六章 二節
その夜、アレイオーンが休む馬房をイポリトは訪れた。馬栓棒を外し、馬房に入る。
佇んで眠っていたアレイオーンは瞼を開く。
「……牡馬に夜這いを掛けるとはお前は酔狂だな」
「冗談飛ばせる程に元気になったじゃねぇか。碌に飼い葉喰わせず休ませずに長距離走らせるとはオーバーワークだってお袋に叱られちまった。無理させたな」イポリトは鼻を鳴らした。
「自惚れるな。アメリアの為にやった事だ」
肩をすくめたイポリトは袋から金のリンゴを取り出す。するとアレイオーンの眼の色が変わる。アレイオーンは前脚で寝藁を引っ掻き、要求する。
「……可愛い所あるんだな」イポリトは微笑んだ。
「うるさい。好物には勝てまい」
受取ったリンゴを咀嚼するアレイオーンは満足そうに目を細める。シャリシャリと小気味の良い音が馬房に響く。甘い香りが厩舎に広がり、他房の馬達がさざめく。
アレイオーンはシラノが携える袋を見遣る。丸まると太った袋だ。
「……その袋にまだ芳しい金のリンゴが入っているのだろう? 皆にも分けてくれ」
「当然だ。話が終ったら配って帰ぇるよ」
イポリトは微笑むと言葉を紡いだ。
「明日の朝、南へ出発する。お前はここで暫く休養だ」
「いや。最後まで付き合う」アレイオーンはイポリトを見据えた。
「俺もお前とは最後まで付き合いてぇがよ、随分無理させちまったんだ。南の街は険しい山に阻まれてるんだ。これ以上ダチがボロボロになるのを見たくねぇからな」
「……『友人』か」アレイオーンは苦笑する。
「あんだよ? ダチじゃなけりゃ何なんだよ?」藁に胡座をかいたイポリトは腕を組む。
「『友馬』と言うべきではないのか?」
「野郎。俺は馬じゃねぇっての!」
イポリトが鼻を鳴らすとアレイオーンは歯を見せて笑った。
すると白衣を着て診療カバンを提げたディーが現れた。
「やはりここ。イポリト、寝る前の包帯交換終えてない」
「悪ぃ悪ぃ。頼むわ」イポリトは首の包帯と右手の包帯を解くと患部をディーに診せた。
手指を消毒したディーはイポリトを視診する。
ティシポネとの戦いの後、ディーはヘカテに召喚された。医者でありホムンクルスであり魔術に携わる彼女はヘカテの臣下でもあった。イポリトが牧場に担ぎ込まれると直様治療に取りかかった。
「……どうだ? 右手、明日には治りそうか?」患部を睨むディーにイポリトは問う。
「馬鹿。一日二日で治るような怪我ではない。イポリトは刀身を握った。首も牛追い鞭で絞められた。無茶は止せ」
「そう言われてもな」
「明日から同行する。王の命」
「王?」
「魔術師の王、ヘカテ女神。それにディーはイポリトを放って置けない。イポリトはモリーの心配の種。イポリトが幸福に過ごせるようにディーは見張っていなければならない」
「ピクニックじゃねぇんだぞ?」イポリトはディーの顔を覗き込んだ。
「当然」ディーは鼻を鳴らした。
地図を広げ、イポリトとディーが話し合っていると馬房にアメリアが訪れた。パジャマを着た彼女は枕を抱きしめていた。瞼が落ちかかり眠そうだが体の納まりが悪くて眠れないらしい。眉を下げて子供のようにむずかっている。
「眠れねぇのか」アメリアに気付いたイポリトが問う。
アメリアは頷く。
瞼を閉じかけたアメリアは馬房に入る。アレイオーンの暖かい腹に顔を埋めると寝息を立てた。
馬房にアメリアを残し、ディーとイポリトは引き上げていった。
アレイオーンが口でアメリアの髪を撫でていると、いつの間にか開いていた彼女の瞳から涙が溢れ出た。
「……よく我慢したな」アレイオーンは囁いた。
「……うん。これしか手が無かったから」
アメリアは瞳を閉じ、記憶を反芻する。
どうしようもなかった。イポリトの魂の消滅を食い止めたいと想った故の判断だった。
ティシポネに襲われ地に伏したシラノは死にかけた。魂の記憶を取り戻していない所属者故に生身の人間のように簡単に死んでしまう。ティシポネを追い払ったヘカテが彼を救う魔術を施そうとした。しかしそれには相応の対価が必要だった。彼が自分の魂と同等に大切にしていたものを失うと言う事だった。
ティシポネとの戦闘で地に伏し気を失ったシラノの頭にヘカテは手を置く。そして彼の記憶を覗くとアメリアを見遣る。
「……余程お前を大切に想っていたんだな。お前の記憶を失うという結果になるがそれでもいいか?」
アメリアはシラノを見つめ、瞳を閉じると頷く。
「……彼が助かるなら……構いません」
「お前はこの男を愛していたと聞くが」
「今も愛してます。……記憶を取り戻して、シラノと……イポリトとずっと一緒に居たい。抱えていた沢山の想い出を二人で温め合って同じ未来を見据え、笑い合って生きたい。だけど彼がこのまま消えてしまうなら、想い出なんて……」
歯を食いしばり、涙を堪えるアメリアを見遣ったヘカテは小さな溜め息を吐く。
「……分かった。術を施す。しかしそれだけでは足りない。今回は私が直々にオリュンポスに赴き、ゼウスに頭を下げたからな。駄賃としてお前が左手に嵌めている指輪も貰い受けるぞ」
術を施すヘカテの背を眺めつつ、アメリアはメドゥーサの言葉を想い出す。
──一度でも彼の手をとったのなら、彼の手が引き千切れようが自分の腕が引き千切れようが絶対に離しちゃダメ。欲しい物は欲しいって伝えなきゃ。
アメリアは歯を食いしばった。
あたしの記憶が無くなるのは辛い。……だけどあたしからイポリトの記憶が消える訳じゃない。どんなに辛くても悲しくても、握った彼の手は離さない。あたしの側にはいつもイポリトの正義があるから……。
遅い夕食を終え、自宅のベッドでランゲルハンスは書類に目を通していた。サイドテーブルには書状や書類が積まれている。膨大な量だ。ハデスからの書状、ヘカテからの書状、冥府関連の手続きの書類、メドゥーサからの書状、中央部外れの馬牧場からの書状……全てに目を通し、即刻返事を書かなければならない。封蝋の近くには差出人の血で『至急返送請う』と記されていた。
魔力がある程度戻ったが、ランゲルハンスは体力を使わずに済む女姿で静養していた。返信を口述筆記で遣い魔に記させていた。あの晩、体力を使い果たしてからひたすら怠かった。
ヘカテからの書状に目を通していると、ノックの音がした。ランゲルハンスは入室を促した。
トレーに紅茶を乗せたニエが部屋に入る。彼女を見遣った遣い魔はペンを置くと姿を消した。
ミシンデスクにトレーを置くとニエは夫に紅茶のカップを差し出す。
──どうかご無理なさらないで下さい。術後です。
「ありがとう」
ニエは微笑んだ。彼女も心無しか顔色が悪い。
「……ニエ。君も休み給え」
しかしニエは首を横に振る。
──いいえ。大丈夫です。少し疲れただけです。
「無理もない。私から体力も魔力も奪われたからな」ランゲルハンスは隻眼を伏せて笑った。
頬を染めたニエは俯くと丸椅子に座した。
ランゲルハンスはカップに唇を付けると、ベッドに書状を広げる。
「私も休みたい所だがね。この通り急を要する書状がきている」
ヘカテからの書状に指差す。
ニエは書状を覗く。
──確かアメリアとシラノは恋人だったと……。
「アメリアもシラノ……イポリトの生を望んでの苦渋の決断だった。……私が彼女の立場なら同じ事をしていただろう」
──ええ。アロイスは私に自らの片眼を与えてくれましたから……。私も同じ立場なら同じ決断をしていたと想います。
ランゲルハンスは小さな溜め息を吐く。
「悲しんでいる暇もそうそうないようだ……ヴルツェルの今後、アメリアの左腕を持ち去ったイポリトの処罰について考えなければならない。当分のんびりと君とベッドで過ごす事は出来ないな」
ニエは眉を下げる。
──あまりアメリアを悲しませないで下さい。あの子はアロイスの子にも等しい娘です。
「そうはいかん。記憶の書を勝手に閲覧した君に罰を与えたように、契約を破ったアメリアの左腕を切除したように、罰は罰であり罪は罪だ」
ニエは小さな溜め息を吐く。
──アロイス、私、知っているんですよ。
ランゲルハンスはニエを見遣った。
──悪魔の掟故に仕打ちをする他なかったと。本来、魂を滅さなければならない所なのに眼球を奪ったり左腕を奪ったり、手加減したと。
声のトーンを落とし、鈍色の隻眼でランゲルハンスは睨む。
「……誰から聞いた?」
心から見たいものを見られない罰を受けているニエは、夫である悪魔の恐ろしい形相なぞ見えない。彼女は毅然と黙した。
「……大方ライルだな。おしゃべりめが」ランゲルハンスは鼻を鳴らす。
ニエは小さな溜め息を吐く。
──島の管轄権がヘカテ様に戻った事は喜ばしい事ですが……それによってアロイスはハデス様に睨まれて立場が悪くなるのではありませんか?
「何も気にする事はない。私もヘカテも彼に反旗を翻そうなんて毛程も考えた事がない。ただ自分の義を貫きつつも穏やかに暮らしたいだけだ」
──でも、かつてアロイスを土に戻そうとしたヴルツェルが逃亡しました。フォスフォロの話では今も尚姿を確認出来ないと、イポリトは彼を追っていると……。その上、この家にも訪れたと聞きました。
「リビングの本棚が荒らされていたな。仕舞っていた秘蔵の遣い魔の小瓶を盗られた……。南の街を内偵させていた遣い魔だ。貴奴が何をしたいのか見当はつく」
──ヴルツェルは何を考えているのでしょうか。
書状を見つめ俯いていたニエは女姿の夫に顔を向ける。男姿に比べて細い首筋や華奢な肩、豊かな胸が見えた。自分の凹凸の少ない体とは違って、官能的な体だ。ニエは頬を染めた。
ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑う。
「君がこの姿を見慣れるのは当分時間が掛かりそうだな」
ニエは唇を尖らせた。
──手術をなさる前、その姿でいらっしゃるのは夫婦喧嘩の時だけでしたもの。
「感情が高ぶると制御不能になった故に仕方がない。これからは男姿で心置きなく夫婦喧嘩が出来る。女姿では夫婦喧嘩ではないからな」
微笑を浮かべたランゲルハンスはニエを見遣る。眉を下げたニエは膝の上で小さな拳を震わせていた。
──喧嘩はとても寂しいし悲しいです。でも女姿のアロイスとの喧嘩を夫婦喧嘩でない、と想った事は一度としてありません。どんな姿でもアロイスはアロイスです。アロイスと私は夫婦です。
眼の周りに巻いた包帯を涙で湿らせるニエにランゲルハンスはキスを落とす。
「……その言葉だけで心は満たされる。君は夏に咲く黄色い花のように笑い、全てを受け入れる土のように優しい。全てを委ねたくなる」
ランゲルハンスはニエに寄りかかった。ニエは夫を抱きしめると頭を撫でる。
──買いかぶり過ぎです、アロイス。私はあなたを欲するちっぽけな存在にしか過ぎません。
「君は私が真に欲したものを全て与えてくれた」
鈍色の隻眼を伏せたランゲルハンスは妻の胸に手を当てると徐々に下方へ滑らせた。ニエは頬を染める。下腹部で止まった手は愛しげに撫でる。
夫の白い手を見つめたニエは気付いた。
──まさか!
ランゲルハンスは頷く。
「あの晩、言おうか迷ったが黙していた。頑張り過ぎた君が倒れると困るからな」
包帯から涙をにじませたニエは夫の手を包み込む。
「休んでも具合が優れぬのはきっとその所為だろう。昨晩、夢を見た。君が人差し指と親指で小さき者の手を握っている夢だ」
ニエの頬を沢山の涙の筋が伝う。
「術後、魔力が底をついた私は人の体に近かった。故にあの晩に限り、種を持てた。生まれて来る子は夢魔の子か、人の子か……どちらだろうな」
──アロイスの子に変わりありません。
「……愛してくれるか?」
夫の問いにニエは幾度となく深く頷いた。
ランゲルハンスは妻を強く抱きしめた。
「愚問だった。……君がパンドラを案じていたのを知っている。私の目を盗み、時々遣い魔に土産を持たせてはステュクスへ向かわせていたな。あの不憫な娘にさえも愛を注いでくれて感謝しなければならない」
──アロイスの子ですもの。
「そう思ってくれるか?」
ニエは深く頷く。
──種がどうであれ、土がどうであれ、アロイスが愛したのならば私も愛します。アロイスが信じるのならば私も信じます。アロイスと私は夫婦ですもの。
ランゲルハンスは鈍色の隻眼から涙を流した。暖かい涙はニエの頬を濡らす。
──愛してます。アロイス。そして信じてます。
ランゲルハンスはニエから頬を離すと深くキスをした。
「……愛している」
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