六章 十四節
その日以来、アメリアはイポリトと顔を合わせないように努めた。診療が終れば砂浜でトゥットや手伝いの若者達に字を教え、トゥットに小屋まで送って貰うと診療所に引き返してそこで寝泊まりした。ディーやポンペオ、ヴルツェルが心配するので『カルテの整理や備品のチェックをしてる』と嘘を吐いた。
ある夜、いつも通りアメリアを小屋まで送ったトゥットは海岸沿いの家へと戻ろうとした。俯き歩いていると人の気配に気付き、背後を振り向いた。
そこには眉を下げて佇むアメリアが居た。
「どした? 忘れ物?」トゥットは問うた。
「……う、うん。ちょっと……診療所に」アメリアは口をもぞもぞと動かす。
「じゃあ送る」
「だ、大丈夫! 一人で行けるよ。これ以上トゥットに迷惑掛けられないし」
「迷惑だなんて想ってない。帰った所で誰も居ないしつまんないじゃん? 誰かと話してる方が楽しい」トゥットは微笑んだ。
「……ありがとう」アメリアは眉を下げて微笑んだ。
診療所に戻った二人は忘れ物を探した。アメリアは『一人で探すから先に帰ってて大丈夫だよ』と断った。しかしトゥットは『一人で夜道を歩かす訳にはいかない』と探すのを手伝った。アメリアは眉を下げた。咄嗟に吐いた嘘にトゥットを付き合わせる訳にはいかない。彼女は頭を下げるとトゥットに真実を打ち明けた。
「え? じゃあ今まで一人でこんな所に泊まってた?」トゥットは問い返した。
「う……ん」
「言ってくれれば俺の家に泊めたのに。俺、外で眠るからさ」
「そんな……! トゥットに悪いよ」
「そんな事無いって。今まで気付けなくてごめん」
眉を下げて微笑むトゥットの優しさにアメリアは心が苦しくなった。瞳の奥がじんわりと熱くなり涙が頬を伝う。
静かに涙を零すアメリアを見たトゥットは慌てる。
「え? え? どしたの? 俺、悪い事した?」
アメリアは首を横に振る。床に涙がポタポタと滴る。
慌てふためいたが、トゥットは冷静になるとアメリアを椅子に座らせてやった。そして診察室から持って来たガーゼを差し出した。
「ごめん。俺、ハンカチなんて気が利いたもの持ってないからガーゼで我慢して」
「……ありがとう」
涙を拭ったアメリアは長い溜め息を吐くと床で胡座を掻いたトゥットに事情を説明した。
「……そっか。アメリアは死神だから現世に戻るんだ」トゥットは小さな溜め息を吐いた。
「……うん」
「女神様に恋人としての記憶を取り上げられたイポリトさんと喧嘩してんだ?」
「……うん。『現世に戻るな』って言われた」
「なんで?」
アメリアは口をもぞもぞと動かしていたが言葉を紡いだ。
「……『トゥットと幸せになれ』みたいな事言われて」
爪先を見つめたトゥットは小さな溜め息を漏らす。
「そんなんで付き合っても俺は嬉しくない」
「そうだよね」アメリアは顔を上げた。
肩をすくめたトゥットは苦笑する。
「そりゃ友達として付き合ってたからさ、もう望みはないだろって想ってた。でももしアメリアが振り向いてくれたら嬉しいって想ってたからさ」
「天地神明に誓ったのに?」
「それは俺からちょっかい出さないって誓っただけ。アメリアが俺に惚れてくれるんだったらいつでも抱きしめたいって事」
アメリアは苦笑する。
「……トゥットってさっぱりしてるようで結構粘着質ね」
トゥットは肩を落とす。
「情熱的って言ってくれよ」
「一途なのは評価するわ」アメリアは微笑んだ。
「……でもさ、イポリトさんの気持ちも分かる。現世に置いて来たと思い込んでる恋人とアメリアが一致してないじゃん。そりゃ混乱するって。一途だからこそ混乱する。だって現世の恋人に義理立てしてる上に、アメリアを愛してんじゃん。愛してなければそんな事言って遠ざけない。不義理だと想って自分に厳しくしてるんじゃない?」
「そうなのかな?」
「そ。それにしてもイポリトさん、許せない。アメリアの気持ちを全然考えて無いじゃん」
「うん。そこが許せない。『互いが互いの正義を尊重する世にしたい』とか言ってた癖にあたしの意見まる無視だもん」
「そんな難しい事言ってたんだ。すっげぇ人だなぁ」
「うん。……なんか腹立ってきた。悲しいって想うよりもすっごくムカつく!」
「だよね。俺もムカつく!」
憤った二人は顔を見合わせると笑った。
「……気が合うね俺達」トゥットは悪戯っぽく笑った。
「だって友達だもの」アメリアは微笑んだ。
大きく伸びをして肩を回したトゥットはアメリアに提案する。
「……イポリトさんに仕返ししよ? 焼き餅妬かせよ? それでいてハッピーエンドすりゃいいじゃん」
「え?」
立ち上がったトゥットは足首を回す。
「だってこのままじゃアメリアにとって最悪な結果になるじゃん。アメリアが現世に戻るにしても島に残るにしても、記憶を奪われたイポリトさんと仲違いしたままじゃ良くない」
「そうだけど……」
「考えがあんだ。聞いてよ。引き換えに俺に協力して貰う事になるけどいい?」
頷いたアメリアの耳にトゥットは耳打ちした。
長い話を聞き終えるとアメリアは眉を下げる。
「……渦の中に潜る?」
「アメリアしか頼める人がいないんだ。山の化身を倒したアメリアなら、神様のアメリアなら、翼竜の娘のアメリアなら、泳げるアメリアなら出来ると想う」
「……でも」
「頼むよ!」トゥットは頭を下げた。
懇願するトゥットを見つめアメリアは小さな溜め息を吐く。
「……分かったわ」
アメリアはその日以来、極力トゥットと行動を共にするように努めた。しかし心の内ではイポリトの事で胸を痛めていた。トゥットも今まで一人で悩みを背負って生きて来たのだ。彼の苦しみの深さに比べれば、自分の胸の痛みなんてかすり傷のようなものだ。
心優しいトゥットは傷心したアメリアの側に居るように努めた。診療が終れば診療所の仲間と共に読み書きの講師のアメリアから字を教わった。トゥットや仲間に囲まれ、アメリアは微笑みを絶やさなかった。
ある日、患者の返り血を浴びたアメリアは着替えをしに小屋に戻った。
小屋の隅で上衣を脱ぐと新しい上衣に袖を通した。すると休憩の合間に小屋に戻って来たイポリトと鉢合わせた。
イポリトは床に落ちた血だらけの上衣を見遣る。
「……返り血か?」
「……まあね」アメリアは血だらけの上衣を拾うと軽く畳んだ。
「そうか。良かった」
アメリアは微笑む。
「……心配してくれるんだ?」
「笑っているけど心を痛めてるって顔だからな」
「それは誰かさんの所為」
眉を下げ寂しそうに微笑むアメリアに背を向け、イポリトは図面を取ると開いて眺める。
「診療所は最近どうなんだ?」
「相変わらず患者は多いけど、ライルさんの話によれば治療が進んでるみたい。次は差し歯造ったり義足や義肢造ったりって段階の人も増えてるから、そろそろ落ち着くかもって。……そっちの工事はどう?」
「この島の野郎共はよく働くな。……ライフラインやら住居やら八割がた仕上がって来た。次は新しい診療所建てたり、義足技師を招いたり、宿泊施設建てたりとまだまだやる事があるな。……そろそろハンスのおっさんが来てくれると有り難いんだがな。ヴルツェルのおっさんの心が折れるかもしれねぇ。毎日のようにヴルツェルが手紙を送ってもなかなか来ねぇな」
「……ヴルツェルさん、顔や口に出さないけどハンスおじさんをずっと待ってるものね」
二柱は黙した。
アメリアは手に持っていた上衣をもぞもぞと動かす。
「……あ、のさ。想い出せた?」
「あ?」
「現世に置いて来た彼女の事」
「……いや」
「……そう」
鼻を鳴らしたイポリトは図面を巻く。
「想い出しはしねぇけどよ、頻繁に夢は見るな。それらしい女が出て来る夢。顔が見えねぇがよ」
「……どんな夢?」
「どんなって……阿呆か。ンなモン喋れるかよ。矢鱈エロい夢だからお子ちゃまには話せねぇわ」
「欲求不満の淫夢なんじゃないの?」アメリアは苦笑した。
「そうかもな。この島に来てから一発もヤッてねぇからな。あーあ。早く現世に戻って一発ヤりてぇわ」
小さな溜め息を吐いたアメリアは『じゃあね』と言うと小屋を出て行った。
寝藁に寝そべったイポリトは大きな溜め息を吐くと、この街に来てから見た夢を反芻した。顔が見えない女の夢ばかり見ていた。
その女とはどうやら居を共にしていたようだ。共に料理をしたり、芝居の台本読みをしたり、床を共にしたり……よく後を付いて回る。人間を親鳥と勘違いした雛鳥のように絶えず自分の後を付いて回る。鬱陶しくもあり愛らしくもあった。一昨日はバスルームで鉢合わせて裸体を見た夢を、昨夜は彼女と喧嘩して家出をした夢を見た。
彼女の豊かな胸に咲いた翼竜のタトゥーを想い出す。
胸の奥がぐんにゃりと溶け掛かり、血流が下肢に落ちる。
イポリトは溜め息を吐いた。
そんな夢を連夜見るのだ。
夢の中ではその女を愛しく想い、目覚めると快活で朗らかなアメリアを愛しく想う。……滅茶苦茶だ。こんな半端な状態で現世に戻れば、帰りを待っていた恋人は悲しむだろう。……かと言って、アメリアに想いを打ち明けて心が通じ合えたとしても現世に残してきた恋人の事を想うだろう。
一体俺はどうすれば良い?
かつてハデスに罰せられこの島に流されたローレンスも現世に戻るか、恋人と幸福に島で暮らすか悩んだに違いない。……悩んだ末にローレンスは現世に戻り死神としての務めと苦役を果たした。島で事件に巻き込まれ、意識不明に陥っている間に恋人に跨がられ、知らぬ間に子供を設けていた、と言っていたな。確か翼竜の子供って言ってたっけ。
イポリトは腕を組み、脚を組む。
ローレンスとユウ……死神と翼竜の子供なら相当なサラブレッドだな。現世で任に就いているのならば何処かで会うかもしれない。……夢の中の恋人とやらは胸に翼竜のタトゥーをしていたな。彼女は彼ら夫婦の娘なのだろうか?
しかし嫁さんのユウ以外に奥手のローレンスに近しい女が一柱居たとな。ヴィヴィアンやカロン以外にも友人を作っていたんだな。快活で朗らかなアメリアならローレンスも心を開く筈だ。彼が彼女の左腕の為に涙を流し、憤るのも頷ける。
結局、悪魔の掟故に現世でアメリアに腕を返しても接着しないとディーに諭され、無駄な希望を持たせてしまった。……アメリアには悪い事をした。気のいい奴だし、他者の為に涙を流すような奴だから『左腕なんて無くても構わない』って無理をしているが……本当はあった方が良いよな。この島に居る限り、左腕は彼女の体に付いているのだから。女って左の薬指に指輪嵌めたいモンらしいからな。
イポリトは瞳を見開いた。
……指輪?
あいつ、左腕の姿の時、指輪してなかったか? アクアマリンの指輪していた筈だ。……なんであいつ指輪嵌めてねぇんだ? トゥットに遠慮してか?
イポリトは上体を起こした。
……いや、馬牧場の時からしてねぇな。するとフリーを装う為じゃねぇな。どうしてだ?
全ての記憶を引っ張り出し、思考しようとすると頭の奥が痛んだ。イポリトは頭を抱える。
……ああ、畜生。想い出せねぇ。想い出そうとすると思考にノイズが入る。
溜め息を吐くと背から倒れ、再び天井を見つめた。
母ちゃんにも会えた、モリーにも会えた、ディーにも会えた、ライルにも会えた……。全ての記憶が戻っている筈なのに……何故、想い出せない事や忘れていた事があるのだろうか。あとはこの南の街の地を甦らせて、現世に帰るだけなのに……何かが引っかかる。
瞼を閉じると寂しそうに微笑むアメリアの顔が浮かんだ。
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