五章 三節


 月日が流れ、秋が訪れる度にディオニュソスが贈る茜ぶどうのワインの出来が良くなった。ケイプとプワソンが頻繁につるんで何処かへ出掛けるようになった。残されたランゲルハンスはヴルツェルと行動を共にした。


 ヴルツェルはランゲルハンスが男姿をしていようが女姿をしていようが、態度は一貫していた。一方ケイプやフォスフォロは女姿のランゲルハンスに鼻の下を伸ばす。ランゲルハンスがしなを作って物事を頼むと一にも二にも無く請け負った。しかしヴルツェルは色仕掛けにも動じず、それが果たして友人の為になるのかどうかを考え判断していた。ランゲルハンスはヴルツェルを心から信頼した。


 互いに静寂を愛する者であったが家を行き来しワインを呑みつつ哲学や自然について語り合った。またケイプが置いていったチャトランガに額を寄せて興じ、海に出ては水と親しみ、渓流では釣りを楽しんだ。


 秋が訪れたら渓流釣りに行く、と言うのは二人の決まり事だった。一年前のワインを手に西の山に建てた山小屋で二人は過ごした。ヴルツェルは料理の腕に長けていた。彼は釣ったイワナを塩焼きにするのは勿論、腹から卵を出し塩漬けにしたり、燻したり揚げたりした。森の自宅では捕まえた鳩を捌きグリルした。ランゲルハンスはこの料理を甚く気に入ったようで、両手に鳩を提げたヴルツェルを見つける度に自宅まで押し掛けた。


「鳩と言いイワナと言い……君は本当に器用だな」ランゲルハンスはイワナを捌くヴルツェルの手許を眺める。


「嫁を貰うどころか親に疎まれていたからな。子供の頃から何でも出来なければ生きられなかった。食事や睡眠をせずとも平気だが同族の模倣をしているだけだ。初めの内はこれ以上変わり者と想われたくない義務感でやっていた。しかし慣れてみるとなかなかどうしていい物だな」ヴルツェルは捌いたイワナに串を刺す。


 独りぽっちか。ランゲルハンスは以前会った死神を想い出す。


「子供を望んだ事は?」


「……伴侶が居ないので考えた事が無かったな」


「そうか」


 二人の間を沈黙が支配した。


 ヴルツェルはレンガ造りのかまどに串を刺し、まな板を洗う。


「……ハンスは錬金術をする癖に料理をしないのだな。錬金術や魔術の話を聞いた限り、料理と似ていると想うが」


 ランゲルハンスは苦笑する。


「……いつだったか君にグラッパを飲ませただろう。あれが全ての答えだ」


「ああ。死ぬかと想った。喉が灼けて眼が潰れるかと想った」ヴルツェルは長い耳を楽しげに動かした。


「君は死なないだろう」ランゲルハンスは俯き、喉を小さく鳴らして笑った。


 ヴルツェルはランゲルハンスを見据える。


「……ハンスに殺されるなら本望だ」


 思いがけない言葉にランゲルハンスは顔を上げる。


「戯れ言を」


「……ならば戯れ言だと想え。さて、イワナが焼けるまでワインを蒸留するか」


 ヴルツェルはワインボトルを掲げた。




 ある日、鳩を探すヴルツェルと共に森を散歩していたランゲルハンスは突如として現世に喚び出された。


 ランゲルハンスは召喚された部屋を見渡した。魔術工房ではない。テーブルや椅子等最低限の家具だけが置かれた薄暗い部屋だった。人の姿は視認出来ない。


 しかし洟をすする音が部屋に響く。子供が泣いているのだろうか。子供を身代わりにして自らの魂を守ろうと言う輩も居る。陣から出ると音の在所を調べた。


 テーブルの下から聞こえた。ランゲルハンスは足音を殺し歩み寄った。テーブルの下で膝を抱え、顔を伏せて洟をすすって泣いているのはどうやら男らしい。しかし男にしては随分と線が細い。杖のような体躯だ。


「……私を喚んだのは君かね?」女姿のランゲルハンスは爪に火を灯すと男を見下ろした。しかし聞こえてないようだ。


 再度問う。


「私を喚んだのは君か?」


 両肩を跳ね上がらせた男は恐る恐る顔を上げた。青白く光る不思議な瞳は涙で潤んでいた。


 ローレンスだ、と瞬時に理解した。しかしローレンスは気が付かないようだった。ランゲルハンスは女性の姿を彼に初めて見せるからだ。


 女性が苦手なローレンスは眼前に現れた美女に驚く。慌てふためき言葉を吃らせた。


「……だ、だだだだ誰なんだきき君は? ど、どど何処から入ってききききき来たんだ?」


 女慣れしていないのか。ランゲルハンスは溜め息を吐くと、術を使い男の姿になった。


 大男のランゲルハンスに安堵したローレンスは、長い溜め息を吐くと上げていた肩を下ろした。ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑う。


「婚姻を良しとしない君は童貞だろう? 精を吐き出さずとも女と交わってみたらどうかね?」


 ローレンスはランゲルハンスを見上げ頬を染める。


「ば、馬鹿言うなよ! そ、そんな事出来る訳無いだろ!」


「私は夢魔だ。先程のように女にもなれる。リードしてやってもいいが、どうかね?」


「揶揄うな!」


 ローレンスは叫ぶと立ち上がる。しかしテーブルの下に居た為に頭を天板に強打した。


 悲鳴が部屋に響き渡る。


 両手で頭を押さえるローレンスを眺め、ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑う。


「君は愉快だな」


「僕は不愉快だ」ローレンスは片手で頭を押さえつつ、テーブルの下から這い出た。


「……して何故私を喚んだのかね? 君は以前、永遠に会わないと言っていたではないか」


 ローレンスは頭を押さえつつ粗末な木の椅子に座す。


「……そうなんだけどさ……君に話を聞いて貰いたくて喚んだんだ。契約じゃないんだ」


 鼻を鳴らしたランゲルハンスは木の椅子に座す。大男にとって椅子は小さかった。窮屈に感じたので女姿に戻りたかった。しかしローレンスの前では止めた方が良い。きっと先程のように動揺して話にならない。


「悪魔を召喚して契約もせず話を聞いて貰おうとは……やはり君は面白い男だな」


「うるさいな」ローレンスは眉をしかめた。


「悪戯に喚び出した者は魂を抜かれるぞ」ランゲルハンスは唇の片端を吊り上げる。


「……君に奪えるものか。僕はこれでも神の端くれだ」ローレンスは睨んだ。


「童貞の守護神かね?」


「童貞で悪かったな! 僕は死神だ!」


「まあ、そう怒るな。君の話なら聞こうじゃないか。座り給え」


 眉を顰めたローレンスは長い溜め息を吐くと椅子に座した。彼は胸の内を吐露した。前回話した内容とほぼ同じものであったが心の均衡は崩れかけていた。


「……戦争や差別は神や人間、悪魔の因果だが病や災害ばかりは自然の摂理だ。私達が足をつけているこの地とて巨大な生物だ。その生物の意志、つまり自然の摂理には逆らえない」ランゲルハンスは呟いた。


「……分かってるよ。分かってるけれども、もう見るのは嫌なんだ!」


 ローレンスは声を震わす。


「この前僕の住む町に沢山の死神が集まったんだ。ハデスの命だ。ヒュプノスは皆、常に爛れた右手を晒していた。普段の彼らは日中しか働かない。でもその時は昼も夜も無く働いた。嫌な予感がした。近い内に大量に人が死ぬんだなって」


 ローレンスは洟をすする。


「……予感の通りだった。僕はケールから膨大な死者のリストを受取った。ハデスからも厳重な達しが来た。『事が起きるまで右手を常に空気に晒せ。決して姿を見せるな』って。覚悟はしていた。でも……眼のあたりにするとダメだ」


 瞳を潤ませたローレンスは頬に一筋の涙を伝わらせた。


「……何が起きたのかね?」ランゲルハンスは問う。


「僕が住んでた町から見えた火山が噴火したんだ。起こった時は何が何だか分からなかった。一瞬で白い闇が町を覆った。その一瞬は永遠に続く地獄だった。逃げる暇も与えずに白い闇は人々を飲み込んだ。そして焼け付く石つぶてが白い空から降って来たんだ。地獄よりも熱かった。皮膚が焦げるかと想った。神の僕が吸っても胸が爛れそうになる程に苦しい空気が町を覆った。人の身であればあんなの逃げられる訳ないよ」


 ローレンスの歯の根が合わなくなった。震える彼の肩をランゲルハンスは大きな手で軽く叩いた。


「……苦しかったのは噴火だけじゃなかった。火山活動が治まってハデスの命が解かれて町へ戻った。もう町はなかった。何もかもが灰に埋もれていた。奴隷も老人も子供も……僕の家の隣に住んでいた学者だって、皆々一瞬にして死んだんだ。片想いの女性に愛を打ち明けようとした青年だって、広場のオリーヴの成長を眺めた子供だって、風呂を楽しみに生きていた老いた学者だって、食事を楽しみにしてた奴隷だって、喧嘩してる夫婦だって、僕に懐いていた子猫だって皆々、後悔する暇も人生を懐かしむ暇も与えられないまま死んだんだ!」


 肩を上下に揺らし呼吸を乱したローレンスは洟をすする。


「……ひたすら地獄だったよ。人の骨のようにただ白い世界で沢山の魂が長い尾を引いて宙に浮いているんだ。胸が潰されそうだった。逃げたかった。……だけど僕は死神だ。肉体から離れた魂を逝くべき所へ導かなければならない」


「……君は何を望む?」ランゲルハンスはローレンスの頭を撫でた。


「……僕は皆が笑って幸せに暮らしている所を見たいだけなんだ。皆が互いを愛し合って笑顔でいるのを見たいだけなんだ。……ただそれだけだ」


「……ちっぽけな悪魔に願うには大きな望みだな」


「馬鹿を言うな! 僕は魂を売らないぞ!」俯いていたローレンスは顔を上げて怒鳴る。


「そうか。それは残念だ」ランゲルハンスは力なく微笑んだ。


 ローレンスは長い溜め息を吐いた。そして悪魔の優しい鈍色の瞳を見据える。


「……分かってるさ。僕が望む事はあまりに無謀だって。だけど願わずには居られないんだ。想わずには居られないんだ」


 胸の内を全て吐露するとローレンスは瞳を閉じた。


 あまりにも優しすぎる男だ。ランゲルハンスは溜め息を吐いた。今までよく生きて来たものだ。もしローレンスが死を司る神ではなく、生や喜びを司る神であったのなら人類は彼の望み通りに互いを愛し笑い合ったのかもしれない。戦争も差別もなく、国の境や言語の壁すらもない世界になったかもしれない。しかし彼は死を司る神として生を受けた。その立場で生きる他ない。


 ランゲルハンスの頭にある考えがよぎる。


「……これは独り言だ。聴くも聴かぬも君の勝手だ。……私が君だったらハデスを裏切り、魂をちょろまかす。その魂を悪魔と契約した島へ運ぶだろう」


 ローレンスはランゲルハンスを見据えた。


「そこは気のいい精霊達とちっぽけな悪魔、酒の神だけが住むには広大な島だ。人間が住めば賑やかになる。悩みの無いエリュシオン、と言う訳では無いが生や過去に悩みつつも穏やかに暮らせるだろう。……島主の悪魔は夢魔だ。肉体から離れた魂や意識不明に陥った魂を迎え入れよう。そして眠りについた魂の到来も許そう。人間や精霊が手を取り合って暮らせればいい。意識不明に陥った魂には課題を与えて現世へ戻れるチャンスを与える。無論、戦や差別等が起きぬよう魂の選定は死神に一任するが……」


 ローレンスは洟をすする。


「……それには僕の子孫と言う犠牲が出る。僕の魂を君に売り渡す事は構わない。死神は次世代を残さない限り死を許されない。……子供に僕が今まで見た事やった事をさせるのは嫌だ。君の独り言は素敵だけど」


 ランゲルハンスは溜め息を吐く。


「……もっと頭を使い給え。馬鹿正直過ぎて私が苦しくなる。よく考えた上で答えを導き給え。悪知恵も知恵の一つだぞ、ローレンス」


 ランゲルハンスは術を使って姿を消した。ローレンスはランゲルハンスが座していた椅子をいつまでも見つめ続けた。


 ランゲルハンスは森に戻ると、鳩の首を両手にしたヴルツェルが右往左往している所に出くわした。


「今戻った」ランゲルハンスは枯れ葉を踏みしめる。


 ヴルツェルは女姿のランゲルハンスに気付くと長い耳を動かす。


「突然消えたので探した。……喚ばれたのか?」


「ああ。消えて悪かった。君の前で喚ばれるのは初めてだ」


「契約したのか?」


「いや。し損ねた」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


「上機嫌だな。どうした?」


 ランゲルハンスは枯れ葉を踏みしめつつ、ヴルツェルの家へ向かう。


「面白い男に会った。死神だ」


「死神……」


「ディオニュソスと同じ神族の男神だった。……聞いて驚くな、夜の女神ニュクスの息子が一柱タナトスだ。主神ゼウスよりも年寄りだ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


「死神は人間と交わり世代交代してると以前ディオニュソスから聞いたが」


 ランゲルハンスは心優しいローレンスの話を聞かせた。


「……神が神の域を越えられぬとは残酷なものだな」ヴルツェルは瞳を閉じた。


「神や悪魔、精霊さえも人間が生み出した存在に過ぎない。私達が出来るのは希望となり、人間を導く事だけだ。……もし人間がこの島に住むなら……ヴルツェル、君なら人々を導けるだろう」ランゲルハンスはヴルツェルを見据えた。


 ヴルツェルはランゲルハンスの視線に気付くと瞼を開く。


「……世迷い事を。私に何が出来ると?」


「君は心優しく公平で理知的だ。喜びも悲しみも知っている。もし、ここへ人間が来たならば君は導いてやれるだろう」


 ランゲルハンスはヴルツェルの瞳の奥を見据えた。ヴルツェルは眼を逸らすと鼻を鳴らす。


「……以前は色仕掛けで頼み事をしていたな。しかしこんなに真摯に頼むとはね」


「小手先では通用しないからな。真摯に頼む他無い。君は色事を好まないだろう? 私のこの胸からも視線を逸らす程だ」ランゲルハンスは豊かな胸に手を添えた。


 ヴルツェルは視線を逸らす。


「私には欲が備わってないからな」


「嘘を吐け。欲が無ければ逸らさぬ筈だ」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑った。


 ヴルツェルは鼻を鳴らす。


「……他ならぬ親友の頼みだ。人間がこの島に住まうのなら快く迎えよう」


「恩に着る」ランゲルハンスは微笑んだ。


 鼻を鳴らしたヴルツェルは先を急いだ。ランゲルハンスはヴルツェルの背を眺めた。ユリの蕾に似た彼の長い耳が楽しげに動くのを見ると、喉を小さく鳴らして笑った。

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