四章 九節


 朝日を顔に受けたシラノは目ヤニで汚れた目を擦ると瞼を上げる。すると腕の中にアメリアの左腕が居た。眠っているのだろうか、微動だにしない。シラノは起こさぬように徐に身じろぐとソファから立ち上がった。


「もう少し共に寝てやれ」


 声に驚き、振り返ると窓からアレイオーンが首を差し入れていた。


「……お前一晩中そうやってたのかよ」シラノは苦笑する。


「冗談を」


 アレイオーンは鼻を鳴らす。


「俺の側よりもお前の側の方がアメリアはよく眠れるらしい」


「どうしてだよ?」シラノは頭を掻いた。


「さあな」


 鼻を鳴らしたアレイオーンは踵を返すと何処かへ消えてしまった。


 シラノが大欠伸をしているとメドゥーサが現れた。彼女はシラノを一瞥するとキッチンに入る。


「干してた服、乾いてるわよ。物干にあるから」


「おうサンキュ」


 シラノはソファに左腕を置くと庭へ向かう。


 ソファに戻されたアメリアは目を擦る。小さな欠伸をして伸びをするとキッチンカウンターからこちらを窺うメドゥーサと視線が合った。アメリアは暫く彼女を見つめていたがこっくりと会釈をした。


 すると鼻を鳴らしたメドゥーサは朝食の支度を始める。


 ……見えているのかな? それともシラノみたいに見えないのかな?


 ソファに座したアメリアがもぞもぞと膝を擦り寄せているとメドゥーサは鼻を鳴らした。


「……手伝いなさいよ」


 え。あたしに言ったの?


 アメリアがきょろきょろと周囲を見回しているとメドゥーサは再び鼻を鳴らす。


「……あなたよ、あなた」


 メドゥーサの焚火色の瞳が真っ直ぐアメリアを捉える。気付いて貰えて嬉しくなったアメリアは立ち上がると小走りでキッチンへ向かいメドゥーサの隣に立った。


 ──あたしが見えるの?


 メドゥーサは鼻を鳴らす。


「見えるわよ。ずっとシラノにくっ付いて。まるで馬鹿な恋人みたいね。昨晩なんかシラノと一緒にお風呂なんて入って妬けちゃうわ」メドゥーサは火に掛けたフライパンにベーコンを敷くと玉子を落とす。


 ──恋人……だった。


「『だった』? だったって何よ?」まな板にメドゥーサはイギリスパンを並べる。


 ──彼が死ぬ直前に想いを伝えてくれたの。だから過去形。


「それで遠慮して過去形にしてる訳?」


 ──うん。だって……縛るのは可哀想だもの。それに記憶を失ってる。心から愛する人が彼の前に現れた時、あたしは消えちゃうかもしれない。『恋人』って想っていたら見るに耐えられないもの。


 イギリスパンにバターを塗っていたメドゥーサは鼻で笑う。


「何それ。まるで人魚姫じゃない。じゃあ、あたしが盗っちゃっても良いのね?」


 眉を下げたアメリアはもぞもぞと口を動かした。


「好い男よねぇ。鼻が馬鹿みたいに高いけど、滅茶苦茶優しいわよね。それにポセイドンより気骨ありそうだもの、あたしのナイフを素手で受け止めるなんて。逞しいし、ファックも上手そう。あとでベッドに誘ってみようかしら?」


 瞳を潤ませ、口をへの字にしたアメリアは小刻みに震える。


 パンにレタスを乗せるメドゥーサは長い溜め息を吐いた。


「……あなた本当に馬鹿ね。ここまで言われて何も言い返さないの?」


 ──あたしはメドゥーサみたいに彼に見える訳じゃないから幸せにしてあげられない。


「ふうん……。彼の事を第一に考えての事なのね」


 ──うん……。


「昨日までのあたしと同じ」


 メドゥーサはモツァレラチーズをパンに乗せる。


「……ねぇ。やっぱりあんたも自分よりも彼の方が大事な訳?」


 足許を見つめていたアメリアは頷いた、


「そうよね。だったらこんなにウジウジしてないものね。あーあ、家に黴が生えちゃいそう。昨日までのあたしって最悪」


 アメリアはもぞもぞと口を動かした。


 メドゥーサは話を続ける。


「彼が大事って気持ち、よく分かるわよ。あたしもそうだったもの。結局愛されてはなかったけど」


 カットした黒オリーブをパンに乗せる。


「情が厚くて好い男ね。きっと想い出すわよ。他人の為に命を投げ打つような男だもの。あの手の男って出会った人を決して忘れないわ。……人望あったでしょ?」


 アメリアは頷いた。


「じゃああなた、ここで腐ってちゃダメよ。あなたがそうであるように、彼からしてみればあなたが一番大事なの。現世で死に際に胸の内明かしたんでしょ? あなたが笑顔で居て欲しいから自分の命を投げ打つのよ。あなたもそうでしょ?」


 アメリアは深く頷いた。


 トマトと生ハムをパンに乗せメドゥーサは小さな溜め息を吐く。


「彼が一番なのは分かるけど、このままじゃ共倒れよ。だから自分の為に生きなさい。……本当はあなた、彼が一番大切じゃなくて彼とあなたが笑って過ごしているのが大切なんでしょ?」


 顔を上げたアメリアはメドゥーサの焚火色の瞳を見据える。


 ──うん。


 メドゥーサは微笑んだ。


「だったら……一度でも彼の手をとったのなら、彼の手が引き千切れようが自分の腕が引き千切れようが絶対に離しちゃダメ。欲しい物は欲しいって伝えなきゃ。……あたしはそれが出来なかったから……あなたにそんな惨めな想いして欲しくない」


 ──メドゥーサ……ありがとう。


「じゃあ手を握ったついでに首に縄付けときなさい。……ねぇ、シラノに視認されないって事はあなた、元々島で生まれたんでしょ? 瞳が青白く光るし、右手に包帯してるし……もしかして死神の子?」


 ──うん。


「じゃあ父親はローレンス?」


 ──どうして父さんを知っているの?


「噂で聞いたの、北の街に住んでいるって。ローレンスの娘ねぇ……道理でウジウジしてると想ったわ。……あたしが黒髪だった頃、花畑で知り合ったの。あたしが作ったブーケを『素敵だね』って褒めてくれた。……あなた、ローレンスに似てる」


 アメリアは小首を傾げた。メドゥーサは鼻を鳴らすと具材にパンを乗せる。


「……ウジウジ、ナヨナヨしてるけど良い奴だった。死神って良い奴なんだなって。道端で死んでた小動物の為にブーケを作ったの。ローレンスと一緒にお葬式をした。……姿を変えられて西の果ての洞窟に身を潜めた時……実は彼が訪ねてくれたの。『僕は石にならないよ。だって友達だし、君は僕を恐れなかったもの』って。……でもね、あたし勇気がなかった。そいつまで石になったら悲しいもの。ポセイドンが石に変わるよりもきっと辛いと想う。心にも無い事言って追い払ったの」


 ──父さんと友達だったんだ。


「友達って言って良いのかしら? あーあ。シラノのお説教聞いたり、あなたの父親を想い出したりして馬鹿らしくなっちゃった。いつまでも自分に悲観してる場合じゃないわね。姐さん達から教わった刺繍、久し振りにやろうかしら」パンを乗せるとメドゥーサは蛇に巻いた白いリボンを弄んだ。


 アメリアはまじまじとリボンを見つめる。白い糸で刺繍が施されている。


 ──刺繍……自分でやったの?


「そうよ」


 ──凄い! 細やかで素敵。


「やってみる? ローレンスの娘なら教えてあげてもいいわよ?」メドゥーサは悪戯っぽく微笑む。


 眉を下げてアメリアは微笑する。


 ──やめとく。あたし不器用だから手が穴だらけになっちゃう。


 女達は笑い合った。

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