否されたのである。
只、精神科医を志すものなら、皆知っている。
日本の精神医療のレベルが如何に高いかと言うことを。
その時の私が日本に行きたいと思った理由は純粋にそれだけで、
それ以外には何も無かった。
それはそうだ・・・・・まさか史樹と巡り会うなんて、その頃は
知りよう筈もなかったのだから。
それでも結局その時は在日同胞の親戚の許からなら、東都医大に
留学生として通っても良いと、最後は父も折れてくれたのである。
そしてそれには、母の協力も多分にあった。
その頃は未だ産科の医長を務めていた母が、父の説得や留学の手
配などを買って出てくれたのである。
そうやって甘やかされてきた、私。
しかし今回は、今回の父は、今までの父とは違った。
史樹との結婚だけは絶対に許さないと、聞く耳さえ持たない。
その上今回は母さえも、私に協力をしてくれなかった。
何故? と。どうして、と。
叫んでみたところで端から誰も居ない部屋の中、私は軟禁された
ことを幸いに、インターネットを使ってありとあらゆる日韓双方の
サイトや書き込みをチェックした。
そのせいか史樹ほどではないけれど、私も日韓関係について以前
よりは大分知識が益したような気がする。
無論私にも反日感情はある。
幼い頃から教科書の中で頻りに刷り込まれた、反日の意思。
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今の私が聞けば、かなり史実と異なるものだけれど・・・。
ふと思い付き、インターネットだけではなく部屋の中のクローゼ
ットから引っ張り出して来た昔の教科書を、今一度読み返してみた。
やはり反日の記述しか記されていない、小学生の時の私の教科書。
我々民族を陵辱し、我が領土を侵略した日帝(にってい)は、朝
鮮だけでは飽き足らず、アジア全体を踏み躙った。と。
そのように太平洋戦争は飽く迄日帝の侵略行為であり、天皇は謝
罪しなければならない。と。
また罪も無い我が国の民間人だけを虐殺し、村に放火して燃やす
など朝鮮を欲しいままにした。それに対し独立軍は云々、等々。
そうして教科書の中に記された韓国の主張と、インターネットを
通して知った日本側の主張とは、悉く見解を異にしていた。
過日使っていた教科書の中で「独立軍」とされる人達は、日本で
は「抗日運動家」とされていて、また「独立運動」とされる行為は、
日本では飽く迄も「抗日運動」とされる。
つまり我々韓国人に取っての第二次世界大戦は、朝鮮と日帝との
「独立戦争」であって、日本人に取っての「太平洋戦争」では無い
と言うことだ。
そしてまた日本の動画サイトなどで見掛ける「神風特別攻撃隊」
の悲劇に至っては、それ等の事実が存在したと言うことの一切の記
述が為されていなかったのである。
私にしても史樹に出会っていなかったら、そのようなことを知り
たいとも思わなかっただろう。
けれど今の私にすれば、もし史樹が特攻隊員となって、アメリカ
の軍艦に体当たりしに行っている場面を思い浮かべると、胸が張り
裂けるどころか気が狂いそうになる。
ともあれ結果分かったことは、日本が世界を相手に闘ったとする、
所謂日本で言うところの「太平洋戦争」は、韓国人に取ってどうで
もいいことだと言うことだ。
そしてまたその日本の言う、「太平洋戦争」について記されてい
る部分は、過去使っていた私の教科書の中では僅か二行しかない。
広島と長崎に原子爆弾を落とされた日本は、ポツダム宣言を受諾
し、この侵略戦争を終わらせた。と、言う二行である。
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読み直してみて、さすがにそれはおかしいと思った。
仮にも核の廃絶を謳う民主主義国家であるなら、仮令その原子爆
弾を落とされた国が日本であっても、やはりそれは悲しむべきこと、
忌むべきこととして、アメリカに自省を促す表現があって然るべき
だと思う。
その上人類史上初めて実際に行われた核攻撃である、広島と長崎
に対する原子爆弾投下の悲劇に関しても、詳細な記述は一切無い。
まるで日本は、原爆を落とされて当然だ。と、言う感じ。
それは絶対に以上だ。
しかしそれが、韓国の偽らざる教科書の現況である。
また不特定の日本人の書き込みに、こう言うのが在った。
終戦後間も無く、韓国に反米感情が芽生え始めようとする傾向が
あり、それを察知したアメリカが、反米感情を反日感情に摩り替え
てしまったのだ。と、言うもの。
真偽のほどは定かでは無いが、なる程。と、肯ける書き込みだ。
仮に韓国の教科書がアメリカに取って都合の悪いことを、一切排
除すると言う原則の下に作られたものであるなら、それはそうなる。
原子爆弾投下についての記述も、そう言うことなのだろう。
しかしそのことを考えた時に、最も恐ろしいと思ったこと。
それは日本がアメリカに原子爆弾を投下されて、いい気味だ。
或いは日本人が被爆して、ざまあみろ。
チョッパリ(豚蹄=足袋や下駄の鼻緒が二つに割れていることか
ら、日本人を豚の蹄に喩えて揶揄する言葉)め、思い知っ
たか。と、言う感覚。
ふと、そんな恐ろしい言葉が脳裏を過ぎる。
現実に何人かの韓国人が、その感覚を抱いている可能性がある。
否、下手をすると、多くの韓国人が・・・・・。
と言うよりはむしろ、殆どの韓国人がそう言う気持ちを持ってい
るのではないか? 往時広島在住の韓国人も何万人と被爆したのに。
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と、そんな風に思い至ったとき、私は身震いを禁じ得なかった。
そしてこうして今、そんな感覚を恐ろしいと考えている私自身も、
もし史樹と出会っていなかったら、どうだったか・・・・・。
でも史樹を好きになった、今の私は違う。
今の私が思うことは、もしそう考えている韓国人が沢山居るのだ
としたら、韓国と言う私の生まれた国は異常だと思う。
しかし私の異常だと思う感覚が、韓国人の間では普通なのだ。
どれだけ声高に人類愛を叫んでみたところで、韓国人に取っての
日本や日本人に対する考えが変わるものではない。
韓国人に取って日本と言う国は鬼か魔物の住む国であり、また日
本人と言う人種は鬼か魔物に相違ないのである。
また日本の言う八月十五日の「終戦記念日」に当たる日は、韓国
ではクァンボクチョル(光復節)、即ち韓国に光が復った日として、
国を挙げてお祝いをする。
片や戦争が終わった日、片や祖国に光が復った日。
無論光復節の日は祝日なのであるから、韓国では当然会社も、学
校も、国中がお休みになる。
一方日本では、「終戦記念日」と銘打たれているのにも拘わらず、
その日は祭日でも休日でも無い。
日本人は皆、「終戦記念日」にも一生懸命働いている。
また学生は、一生懸命に勉強をする。
やはりそれは、敗戦国だから反省しなければならないからなのか。
それともアメリカに気を遣っているのか。
でも能く能く考えると、正確には日本が戦争に負けるまで韓国は
日本だったんだから、やはり韓国も戦争に負けたのではないか?
それに日本が戦争に負ける迄は、韓国と言う国は存在しなかった
のだから、やはり韓国に取っても「終戦記念日」なのでは?
と、一瞬そんなようなことが脳裏を過ぎったが、直ぐに顎を振っ
てそれ等総ての思考と言葉を打ち消した。
背筋に悪寒が走る。
国へ帰って、もしも私の口からそんな言葉が洩れようものなら、
‐32‐
間違いなく私の韓国での居場所は無くなる。
そして両親の医院にも、忽ちのうちに患者が来なくなってしまう。
親日は許されざる罪なのだ。
所謂反日無罪の逆。
殊に父の育った時代に至っては、それは、それは、激しい反日思
想を叩き込まれたことだろう。
父は大戦終結後間も無い、イスンマン(李承晩)政権の時代に反
日教育を受けている。
日本では李承晩(りしょうばん)ラインと言う言葉で有名らしく、
トクド(独島)を韓国の領海の中に引き入れたのも、彼の時代に始
まったことらしい。
尤もそのようなことは、韓国の教科書には出てこない。
独島は独島であり、初めから韓国の領土なのであって、独島を竹
島とする日本が間違っていると言う見地に立っているのだから。
無論私は、李承晩の時代を知らない。
そんな私が言うのもおかしな話だけれど、私の反日感情などとは
比べ物にならないくらいの強いそれが父の胸中深く刻み込まれたの
は、李承晩の教育政策以外の何物でもないと断言出来る。
その李承晩の出自は량반(両班/ヤンバン=李氏朝鮮時代の貴族)
で、彼は李氏朝鮮の王族の分家であることを誇りにしていたらしい。
日韓併合が為される以前、李承晩は独立協会と言う結社に入会し
ていて、時の親露派政権が高宗に讒言したことにより、親露派であ
った独立協会も強制的に解散、或いは指導者の逮捕に追い込まれた。
一八九九年、朝鮮半島全土が大韓帝國であった時代のことである。
その時李承晩も投獄され、拷問を受けながら一九○四年までの五
年間を獄中で過ごす。
とは言え英語が話せた故に彼は釈放され、往時の皇帝高宗の命に
より大韓帝國独立の援助を求めんが為、渡米。
日本の政治・外交・経済に亘る、大韓帝國への関与を畏れた故の
高宗皇帝に依る釈放であり、アメリカへの派遣であった。
渡米後プリンストン大学に於いて、哲学博士号を取得する。
‐33‐
この韓国人としての初めての博士号取得が、後に彼を李承晩博士
と呼ぶ所以となった。
そうして終戦後アメリカはハワイ州から帰朝した彼は、一九四十
八年に大韓民国初代大統領に就任。
その後大統領を三選するも、一九六○年の不正選挙問題が発端と
なりデモ隊と警官隊が衝突すると言う、所謂四月革命の勃発を受け
てハワイへ亡命。
以降九十歳でその生涯を閉じるまで、ハワイに在住。
晩年は寂しいものであったろうが、常夏のハワイで余生を過ごせ
たのだから、彼の人生もそんなに悪いものではなかったように思う。
しかしこうして順に彼の経歴を追ってみて言えることは、李承晩
の生涯が総てアメリカに終始していると言うことだ。
加えて渡米から帰朝するまでの間は、終始独立運動家として活動
していた。
つまりその経歴が李承晩は筋金入りの親米家であり、また反日家
でもあると言う事実を裏付けている。
してみれば彼の教育政策がアメリカ寄りで、且つ反日的であった
ことは至極当然であると言えよう。
また彼が教科書を、アメリカに取って都合の悪いことの一切を排
除して作らせたと言う推測も、強(あなが)ち間違いでは無いと
言うことになる。
畢竟原子爆弾投下の記述についても、削除すべしとなってしまう。
或いはネット上での、終戦後間も無くアメリカが反米感情を反日
感情に摩り替えたと言う書き込みも、より信憑性を益す。
そしてそんな時代に教育を受けた父もまた、筋金入りの親米家で、
且つ反日家である。
その上父の生年一九五十年は、朝鮮戦争が勃発した年でもある。
でも、そんな父に引き換え、私が生まれたのは一九九十二年。
ノテウ政権下で生まれ、学校教育を受けたのは、キムデジュン政
権下、或いはノムヒョン政権下と言うことになる。
そうしてざっと韓国大統領の名を連ねただけで、父と私の時代の
差は明らかになると言うものだ。
‐34‐
とは言え私と父の、その中間の世代に位置し、最も韓国の経済発
展に寄与した大統領の名が抜けている。
ハンガン(漢江)の奇跡とまで呼ばれた、高度経済成長を齎した英
雄、パクチョンヒのことが。
日米両国から経済援助を取り付けたその手腕は歴代随一であり、
並ぶべき者など一人として居ない。
しかしクーデターを決行し軍事政権を樹立した彼の、その強力な
指導力が故に、その政権の半ば以降国際的な孤立を招くことになり、
最後は部下に暗殺されることになる。
また唯一人日本に友好的な政策を取った大統領であり、我が国の
国粋主義者、つまり日本で言うところの、韓国の民族主義者達から
猛烈に敵視されることになった大統領である。
そして韓国初の女性大統領となった、前大統領のパククネの実父
でもあった。
そのパクチョンヒの出自は両班出身の李承晩とは対照的に貧しい
農村の末子で、日本統治時代に満州国軍学校に入学、そして満州国
軍予科を主席で卒業し帝國陸軍士官学校に編入、何と陸士五十七期
を三位で卒業している。
その後も満州国軍歩兵第八師団に配属、満州国軍中尉で大戦終戦
を迎えていた。
ざっと経歴を見て分かるように、李承晩の生涯が総てアメリカに
終始していたこととは対照的に、パクチョンヒの生涯は総て日本に
終始している。
通訳など介さず、日本の政府関係者ともネイティブな日本語で話
していた彼は、往時の日本の関係者からも絶大な人気を誇る。
逆にそれが故に彼は暗殺されたとも・・・・・。
皮肉にも韓国人に取って日本人と親しくすることが、命に拘るこ
とだと言うことの証明をパクチョンヒに於いて為されたとも言える。
然して昨今の私達韓国人は、そんな朴正煕の取った政策に異を唱
えるように、日本を敵視し、日本を遠ざけようとする。
無論実の娘であるパククネ政権に於いても。
そんなことをしても韓国の経済発展に繋がろう筈も無いのに。
そしてその現実から眼を背けるように、懲りもせずに日本と日本
‐35‐
人をバッシングし続ける韓国と、私達韓国人。
何故そうまでして、日本を嫌うのか?
そこまで反日で、疲れないのだろうか。
否、韓国人は皆、反日に疲れ果てている筈だ。
だったらもう反日を、止めることは出来ないのだろうか?
反日に依って得れるものは少なく、失うものは大きい。
反日を止めてしまえばいい。
簡単なことなのに・・・・・。
少し考えれば分かるのに。
皆が私と史樹みたいにすれば・・・・・否、そうじゃなくとも、
私と史樹のことを理解してくれるだけでいい。
そうすれば日本と韓国は、もう少しましな関係になれる筈だ。
そんな感慨を胸に抱いてはみたが、そんなことは夢のまた夢。
後百年経っても叶いそうに無い。
何故なら、反日を止めてしまったら、韓国人じゃなくなるから。
独島問題に、従軍慰安婦問題、そして日本への強制連行による、
強制就労問題・・・・・問題、問題、問題、問題、問題・・・・・
一体日韓両国には、どのくらいの問題があるのだろう?
ところがそんな問題も何のそのと日本に近付き、韓国と私達韓国
人に目覚しい経済成長を齎した、朴正煕。
そして日本のことを誰よりも知り、誰よりも日本と上手に付き合
った朴正煕。
しかしもう彼のような大統領は、恐らく出て来ない筈だ。
そう、彼のように命を懸けてまで日本に近付く勇敢な韓国大統領
は、二度ともう。
何故なら日本に近付くと言うことは、勇敢であると共に、無知、
無鉄砲、或いは馬鹿・・・・・。
そんな言葉でしか、親日派、知日派のことを言い表せない今の韓
国の現況があるからだ。
ふと思い出した。
そう言えば丁度母が、パクチョンヒ政権時代の教育を受けている。
‐36‐
母が私の日本留学を擁護してくれたのも、その影響を受けての上
のことなのだろうか?
それなのに留学時とは一転、史樹との結婚には全く手を貸してく
れなかった母。
ひょっとして母が反対したのは、パクチョンヒの姿に私の姿を重
ね合わせたからなのだろうか・・・・・。
日本人に近付けば、最後は不幸になる、と。
最後は命に拘ることになる、と。
そんな風に思ったのだろうか。
思い起こせばパククネ前大統領誕生の夜、母はこう言った。
「彼女が日本と上手くやってくれることを期待するわ」
母の言葉を聴いて、苦笑混じりに反駁の言葉を吐きだす父。
「たとえパクチョンヒの娘でも、今更日本とは協調出来んよ」
抗う父に平然と切り返す母。
「あら、でも日本を遠ざけてたって、韓国の経済は底を打ったまま
よ。それに医療技術だって、元々は日本の・・・・・」
そうした母の言葉を遮るように、その時父は別の話を持ち出した。
やはり反日に常識論や、損得勘定は通用しないのだ。
彼女の政権時代国定教科書問題が、韓国内で相当な物議を醸した。
簡単に言えば、パククネが父のパクチョンヒ政権時代を扱き下ろ
す教科書の傾向が、ややもすれば左傾化して北朝鮮を美化し兼ねな
い惧れがあるとして、教科書を検定化から国定化にすると言って批
判を浴びたのだ。
確かに教科書を国定化するのは、民主主義国家としては如何なも
のかと思う。
しかし批判している人の殆どは、国定化することそのものを怒っ
ているのではなく、そのことで教科書が日本統治時代のことを肯定
し、延いては親日化してしまうことに対して怒っているのだ。
つまりは親日有罪。と、言うことなのである。
でも、そうは言っても、娘が父を思うのは当然のことだと思う。
パククネだって父親のことを、良く思って貰いたかった筈。
もし私が彼女だったとしても、同じことをしたと思う。
‐37‐
それにそのことを批判している人達に、内心パクチョンヒのこと
を支持していますよねと訊ねてみたとすれば、恐らく殆どの人が彼
を支持していると答える筈だ。
要するにそれ等の人の主張は、パクチョンヒが漢江の奇跡を齎し
たことは評価しても、結果的にそれが日本に近付いたことに起因す
るのが受け入れられないのだ。
そうして日本に友好的な態度を取ったものは、皆犯罪者になる。
また日本統治時代を肯定的に捉えることは、悪魔の所業であり、
犯罪行為であり、キリストを裏切ったユダの所業なのである。
でも、私は思う。
教科書国定化問題を始め事有る毎にパクチョンヒの親日を理由に
娘のパククネを批判していたけれど、韓国と言う国が今成り立って
いるのは反日思想によってのみではない。
例えば彼女の実父のパクチョンヒが反日家だったら、今日の目覚
ましいこの韓国の経済発展は無かった筈。
唯、唯・・・・・唯、パクチョンヒは日本を知り過ぎただけ。
そして日本に近寄り過ぎただけ・・・・・。
彼が居なかったら、ひょっとすれば今も貧乏な国だったかも。
それでも彼の親日を拒む韓国と私達韓国人。
何とかしてその韓国の矛盾を、私の両親の矛盾を、そして私自身
の矛盾を、史樹のお父さんとお母さんにも分かって貰いたい。
とても難しいことだと思うけど・・・・・。
政権を追われたパククネの、或いは私の、矛盾を分かって欲しい。
彼女を始め、私も、もっと言えば韓国人の女は皆、それぞれ各人
で必死なのだ。
従軍慰安婦問題にしたって、そう。
彼女がその問題を取り上げるのも、それを早く解決して日本と仲
良くなりたいだけ。
それなのに・・・・・何故?。
無論慰安婦のハルモ二(元々は高齢の女性の意で、慰安婦の女性
を示唆する場合にも用いる)達には、謝罪して欲しい。
でも同じことを何時まで繰り返していても、日韓関係は何も進展
しないし、また同時に韓国の経済事情も同じ。
でも、分かっていても、前へ進めない韓国と、私達韓国人。
‐38‐
そんな風に矛盾を抱えるパククネ前大統領だったが、当選出来た
背景には、彼女の父がパクチョンヒだったと言う事実が多分にある。
またそれとは逆にパクチョンヒが日本に友好的であったが故に、
彼女の政権に悪影響を及ぼしたと言うことも論を待たない処だ。
そうして間接的にではあるが、日本の影響を少なからず受けてい
た彼女のことを考えると、何となく他人事には思えない。
前大統領の彼女に対して、私如きが失礼かも知れないけれど。
でも史樹と一緒になりたいと言うだけで
こんな風に廻りに反対されて
そして史樹が日本人だと言うだけで
こんな風に囚人扱いされる私には
彼女の身に巻き起こっていることの総てが
自分に重なって見えて仕方が無いのだ。
だって、どれだけ一生懸命やったって
国のことを思って一生懸命頑張ったって
たとえそれで良い結果が出たとしても
日本に少しでも近付いたら
日本を少しでも肯定したら
もうそれで終わり。
はい、さようなら・・・・・そうなってしまうんだから。
日本の総理大臣も、外務大臣も、他の偉い人達も、そのことを分
かって欲しいんと思うんだけど・・・・・。
実際問題、逆立ちしたって無理だろう。
日本にも民族主義者は居るのだから。
その人達の機嫌を損ね、政権はその人達の票を失ってしまう。
嗚呼、分かってはいるんだけど、またこんなどう仕様もないこと
ばかりを考えてしまっている。
そんなことを考えれば考えるほど、史樹との結婚が遠退いて行く
と言うのに・・・・・それでもやっぱり考えてしまう。
早く厳原に着いてくれないと、一刻も早く、直ぐに、今。
そして何よりも、史樹に会いたい。
‐39‐
この海を渡り切れば、厳原に辿り着く。
史樹は今、この海の向こうで私を待って居てくれる筈。
無論この蒼い海は史樹に取っての日本海であり、私に取ってのト
ンへ(東海)なのかもしれない。
それでも、蒼い海は、蒼い海なのだ。
日本人に取っても韓国人に取っても、蒼い海は蒼い海なのである。
私はそんな少しくすんだこの東海の蒼が、太平洋の青さよりもず
っと、ずっとずっと好きだ。
だってこの海は、史樹と私を繋いでくれる海なんだから。
そうして窓外に流れ過ぎる東海の蒼を見ていたら、ふと、この海
を泳いで独島へと渡った韓流スターのことを思い出した。
彼が日本に来るのなら、入国拒否をするかも知れないとまで、日
本の偉い人に言われていた。
そのことを私が未だ日本に住んでいた頃、テレビのニュースで見
ていたときに思ったことがある。
日本の偉い人には、先ず理解して貰いたいのだ。
彼自身は決して悪く無いのだ。と、言うことを。
だって彼の中では、独島は独島なのであって、日本が侵略した際
に奪い取って行った、元は大韓帝國の領土なのだから。
その大韓帝國の継嗣である大韓民国は、独島の領有権を主張する
権利があり、畢竟独島は韓国の領土なのだ。
それは徳川時代に日本人の住んでいた記録の有る竹島では無く、
また李氏朝鮮時代の朝鮮の地図には記載の無かった竹島でも無く、
韓国が実効支配している日本の領土でも決して無い。
竹島を独島と教え込まれ、それ以外の考えを持てない彼を、どう
か理解して、許してあげて欲しい。
逆にもし彼が日本の見解を受け入れる人であったなら・・・・・。
既に彼はもう、韓国で生きて行く場所を失っていた筈だ。
今から五十年以上も前、丁度パクチョンヒがクーデター政権を樹
立して大統領権限代行だった頃、「独島破壊論」を日本側に提案した
‐40‐
ことがあるらしい。
往時のパクチョンヒの胸中は、「鴎(かもめ)が糞をしているだけ
の全く利用価値の無い独島を失くしてしまう方が、日韓双方に取っ
て都合が良い」と言うものであったと言う。
ところが韓国国内でそのことが問題視されると、「日本には絶対
に渡すことが出来ないと言う、意思の表現であった」として本音と
は裏腹な見解を公式表明としている。
それは、「国際司法裁判所で、仮令独島が日本のものだと言う判
決が出た場合であっても、総てを失って尚日本の手に渡すつもりは
無いと言う決意の表明である」とした、往時の自由民主連合総裁、
キムジョンピルの発言に依って念押しされる。
結局その後「独島破壊論」は廃案となり、事実上棚上げされるこ
とになるのであるが、結果はどうあれ実に切れ物の朴正煕大統領ら
しい発案である。
一九六五年の日韓基本条約調印に依る、李承晩ライン撤廃を考慮
に入れたものなのであろう。
そして何よりも朴正煕は、未来の日韓関係を予測していたのだ。
五十年経っても、百年経っても、独島問題が何れ日韓の障壁とな
ることを・・・・・。
たとえ一時棚上げしても、独島問題は必ず蒸し返される。と。
それにしても独島を爆破して失くすとは、良く考えたものだ。
反日の国粋主義者を納得させつつ日韓関係を正常に導く、実に巧
妙な策である。
またそのこと一つを取っても、李承晩政権時代に刷り込まれた反
日の意思が如何に強力なものか、パクチョンヒをしてもそれを払拭
することが出来無かったと言うことの証明になっている。
しかし兎に角朴正煕の凄いところは、そうして反日と言うナショ
ナリズムを上手くコントロールしながら、日本に近付いた点である。
日本から莫大な経済援助を引き出すことに成功したのも、そうし
た彼の手腕に依る。
只、しかしその方途には、自ずと限界がある・・・・・。
その後パクチョンヒ以降の政権で、歴代大統領に課せられた任務。
それは日本に国家として韓国国民に謝罪させた上で、尚且つ慰謝
料や経済援助を引き出し、独島も手に入れる。と、言う無理難題。
それは困難とか、障害が有るとか、そう言った類のものではない。
‐41‐
どう考えても、不可能なことだ。
例えば日本から謝罪や金銭的援助を引き出す際に独島を日本のも
のだと認めるか、或いは独島を韓国のものと認めさせる代わりに謝
罪や金銭的援助を日本に求めない。と、言うのなら分かる。
ところが譲歩は一切せずにこちらの要求を何もかも呑め。と、言
うような手前勝手な話・・・・・外交上通用する筈が無い。
そうして反日と言うナショナリズムに拘り続ければ、自ずと何も
手に入れられなくなるのではないだろうか?
結局パクチョンヒ以降はどの政権も、何も手に入れられないまま
同じことを繰り返してきた。
独島問題に、従軍慰安婦問題に、徴用工問題に、靖国問題、そし
てあの問題に、この問題・・・・・。
彼等はそれ等の問題と引き換えに金銭や謝罪、或いは独島の領有
権を要求する以外には、何の方途も見出せずに来たのだ。
韓国が独立した国家である以上幾ら相手が日本であっても、交渉
ごとの総てが国と国との外交関係。と、言うことになる。
少し考えれば分かると思う・・・・・。
そんな遣り方は駄々を捏ねる子供と同じだ。と、言うことが。
何故だか日本が相手だと感情ばかりが先に立って、外交と言う大
人の手段で交渉が出来ない韓国政府と私達韓国人。
例えば昨年末の、「慰安婦問題を最終的且つ不可逆的に解決」と
する日韓合意に基く十億円の拠出も、それと引き換えにソウル日本
大使館前の少女像を撤去すべし、と、言うのが日本政府の言い分。
ところが韓国内では、その日韓合意自体にさえ反対する国民が少
なからず居り、少女像を除ける目処など全く立っていないのが実情。
それでも良いよ。十億あげる。と、言う馬鹿が何処の世界に居る。
冷静に考えて、韓国政府も何らかの譲歩はして然るべきだ。
無論慰安婦問題に於いて、私達韓国人に対して日本人が何の謝罪
もしないと言うのはおかしいと思うし、また日本人は韓国と韓国人
に対し真摯に謝罪をしなければならない。と、私もそう思う。
唯・・・・・史樹を好きになった今は、そればかりではないと思
うようになった。
日本政府にお金を出させたり、或るいは日本の天皇謝罪させるこ
とを考えるよりも先に、お互いがどうすれば分かり合えるのか。
またどうしたら、日本人と韓国人が同じ価値観を共有出来るのか。
そのことを先に考えなければならない。そう思い始めた。
‐42‐
日本人と私達韓国人が互いに互いのことを思い遣り、肩を組んで
笑い合える。
そんな日が来たら、本当に素敵だと思う。
ふと私は韓流スターやKポップアイドルが、笑顔で日本のテレビ
に出演している姿を想像してみた。
例えば日本の国営放送の、あの年末恒例の歌番組にKポップアイ
ドルが出演して、日本の御茶の間でもその歌をハングルで口ずさむ。
そんなことって・・・・・と、思い、このままじゃ有る訳無いか。
と、現実に立ち返ってしまう。
溜息しか出ない。
それどころか先年在日同胞の女優が、私は韓国籍だと公表したこ
とがあったが、彼女の所属する芸能事務所が忽ちにその情報をクロ
ーズしてしまった。
それ以降その女優の本名は、ブログなどでも非公式になったまま
である。
それは無理からぬことかも知れない。
何故ならその同胞の女優は日本名のタレントネームで、日本人と
して、日本のテレビや映画にしか出演していないのだから。
もし韓国人であることが公になってしまったら、今まで日本人と
してやって来た仕事が急に無くなるかも知れないのだ。
それこそ時代劇で、着物を着れないようになるかも知れない。
嫌韓の日本人達は、こぞって言うだろう。
韓国人は着物なんか着るな、お前等はチマ(裳(チマ=韓服のス
カート)とチョゴリ(襦=韓服の上着)でも着ていろ、と。
とっとと国へ帰れ、と。
じゃあそうしましょう。
と、そう言えないのが、その同胞の女優を始め在日同胞の辛さだ。
国へ帰ろうと思っても、帰る場所が無いのだから・・・・・。
そう、七十年前の大戦終結と共に、彼等は帰る場所を失ったのだ。
終戦から現在に至るまで、朝鮮半島には親日のレッテルを貼られ
た在日同胞の帰る場所など、何処を探したってないのだ。
そのことは韓国に住む韓国人から、「パンチョッパリ(半豚蹄=
‐43‐
半分だけ豚蹄と言う在日同胞の揶揄に、韓国在住の韓国人が使う言
葉)」と揶揄されて久しいことからも明らか。
そう言った意味で日本人は在日同胞に対して、国へ帰れと言う資
格は全く無いと思う。
日本人はもっと日本と朝鮮の歴史を知るべきである。
韓国併合以降終戦まで、朝鮮半島全土は日帝の植民地だったのだ。
日帝が消滅したからと言って、その歴史まで消滅する訳では無い。
もし日帝が大韓帝國を併合していなければ、彼等在日同胞も日本
には渡らなかったことだろう。
それに何より朝鮮半島は日本の身代わりとなって、南北に分断さ
れてしまったのだから、在日同胞に対して優しい言葉の一つでも掛
けるのが、今の日本人の義務だと思うのだけれど・・・・・。
でもそうやって後ろを振り向いてばかりで、日本と日本人を非難
するばかりでは、何も解決しないと言うことを在日同胞に伝えたい。
きっと日本人の中にも、私達韓国人のことを、そして在日同胞の
ことを、本気で理解しようとしてくれる日本人も居る筈だ。
前を向こう、韓国人の立場に立って話をしよう。と。
そのことを伝えたい。
そう。史樹のような日本人も居るのだから。
気が付けば史樹のUSBメモリーを、膝の上のタブレット端末に
差し込んでいた。
史樹のUSBメモリーと言っても、彼のを内緒でこっそりとコピ
ーした、別のUSBメモリーなのだが・・・・・。
もう何度も、何度も、そして何度も繰り返し読んだのだが、それ
以来史樹のことが以前よりも益して好きになってしまった。
そんなこと、史樹にはとても言えないけれど。
勝手に盗み見てしまって、ごめんなさい・・・・・なんて。
でも、あの時は、どうしても確かめたかったのだ。
あの安重根に依る伊藤博文暗殺の真相についての、あの続きを。
あの日、私と喧嘩した日、ガスコンロであのノートを焼いてから
以降も、彼が私に内緒で論文の続きを書こうとしていたことは、分
かっていた。
‐44‐
盗み見てみると、伊藤博文暗殺の件についても書いてあったが、
武志や徳恵のことも更に詳しく書き進められていた。
往時の精神医療のあれやこれやと共に。
一生懸命、寝る間も惜しんで調べたのであろう史樹。
別に私には隠さなくても良かったのに。
私だって本当は、盗み見たりなんかはしたくなかった・・・・・。
とにかく厳原の港に到着するまでには、まだ一時間以上有る。
先ずは何度も繰り返し読んだ、伊藤博文暗殺事件の真相について
書かれた、あの時の続きからもう一度読んでみよう。
そう言えば史樹も、先を読んで欲しいと言ってたっけ。
何れにせよ自分自身で、ああでも無い、こうでも無いと、結論の
出ない日韓関係のことに思いを巡らせるよりは、史樹の文章を読ん
だ方がずっと有効な時間を過ごせる。
二○十九年四月二十五日(月)
【続・安重根による伊藤博文暗殺事件の真相】
前回までの調査で、やはり帝國政府が安重根に罪を擦り付けたと
言うことはほぼ間違いないところであろう。
言い換えれば安重根を韓国の英雄にしてしまったのは、帝国政府
だったと言うことになる。
そうとするならば、だ。
そのことを現日本政府は歴史学者などに依頼し、もっときちんと
した報告書を作成して、出し得る限りの証拠と共に韓国側に提出す
る必要があるのではないだろうか?
それが韓国政府と韓国人に対して最低限尽くさなければならない、
日本人としての義務であり誠意だと思う。
それにそれくらいのことは、やろうと思えば出来る筈だ。
しかしである。
そこ迄思い至ったときに、ふいに違うもう一つ全く別の発想が脳
裏を過ぎった。
考えてみれば・・・・・現日本政府がそのことを調べても、損こ
そすれ何の得にもならない。と、言うことが。
何故ならそれは、帝國政府が安重根に罪を擦り付けて得をしたと
‐45‐
言う忌まわしい過去を、世界に向けて公表することに繋がるからだ。
つまりそれは今の日本人が自らの手で、世界に向けて過去の日本
人を告発することになってしまうことを意味する。
暗殺未遂しか犯していない安重根に対し、帝國政府が暗殺の首謀
者として濡れ衣を着せたと言う不実の告発を、日本人が自らの手で。
それに安重根は韓国の国家的英雄である。
それを今更あれは暗殺未遂でしたなどと、仮令それが事実であっ
ても公表して誰が得をするのか?
このまま黙っていれば良いのでは・・・・・。
とは言え伊藤や伊藤の遺族に対して、このままでは不敬になる。
随行の室田義文もそのことに義憤を覚え、後に再審を訴え抗議し
たのではないか?
そしてまた往時の帝國政府が安重根に罪を着せ、彼を極刑に処し
た不実をこそ、現日本政府や日本人は、韓国政府と韓国人に謝罪し
なければならないのではないか。
このままにしておくのは、信義に悖る行為である。
我々は日本人としての、眞(まこと)を尽くさねばならない。
否、しかし、そんな風にしてわざわざ済んでしまった話を、その
ような忌まわしい過去を蒸し返さなくとも・・・・・。
と、こんな風にこの件一つを取っても複雑過ぎて、どれが正解な
のか釈然とせず、堂々巡りを繰り返してしまう。
しかしそれが、偽らざる日韓関係の真実なのである。
また次いで、韓国の誤った歴史認識と言うのは、この安重根の件
に於いて、何が誤った認識で、何を以て正しい歴史認識とするのか。
と、言う疑問が生じて来る。
そして日韓の教科書はどうするのだ。とも。
それにも益してこのような複雑な歴史を、小・中学生にどうやっ
て伝えれば良いのか。
と、言う問題も出てくる。
難しすぎる。そして、出口が見えない。
或る意味、ドイツとフランスの関係以上に複雑なものがある。
それはそうであろう・・・・・ナチスがフランスを占領していた
期間とは、その拘った年月が違う。
‐46‐
実に三十五年間の長きに亘って、朝鮮は日本だったのである。
と、あの時そこ迄を盗み読んだ私は、その後も史樹に内緒で隙を
見ては、彼の書き付けのコピーを取って行ったのだった。
彼がシャワーを浴びている間、或いは彼がコンビニに行っている
間、黒の皮財布をそこいらに放り出している時、その中に無造作に
入れられた彼のUSBメモリーから・・・・・。
何故あんなことをしてしまったのだろう。
それは最初に、「続・安重根による伊藤博文暗殺事件の真相」と
銘打たれたそれ等のデータを盗み見たとき、彼の本気の意思と、そ
れに何より彼の苦悩と痛みを感じ取ったから。
そして何より彼は、私を本気で愛してくれている。と、分かった。
果たして、ありがとう、私も史樹を愛している。
そう言いたかったんだけど、思い留まった。
何故なら彼が、そこでそれ等の調査を止めてしまうかも知れない
から、そしてそうなったら史樹と私が終わってしまうかも知れない。
そんな風な不安に頭の中を埋め尽くされた私は、史樹に内緒で彼
のUSBメモリーから、気付かれぬようにデータを盗み続けた。
悪いこととは知りながら・・・・・。
それは単なる精神科医の論文の為の書き付けと言う範囲を超え、
韓国人への、そして私への、誠実な彼の真心の記録でもあった。
私はそんな彼の書き付けたそれ等の言葉の一語一句を、何よりも
大切に胸に刻んでいっている。
今日はそのことを、彼に打ち明けなければならない。
彼のUSBメモリーから、データを盗み読み続けていたことを。
でも、そのごめんなさいと同時に、ありがとうも伝えなければ。
それ等の言葉がどれだけ私の心の支えになったか。
そのことも一緒に。
そして中でも一番好きなのが・・・・・。
在った、在った。
彼が去年の八月十五日に書き付けた、このデータだ。
‐47‐
二○十九年八月十五日(土)
【終戦記念日と光復節、そして武志と徳恵】
論文を書くに当たって、精神医療の為に役立つものを、或いは日
韓関係をより知る為、そして何より自身と恵美の為に。と、尤もそ
うな理由を並べ立てて書き始めたのだが・・・・・。
今のところ明確に分かったことと言えば、そんな奇麗事で片付け
られるほど、日韓関係が単純なものでは無いと言うことだけだ。
唯、一つ言えることは、日韓両国はお互いに出し得る限りの力を
以て、お互いがお互いの気持ちを考え思い遣り、何とかしてこの出
口の見えない状況を打破していかなければならないと言うことだ。
その為には、お互いがお互いの持っている情報を出し合って、納
得するまで話し合わなければならないし、嘘を吐いてはならない。
またそれが、どんなに痛みを伴うことであってもだ。
例えば伊藤暗殺の真相を公にすることに依って、今の日本人が過
去の日本人を告発することになっても、韓国側と話し合って彼等が
それを望むのであれば、そのときは躊躇せずにそれ等の史実を白日
の下に晒さなければならない。
但しそれは今迄のように一方が単独で公表するのではなく、両者
で能く能く話し合い、お互いが納得してから公表されるものでなけ
ればならない。
そしてそのことは、武志と徳恵の関係に於いても同じである。
もしも二人の真実を公にするならば、それは出来得る限りの情報
を互いに出し合った上で、どれだけ時間が掛かっても良いから、日
韓双方の一致した意見として公表しなければならない。
つまり韓国側が言うことを聞いてくれないからとか、日本側が納
得出来ないからとか言って、お互いに真実を投げ出さないことが一
番大事なことだと思う。
それがどんなに難しく、避けて通りたい問題であっても、絶対に
そこから逃げてはいけない。
どんなに時間が掛かろうと、日韓関係を互いに絶対に諦めてはな
らないのだ。
‐48‐
特に支配していた側の日本人と日本政府はそのことを肝に銘じ、
腹を括って事に掛からなければならない。
どれだけ罵倒されてもそこに踏み止まって、韓国側が話を聞いて
くれるまで粘り通さなければならないのである。
それが日本人と日本政府の、否、人として尽くさなければならな
い、最低限の眞なのではないだろうか。
例えば数年前のように国連総会の場で、竹島問題について互いが
互いを罵倒するような、まるで互いが敵味方であるかのような舌戦
は、絶対にしてはならない。
そうなる前に、何とかして話し合わなければならない。
例えばソウル日本大使館前の従軍慰安婦像についても、こう思う。
仮に、「慰安婦」は存在したが、慰安婦の前に「従軍」を附けた
のは韓国の捏造であるとする日本の主張が事実であったとしよう。
しかしソウル日本大使館前の従軍慰安婦像に、我々日本人の一人
一人が花を供えることや、頭を下げることくらいは出来る筈だ。
そうすれば状況は一転すると思うのだが・・・・・。
大使館関係者にそれが出来なくとも。観光客など私的にソウルを
訪れた日本人にはそれをしようと思えば出来るのだから。
つまりこう言うことだ。
そんな風にして日本人が殺到すれば、必ず韓国のマスコミが押し
掛け日本人に訊ねるだろう。
その時にこう言えば良い。
「慰安婦は存在しても従軍慰安婦として、強制的に朝鮮の若い婦女
子を連行した事は無いと言うのが日本の正式見解のようですが、我
々日本人は政府の見解に関係無く、日本統治時代に深く傷付いた朝
鮮の婦女子に対して哀悼の意を捧げるものです。
韓国の国民の皆さん。本当に申し訳ありませんでした」、と。
そして腰を折り、最敬礼を尽くす。
如何に反日の韓国国民と言えど、頭を下げる日本人を罵倒したり、
避難したりする者はいない筈だ。
そうした眞心が、日韓両国の関係を変えて行くのではないのだろ
うか。
‐49‐
否、眞心にしか、韓国国民の心は動かせない。
論文の為に研究を始めたご褒美に、武志が、徳恵が、そのことを
私に届けてくれたような気がする。
真実を追究することよりも、真相の究明をすることよりも、何よ
りも先ず最初に我々日本人がしなければならないことは、心からの
「ごめんなさい」を彼等に対して素直に発することなのだ。と。
仮令相手が大使館前の従軍慰安婦像を除けないからといって、ま
た仮令相手の国の大統領が竹島に上陸したからと言って、一々目く
じらを立てている姿と言うのは余り格好の良いものでは無い。
先ずは日本側から、韓国政府と総ての韓国人に対して謝罪する。
その上でテーブルに着かないと、話し合いにならないと思う。
そして次に日本政府と総ての日本人が肝に銘じなければならない
ことは、日本人に取っての正しいことが、韓国人に取っての正しい
ことでは無いと言うこと、そしてまたその逆もそうだと言うこと。
そのことは、今日、この八月十五日と言う記念日の、その名の中
に総ての意味が籠められている。
我々日本人に取っての太平洋戦争終結の「終戦記念日」が、恵美
達韓国人に取っての国に光の復った日、即ち「光復節」なのだから。
そのことは武志と徳恵に於いて、最も顕著に表れる。
元々は日鮮融和の為に婚姻を為した筈なのに、最後は反日の、或
いは嫌韓の為に引き裂かれたのだから。
それでも武志は、そして徳恵は、そんな世情に関係なくお互いが
お互いを愛していた・・・・・。
そのことを、私は何としても証明しなければならない。
精神科医として、韓国人の女を愛してしまった一人の男として。
しかし現実は、中々自分の思っているようにいかない・・・・・。
精神科医としてこのようなことを言うのは実に不本意なことだが、
韓国政府も韓国人も、徳恵の精神疾患が一体どう言うもので、そし
てそれに対してどう言う治療が必要であったかと言うことなど、決
して知りたいとは思っていないからだ。
‐50‐
それでも尚今になって徳恵の症患について云々したいのならば、
帝國政府が徳恵を日本に連行したことを、また徳恵を凌辱したこと
をこそ、日本政府が国家として謝罪してからにするべきである。
それが彼等の偽らざる本音であって、史実も医療もそうしたナシ
ョナリズムの前にあっては、まったく以て無力なのだ。
しかし、しかし・・・・・だ。
何故武志が、徳恵を愛してはいけないのか。
何故徳恵が、武志を愛してはいけないのか。
精神科医が論文を書くのに、そのようなことに思いを巡らせるこ
とは、或いは適当では無いのかも知れないが、どうしてもそこに行
き当たってしまう。
そして恵美に言いたい。
日本人の男が韓国人の女を、或いは韓国人の男が日本人の女を愛
してはならないなどと言う理不尽を、絶対に認めてはいけない。と。
また健常者が障害者を、障害者が健常者を愛することなど有る筈
が無いと言う論点の元に書かれた、武志と徳恵についての小説や論
文に対し、我々医師は断固として異を唱えなければならない。と。
先ずは何よりも症患の治癒が優先されて然るべきであり、その症
患を反日や嫌韓のナショナリズムの為に利用する連中を、断固とし
て糾弾しなければならないのだ。
何故ならそんな連中は、今後の医学の発展と、日韓両国の関係に
水を差す存在でしかないからである。
そして今日この終戦の日に、誓おう。
何があっても恵美と結婚することを。
と、そこ迄書かれたこの日の書き付けを、私は毎日のように読ん
でいた。
結婚しようと言ってくれた、最初のプロポーズの日も、そしてソ
ウルの実家に軟禁されていたときも勿論
私はこれを支えに日々を過ごして来た。
史樹と最初に会った日。
あの日は未だ、二人とも医学生だった。
‐51‐
そのとき、真面目な顔で訊いて来た史樹。
「失礼ですけど、留学生の方ですよね? 韓国からの」
そう訊かれれば、「はい」と返すしかない。
「菅原教授が至急連絡が欲しいと仰ってまして、今から言う番号に
至急電話をして下さい」
何事かと思ったが、菅原教授からなら断る訳にはいかない。
言われるがままに史樹の告げた番号に掛けると、凄く近い場所で
着信音が鳴るのを聴いた。
直後着信音を響かせるスマートフォンを手にした史樹が、私の面
前で頭を下げながらこう言ったのである。
「どうしても番号知りたくて・・・・・ごめんなさい」
史樹の言葉を聞いても何故だか怒る気にもなれず、「何だ、そう
言うこと」と告げた私の顔は、恐らく微笑んでいたと思う。
あれから6年の月日が流れた。
流石に日本人の史樹は、河原にキャンドルを並べてアイラブユー
を書いてみたり、熊のぬいぐるみを着ていたりはしなかったけれど、
きちんとハングルでプロポーズをしてくれた。
「ヘミ キョロナジャ(恵美結婚しよう)」、と。
今から三ケ月前の一月の半ば過ぎ、本当に寒い日だったのを覚え
ている。
会話もせずに漢江の流れを飽きるほど見た後、突然そう言われた
のである。
本当にびっくりした。
誰にも内緒で、史樹とソウルに帰郷したのだった。
無論両親にも告げずに・・・・・。
否、両親に言ってないのであれば、それは帰郷ではなく、旅行か。
兎に角それは二人でソウルに行きたいと言う、史樹の願いを聞き
入れてのものだった。
今思えば史樹は私にプロポーズをする為に、二人でソウルに行こ
うと行ってくれたのである。
指輪も渡してくれた。
でも、これは・・・・・。
今もバッグの中には在るけど、これを嵌める訳にはいかない。
これは史樹に返したくはない。でも・・・・・それは。
‐52‐
このままこのエンゲージリングを嵌めると言うことは、彼が韓国
人になると言う不実を肯定することに繋がる。
そのことを考えればどんなにこれを嵌めたくても、そうする訳に
はいかない・・・・・。
そうして、次から次へと溢れ出て来る思い。
何時の間にか、リングを左手の薬指の真ん中まで嵌めていた。
次の瞬間強く顎を振り、やっぱり駄目。と、自身に言い聞かせ、
リングを指から引っこ抜く。
そうだ。きちんとお互いの両親を納得させよう・・・・・。
そう言えば、史樹のあのUSBに書き付けにも、「その為にはお
互いがお互いの持っている情報を出し合って、納得するまで話し合
わなければならないし、嘘を吐いてはならない。またそれが、どん
なに痛みを伴うことであってもだ」と、言うのが在った。
史樹の言う通りだと思う。
たとえ史樹と一緒に居られても、彼に嘘を吐かせては駄目。
丁度私がソウルに結婚の報告に帰郷する一週間ほど前、それが私
の持っているUSBの中に焼き付けられた、彼の最後の言葉。
これが、その一か月程前の彼の書き付け。
二○二十年三月十二日(土)
【恵美との結婚】
偟傘僂愴偺擔丄傏偔偼娯崙偠傫偵側傞偙偲傪偒傔偨丅
丂偊傒偲偺偗偭崶傪丄偳傫側偙偲傪偟偰傕側偟悑偘傞丅
丂偐偺彈偲偦偄悑偘傞偺偩丅
丂側傫偲偟偰傕丄偳傫側庤傪偮偐偭偰儌丅
と、それはたった五行だけの書き付けであった。
漢字変換もままならぬほど、焦っていたのだろうか?
或いは余程疲れていたのか?
彼らしからぬ、とても稚拙な文章。
こんなものを書かせてしまう私は、史樹に取ってとんでもなく不
‐53‐
出来な女だ。
でもそんな不出来な女でも、否、不出来な女だからこそ、せめて
史樹のお父さんやお母さんを納得させなければならない。
そう。史樹に嘘を吐かせてはならない。
そう。史樹に不実を犯させてはならない。
だからこのエンゲージリングは、きちんと総てが成就したときに、
また改めて受け取ろう。
史樹が普通に日本人として、二回目のプロポーズを私にしてくれ
たときにこそ。
そうと自身に言い聞かせた刹那のこと、ジェットフォイルの奏で
る甲高い汽笛の音が耳朶を打った。
やがて厳原港到着のアナウンスが船内に流れ始める。
韓国語、日本語、と、続いて流れる二つの国の、二つの言葉のア
ナウンス・・・・・。
同じような肌に、顔をしているのに、まったく違う言葉を使い、
そして憎しみ合う二つの民族。
ふと、そんなことを思うと、溜息が出でしまった。
タブレット端末からUSBを抜き取り、ショルダーの中に仕舞う。
次いでショルダーを手に立ち上がりかけ、ふと窓外を振り返った
私は、蒼い海の先で唯一私の味方をしてくれた親友の言葉を思い出
した。
フフェマクッグプ(後悔莫及=後悔先に立たず)。
ソウルを発つ直前に、昭娟の言ってくれた言葉だ。
胸中にその言葉を数度繰り返し、続けざま自身に誓う。
史樹に決して後悔はさせない、と。
‐54‐
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