五章 七節
帰島するとランゲルハンスは夕食を摂る為にヴルツェルの家を訪ねた。
「今回の外出は長かったな」ドアを開けたヴルツェルは女姿のランゲルハンスを招じ入れた。
「長かった? あちらでは六時間程だったがね。こちらはどのくらいかね?」ランゲルハンスは真っ直ぐにキッチンへ向かう。
「一週間だ。いつもローレンスとやらに会う際は数時間で戻るだろう。何処へ行っていた?」
ランゲルハンスはかまどの火にかけられた鍋を覗く。赤いスープには大量の根菜が浮かんでいた。トマトの香りが漂う。芳香を想いきり吸い込むと答える。
「冥府だ。……根菜が君の料理にあるとは珍しい。どうしたのかね?」
「『ランゲルハンス様とヴルツェル様に』と、私の所属者から貰った」
「そうか」
「私の所属者なのに君の名前が先に出るとはね。やはり君は誰からも愛されるな」
微笑んだヴルツェルは深皿にスープを盛りつける。
「して、冥府には何の用で出向いた?」
ランゲルハンスはスープ皿を受取る。
「食べながら話す」
食卓に着いた二人は生き物達に感謝の祈りを捧げ皿に手をつけた。
ランゲルハンスは冥府での裁判やハデスの命を話した。
「……相変わらずだな。重要な話を事後に打ち明けるのは。またローレンスとやらに喚ばれていると想ったらそんな窮地に陥っていたなんて」ヴルツェルは食事の手を止めて溜め息を吐く。
「そう言ってくれるな。突然呼び出されたのだ」ランゲルハンスはスープを飲む。
「今度からハンスが突然消えたら心配しなければならない」ヴルツェルは睨んだ。
「心配してくれるのかね? 光栄だ」
「茶化すな!」ヴルツェルはテーブルを叩いた。
二人は互いの眼の奥を見据える。
「……揶揄って悪かった」ランゲルハンスは瞳を閉じた。
「……いや、私も怒鳴って悪かった」ヴルツェルは外方を向いた。
「して、死神が集う場所だが私の魔術を以て作ろう。……問題は死神の統括者だ」
「何が問題だ?」
「魔術空間に耐えられる者である事、業務をこなすにあたり利発である事、死神を統括するにあたり人望がある事、神の心情に共感するにあたり長命である事……これらの条件が必要だと想うのだ」
「成る程。ならば君がうってつけではないか」ヴルツェルはランゲルハンスを見遣った。
「冗談を。器用な賢者の君がうってつけだ」
「冗談ではない。ハンスは私のように隠者ではないし、悪魔であるが故に死にもしない。そして島民に好かれているし、賢者であり魔術師でもある。ハンス以上の適任者は居ないだろう」
「……君がそこまで評価してくれるとはね」ランゲルハンスは苦笑した。
「……しかしハンスが島を去る事は叶わない。ハンスの魂と肉体はこの島自体であるのだから。ハンスも私もこの島に魂を縛り付けられている」
「そうだ。この姿は影法師にしか過ぎない。土の属性の夢魔である私は、本来は土なのだから」
「ハンスに子供がいれば、その子供にやらせたのだろう?」
「ああ。しかし私は両の性を持つ夢魔だ。男女と睦み合えても自らの種を注いで子供を成せない。
「……苦しんでいる事を軽々しく聞いて悪かった」ヴルツェルは俯いた。
ランゲルハンスは眉を顰めて鼻を鳴らした。
「同情なぞやめてくれ。君が作った料理が不味くなる」
二人の間を沈黙が支配する。カトラリーを動かす音だけが響く。居心地の悪さにヴルツェルは口をもぞもぞと動かす。
「……私に手伝える事はあるか? ハンスの力になりたい」
ランゲルハンスは紫色の瞳を見据えて黙していたが口を開く。
「……考えておく。それよりも夕食が終わったらワインを飲みつつ、久し振りにチャトランガをしよう。所属者が増えてこの所忙しかった。久し振りに君と知恵競べをしたい」
「分かった」
親友の機嫌が直ぐに治ったのでヴルツェルは微笑んだ。
夕食を終えた二人は暖炉の前に座す。ワインを片手に瓶詰めの黄色い花の種をつまみ、チャトランガに興じた。何局か勝負したが直ぐに疲れて止めた。ランゲルハンスは冥府での裁判の疲れが残っていた。また隠者のようなヴルツェルはランゲルハンス抜きで所属者の面倒を見ていた。二人共慣れない事をして脳が疲れていた。
「……ダメだ。これ以上頭を働かせられない」ランゲルハンスはワインを呷ると苦笑した。
「言い出しっぺが駒を投げるとはね」ヴルツェルは微笑する。
「負ける戦はしない性質でね。悪いが降りる」
「勝手にしろ。まだ飲むか?」ヴルツェルは空のカップを眺める。
「ああ」
「うわばみめ」
微笑を浮かべたヴルツェルはランゲルハンスの空のカップにワインを満たした。
「……脳が働かなくとも舌と胃の腑は働く」ランゲルハンスはワインを傾ける。
「そんな時こそ気をつけろ。理性が外れると饒舌になって色々と恥ずかしい事を喋る。酒に酔うと碌な事が無い」
ヴルツェルは瓶に手を突っ込むと花の種を取る。そして歯で殻を割り、実を口にした。
「君の理性は? 君も酔っても顔が赤くならないタイプだったな」ランゲルハンスはカップに唇を付け、問う。
「外れている。故にあまり喋りたくない」いつもと変わらずに頬が白いヴルツェルは、咀嚼しつつも鼻を鳴らした。
「ほう。では喋らせてやろうか」
「堪忍してくれ」
喉を小さく鳴らして笑うランゲルハンスは瞳を伏せてワインを嗜むヴルツェルを見遣る。
「……君がこの島に来て間もない頃、君の家をひっきりなしにプワソン達が訪れていたな。しかし私の許に現れたプワソンが、君が私に会いたがっていると話した。どうして私に会いたいと?」
噎せたヴルツェルはワインを噴きこぼした。ランゲルハンスは喉を小さく鳴らしつつ、咳き込むヴルツェルの背を擦った。
呼吸を整えたヴルツェルはランゲルハンスを睨む。
「……殺すつもりか」
「君は死なないだろ?」
鼻を鳴らしたヴルツェルは居住まいを正した。ランゲルハンスは術を使い、布切れを出すと床に溢れたワインを拭いた。
「悪いな」
「私の責任だからな。自分で始末を着ける」
ランゲルハンスはワインを吸った布切れを炎が揺らめく暖炉に放った。すると炎は大きく揺らめき布切れを飲み込んだ。
「……して、どうして私に会いたいと?」ランゲルハンスは再び問う。
「その問いから逃がさぬのだな」ヴルツェルは鼻を鳴らした。
「ああ。私はしつこい性質なのだ」
ランゲルハンスは瓶に手を突っ込み花の種を取ると殻を割って口に入れる。
ヴルツェルは長い溜め息を吐くと『酔っているからな』と一言添えて言葉を紡いだ。
「……初めてハンスに会った時、私は外方を向いていたな。向く他なかった。ハンスの鈍色の瞳を見て想い出した。……生前、ゴブリンに似つかわしくない容貌の所為で私は仲間や親に疎まれていた。しかし一人だけ優しくする女がいた。人間だった。艶やかな黒髪に鈍色の瞳の彼女は人里離れた森に棲んでいた。魔術師だったのだろう。家にはハンスが使っている道具と似た物が置かれていた。洞窟から追い出され行き倒れた子供の私を彼女は助けてくれた。異形の私に名や生きる術を与えてくれた」
「……やはりな。誰かが手ほどきしなければ美味な料理を作れるものか」ランゲルハンスは微笑んだ。
ヴルツェルはワインを呷る。
「彼女は様々な事を教えた。薬草、生物、天候、精霊、自然に関する知識を私に与えた。彼女は自然を愛し、人間を憎んでいた。『金は人の心に悪を住まわせる』と口癖のように呟いていた。私は清く貧しく暮らし、動物や虫達と心を通わせる彼女を愛した。しかし彼女は人間だ、やがて病に冒され死んでしまった」
「私に昔の女の影を求めるのはお門違いじゃないのかね?」ランゲルハンスはヴルツェルのカップにワインを注ぐ。
「求めるものか。……第一ハンスは料理が出来ないし人間を愛している。それに……ハンスの方が心も瞳も綺麗だ。触れたくなる程に」
ワインを嗜むランゲルハンスは尻目でヴルツェルを見遣る。それに気付いたヴルツェルは鼻を鳴らす。
「彼女の人間嫌いを理解出来なかった。彼女も人間だったからな。人間はいいものだと、優しいものだと想った。人間の為に何かをしたいとも想った。……しかし私は洞窟に戻った。そこしか戻る場所がなかったからな。私には隠していた特別な力があった。それを見せると仲間は私を迎え入れた。しかし欲に目が眩んだ仲間は私を手に掛けた。私は受け入れられたかった。ただそれだけだ」
「他者を望んでも、他者に自分が望まれない事は往々にしてある」ランゲルハンスは瞳を伏せた。
「……ハンスは私を受け入れてくれる」
「無論。君も私を受け入れている」
二人は互いを見つめ合った。ランゲルハンスの鈍色の瞳にはヴルツェルが、ヴルツェルの紫色の瞳にはランゲルハンスが居た。
暖炉の火が爆ぜる小さな音が静寂を切り裂く。
二人は互いに鼻を鳴らすと外方を向いた。
「……恥ずかしい男だな」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。
「だから言っただろう。酒に酔うと碌な事が無いと」ヴルツェルはランゲルハンスの空のカップにワインを注いだ。
「ああ。でも君の話はなかなかどうして面白かった。私に好意を寄せているとはね」
「黙れ」ヴルツェルは睨む。
「黙るものか。私も君を愛してる。大好きだ」
ヴルツェルは頬を染めると視線を逸らす。ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。
「やっぱり私はハンスが嫌いだ」ヴルツェルは鼻を鳴らす。
「私は君が好きだがね」
その夜、島の今後について遅くまで話した。座していた二人は疲れたので床に寝そべりつつも花の種をつまみに話した。しかしヴルツェルは気疲れで瞼を閉じて眠った。
腕を枕代わりにして寝そべっていたランゲルハンスはヴルツェルを見つめた。彼は穏やかな表情を浮かべて瞼を閉じ、規則正しく呼吸をしていた。
ランゲルハンスは上体を起こす。豊かな胸が揺れた。花の種の殻に囲まれたヴルツェルを見下ろした。ブロンドの柔らかい髪を撫でる。そして慈愛を込めた瞳で寝顔を見つめた。
「……いつだったか君は私に『ハンスに殺されるなら本望だ』と言ったな。しかしそんな悲しい事を望まない」
ランゲルハンスは髪を撫で続ける。
「君は『何か手伝える事はあるか? ハンスの力になりたい』とも言ってくれたな。私に『魂の代わりに君が望むものを一つ与えよう』とも言ってくれたな?」
花の種が入った小瓶を横目で見遣る。
「……君は花だ。花粉を運ぶ虫ではなく、私も種を結ぶ花になりたかった」
深く眠るヴルツェルの心には声は届かない。
よく眠っているな。
髪から手を離すと彼の寝顔に囁いた。
「……愛と呼ぶには幼いかもしれない。しかし私は君が好きだ。君が欲しい。君の種を貰うぞ」
ヴルツェルの両瞼にキスを落とすと彼に跨がった。夢魔として務めを果たすアロイジア・ランゲルハンスを見守るのは、爆ぜて時折小さな音を立てる暖炉の炎だけだった。
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