六章 十八節
「こっちじゃない?」
アメリアはイポリトのカーゴパンツのループを引っ張ると目前にある洞窟の中へと進んだ。日差しを受けて白く輝いていた岩肌は、中へ進むと急に暗くなる。アメリアは広い闇に飲まれたような気分になった。膝まで浸かる海水を歩いて進む。せせらぎのような音が響く。その音に混じって歩みを進める水音が頼りなげに響いた。行く手にはひたすら青い世界が広がっていた。
しかし細々と日差しが入るので隣を歩くイポリトを視認出来る。精悍な彼の頬は穏やかに揺れる青々とした水面を映している。美女スキュラに求婚した海神グラウコスとはこのような感じだったのだろうか。力強くて美しいが、同時に見つめる自分がちっぽけな存在に想えて少し恐れを感じた。
「イポリトの顔……青い海水を映してグラウコスみたい」
「海神グラウコスとは光栄だな。ま、人間の血で大分薄まってるたぁ言え、これでも神の端くれだからな。それよか本当にこっちでいいのか?」
アメリアは頷いた。トゥットの話によると洞窟の奥からその声が聴こえるのだそうだ。
「その声って……あの『助けて』ってやつか?」イポリトは問うた。
「そうみたい。渦の側で聴こえるんだって。夢では洞窟からお母さんの声が聴こえるんだってさ。入り江への通過地点があの渦なんだって」
「ほーん。じゃあいつも渦の側から聴こえる声を焦ったが故にアメリアの声と間違えた訳だな」
「そっか……それで大騒ぎになっちゃったんだ。トゥット心配してるだろうな」アメリアは俯いた。
するとイポリトは彼女の頭を軽く叩いた。
「何すんのよ!?」顔を上げたアメリアはイポリトを睨む。
「ちったぁ俺の事も考えろ。ダボ!」
アメリアは唇を尖らせた。
イポリトは鼻を鳴らす。
「……そりゃ記憶を失ってるたぁ言え、アメリアに当たって悪かった。友人想いのお前に他意がないのも知ってる。でもな、お前は隙が多すぎんだよ。母ちゃんの救助を手伝って欲しかったトゥットにしろ、ファック目当てのコンラッドにしろどう考えても下心透けてんじゃねぇか。阿呆みてぇにホイホイついて行くな!」
「心配してるの?」
「悪いか?」
首を横に振ったアメリアはイポリトの大きな手を握る。
「……心配してくれて嬉しい」
イポリトは鼻を鳴らすとアメリアの華奢な手を握り返した。
涼しい洞窟の中を二柱は進む。進めば進む程、光源から遠ざかり暗くなる筈なのに、天井や水面は青く輝いていた。水中では白い珊瑚の死骸が幾つも沈んでいた。
「不思議だな。光から遠ざかってる筈なのに……」
「洞窟自体が光っているのかな?」
声が反響するので小声で話しつつも歩みを進めていると奥から女性の声が聴こえた。言語と言うよりもすすり泣く声のようだ。二柱は歩みを止めて耳を澄ます。
「……やっぱり女性の声だよね?」アメリアはイポリトを窺う。
イポリトは瞳を閉じていた。
地獄耳を澄ませてるのかな? アメリアはそれ以上声を掛けずに彼を見守った。
するとイポリトが顔を上げる。
「……奥っちゃ奥だろうが、響き方がアレだな。声帯を震わせて出る響きって言うよりかは体内に響く感じに似ている」
「山で大蛇を倒した際、ヴィクラムが言ってた胎内音みたいな感じ?」アメリアは問うた。
「ああ。音源はもう少し先だ。急ぐぞ」
イポリトはアメリアの手首を引っ張った。
海水に浸る白い珊瑚の死骸を踏みつつ歩む。
「痛っ」アメリアが悲鳴を上げた。
「どうした?」イポリトは立ち止まる。
アメリアは片足を上げ足の裏を覗く。
「……珊瑚で足の裏、切っちゃったみたい」
イポリトは水中へ手を差し入れると白い珊瑚の死骸を手に取った。青い光に翳すと彼の表情は険しいものに変わった。白い珊瑚の死骸と想っていた物はそれでは無かった。事実をアメリアに伝えない方が良い。ビビらすだけだ。イポリトは白いカルシウムの塊を海水へ放るとアメリアの手首を掴んだ。
更に奥へ進むと行き止まりに当たった。
二柱は息を飲んだ。
洞窟の壁面を覆わんばかりに、青々と光る鱗のような物が貼り付いていた。呼吸をしているのだろうか、キラキラと波打つ。それに合わせて洞窟は青く輝いた。
穏やかな寝息が辺りに響く。
「……もしかしてこの壁一面の鱗って大蛇?」アメリアは小声で問う。
「可能性としては考えられるな。こんだけ敬遠された土地ならばトゥットの母ちゃんが飲み込まれたって事も考えにくいな。……トゥットの種族は何なんだよ?」イポリトは小声で問い返した。
「龍だって。角が生えてるでしょ?」
「ほーん。じゃあ母ちゃんも龍だろうな」
「……こんなに大きな龍、どうやって連れ帰ればいいかな? トゥットの友達だって言って話が通じるかな? 洞窟崩れたりしないかな?」アメリアは眉を下げた。
イポリトは苦笑する。
「お前……ノープランで渦に突っ込んだのかよ」
「何よ。じゃあイポリトは何か作戦あるの?」アメリアは頬を膨らませた。
悪戯っぽく微笑んだイポリトはカーゴパンツのサイドポケットから瓶を取り出した。
アメリアの眼の色が変わる。
「それってまさか……!」
「ハンスのおっさんから貰った。パンドラの匣だ」
「流石ハンスおじさん!」
「あのおっさん、アメリアには激甘だよな。ま、これで吸い込めば連れ帰れるだろ」
コルクの栓をイポリトは開けた。凄まじい風が辺りの空気を吸い込む。アメリアは吸い込まれまいとイポリトの腰に腕を回した。
瓶の口を龍の鱗へ向けるが、吸い寄せる気配はない。イポリトはコルクの栓をした。
「え? どうして吸い込まないの?」
「デカすぎるからじゃねぇか?」イポリトは鼻を鳴らした。
「だって以前、ティコとパンドラに一杯食わされて吸い込まれたよ。あたしが入るんだから龍だって入るでしょ?」
「阿呆か。トゥットの母ちゃんはお前の千倍くらいでけぇの!」
アメリアは頬を膨らませた。小さな溜め息を吐いたイポリトは側の岩に腰を掛けた。
二柱が考えあぐねていると突如、青い闇に黄色い球体が現れた。アメリアは驚き、声が出なかった。二つの球体は煌煌とイポリトの背を照らす。異変を感じたイポリトは振り返る。
「おわっ! 眼玉じゃねぇか!」
イポリトは飛び退いた。彼が腰を掛けていたのは青い龍の鼻先だった。
龍は唸り声を上げる。低かったが先程の女性の声と同じものだった。
「……屁ぇぶっ放さなくて良かったぜ」
冗談に気を悪くした龍はイポリトに噛み付こうとする。しかし彼はひらりと体をかわした。
イポリトを睨む龍にアメリアは声を掛けた。
「あの……トゥットのお母さんですか?」
眉を下げて不安げに自分を仰ぐ乙女を龍は見遣った。
「あたし達、彼の友人なんです。あたしはアメリア。彼はイポリト。本当はトゥットと一緒に渦に飛び込んで、ここに来るつもりだったんです。でも……逸れちゃって……。イポリトの話では南の街の浜に今居るそうなんです。一緒に帰りましょう。トゥットが待ってます」
龍は鼻先をアメリアに向け、彼女を見据える。
怒った母さんに見据えられてるみたい。アメリアは龍を見つめ返した。
すると龍は涎が糸を引いた大口を開け、アメリアに襲いかかった。呆然とするアメリアにイポリトは飛びかかり大口から彼女を逸らす。龍は自らの体である岩壁に突っ込んだ。
尻をついたアメリアからイポリトは直ぐに離れると彼女の耳を引っ張った。
「ボサッとするな! 逃げるぞ!」
「でも……!」
「ダボ! 話が通じる相手じゃねぇよ! 喰われちまう!」
アメリアは立ち上がるとイポリトに腕を取られ、洞窟の出口へと駆け出す。すると全速力で走る二柱を追って龍は牙を剥いた。唸り、涎が上下の牙の間で糸を引く龍を背にアメリアとイポリトは顔を引き攣らせつつ懸命に脚を動かし続ける。裸足が地に転がる小石を勢い良く踏みつけ、痛みが走る。しかし些細な事に構っている場合ではない。痛みに構わず走り続けた。
「クソ! 何が『助けて』だよ! 『腹減ったから助けてくれ』じゃねぇかよ!」イポリトはアメリアと並走する。
「どうしよう。どうやって連れ帰ろう」アメリアは後方を見遣る。龍は瞳孔を絞りアメリアを睨み返す。
「前見て走れ! 悠長な事言ってんじゃねぇよ。ダボ!」
「だって」
「気持ちは分かるがよぉ! 敵意剥き出しの相手にそれは難しいだろ!」
「でもトゥットのお母さんだよ!? トゥットだって本当は自分で助けたかった筈! イポリトだってリンダさんがこんな状態だったら助けたいでしょ! 大蛇の時みたいに強烈なお酒持ってないの?」
「いつでも都合良く持ってるか! この街に来てみんな擦っちまったよ!」
「計画的に使いなさいよ!」
「しょーがねぇだろ!」
「これじゃ誰も助からないじゃない!」
「俺がお前を助ける!」
息を切らせつつ口喧嘩をする二柱は洞窟を出た。眼前に光に包まれた世界が広がる。眩しさに堪え切れず二柱は目を細めた。
しかし龍は洞窟から首を出し、二柱の後を追う。
翼を広げ空へ羽ばたいても、海を泳いでも地の利は龍にある。龍は飛べるし泳げる。このまま喰われるしかないのか。唇を噛んだイポリトは並走するアメリアの背を突き放し、龍と対峙する。
「イポリト!」バランスを崩して転び、浅瀬に尻をついたアメリアは叫ぶ。
「喰うなら俺を喰え!」イポリトは龍を睨みつけた。
空を覆わんばかりに体を高く持ち上げ、龍はイポリトを見下ろす。そして叫び声を上げつつも襲いかかった。
「ダメッ!」アメリアは立ち上がる。しかし間に合わない。
イポリトは龍の赤黒い洞窟のような喉奥を見据える。これでさよならだ。アメリアの悲鳴を聴きつつもイポリトは覚悟を決めた。
するとトゥットの声が全てを制した。
「母さん!」
イポリトに牙を掛けようとしていた龍は動きを止めた。
「母さん! もう……いいんだ。助かったんだ」
浅瀬に佇むトゥットは頬に涙を伝わらせた。背後では彼の肩を抱いたポンペオが眉を下げて佇んでいた。
「一緒に……帰りましょう、ゾーイ」
ゾーイと呼ばれた龍は黄色い瞳から涙を溢れ出させた。
アメリアはイポリトに飛びついた。彼の背に腕を回し、首筋に顔を埋め彼女は泣き喚く。『独りにしないで』『あたし、イポリトが居なきゃ生きていけない』と泣き叫ぶ。それを横目で見遣った龍は瞳を閉じ、その場に崩れ落ちる。
龍の巨体が着水すれば辺りに大きな波紋が押し寄せる。トゥットとポンペオは身構えた。しかし意識を失ったゾーイは龍の姿を解いた。
「母さん!」水音を立たせ、トゥットは母に近付くと抱き起こす。海水に浸り四方へ漂う彼女の黒髪からトゥットと同じ龍の角が覗いた。
「気を失っているようですね」屈んだポンペオは髪が貼り付いたゾーイの頬に触れる。
「……良かった」
しがみついたアメリアをあやしつつもイポリトは二人に問うた。
「どう言う事だ? ってかどうやってここまで来たんだ?」
母の髪を撫でるトゥットを見下ろしつつ、立ち上がったポンペオは詳細を説明した。
パンドラの匣を携え海へ駆けるイポリトを見送ったものの、トゥットはアメリアとイポリトを案じていたらしい。自分が不出来な所為でこんな事態になってしまったと深く後悔していたそうだ。街の者に呼ばれて駆けつけたポンペオはそれを見た。他の漁師達に馬鹿にされ続けても『渦から声が聴こえるんだ』と信じ続けたトゥットを哀れに想った。『共にお母さん達を助けましょう』とポンペオは密かに隠していた残り一枚の鱗を差し出した。
トゥットは優しい心根の街のカシラを見上げた。
ポンペオはトゥットの目を見て驚いた。かつてハリラオスの妻だった、自分と不義の子を設けた龍の角を持ったゾーイを想い出した。トゥットの目許には気の強いゾーイの面影があった。
「……付かぬ事を伺いますがトゥット、君のお母さんの……渦から君を呼ぶ声の女性はどんな人ですか?」
眉を下げていたトゥットは答えた。
「……ガキの頃別れてそれっきりです。でも覚えてます……俺と同じ龍でした」
「お父さんはどうしました? お父さんも助けを呼ぶのですか?」
「父さんは知りません。……ただ母さんは骨だらけの洞窟で、たった独りで暮らしてたんです」
「骨だらけ?」
「はい。背を向けた母さんが白くて長い物を海中から拾っては齧ってたのを想えてます」
ポンペオは俯き唇を噛んだ。トゥットはゾーイの子なのだろう。こんなにも面差しが似ているのだ。そして渦に巻き込まれた者を食して生きていたのだろう。逃げたか、それか最後の希望を託し解き放たれたかしてトゥットはこの南の街にやって来たのだろう。
ゾーイやトゥットにこんな想いをさせたのは自分の所為でもある。ポンペオはトゥットの背に手を当てると、共に海へと姿を消した。
「じゃあ……渦の勢いが弱くなっていたんだな?」泣き喚くアメリアに頬を張られたイポリトはポンペオに問うた。
「はい。お蔭で私もトゥットもここへ来る事が出来ました。……あの勢いだともう渦は消えているかもしれません」
「渦が消える?」
「はい。渦は龍のエネルギーです。……医術の神アスクレピオスの蛇が巻き付いた杖を想い出して下さい。杖の持ち手を目指し登る蛇が螺旋を描いているでしょう? ……全てが終った今、渦は消えたと想います」
「……じゃあ何の心配も無く、街へ帰れるな」
イポリトとポンペオ、アメリアは母を抱きしめ涙を流すトゥットを見下ろした。
「……トゥットはゾーイの息子なんだよな?」
「そうでしょう」イポリトの問いにポンペオは眉を下げた。
「……洞窟にはゾーイだけが住んでいたんだよな?」
「トゥットの話によるとそうです」
「……ニュクスばあちゃんでもねぇのに一人で子作りなんか出来るか?」
すると気を失っていたゾーイが瞼を徐に上げて唇を開いた。
「……トゥットは私の……息子」
「俺は母さんの息子だよ」トゥットはゾーイをきつく抱きしめた。
焦点が定まっていないのか目は虚ろだが、ゾーイはポツポツと経緯を説明した。
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