四章 七節
樹々に囲まれ月光が降り注ぐ静謐な泉に浸かり、シラノは身と服を清める。天から降り注ぐ星々の囁きと儚げな月明かりが上半身を照らす。隆起した筋肉に濃い影が差す。彼は濡れたカーゴパンツを肩に掛け、海水と白砂で胡麻汚しになったフィールドジャケットを濯ぐ。
酷い目に遭った。咄嗟の判断で仕方がなかったが、シュールストレーミングの缶を破り、ティシポネを撒く他なかった。服に汁が付いた気配はないが、鼻が馬鹿になっている。未だにあの嫌な臭いが鼻腔に纏わり付く。
フィールドジャケットを固く絞るとシラノは岸辺に上がる。ジャケットを広げて岩に干し、カーゴパンツに脚を通そうとするとアレイオーンが近付く。
「水を飲んでも臭気が鼻から離れない。お前の所為だ」
「でも撒けただろ?」
「ああ暫く時間稼ぎが出来そうだな。しかしこれでは追跡出来まい」
鼻を鳴らしたアレイオーンは泉を眺める。つられてシラノも見遣る。
泉には月光を白い肌に受け、沐浴する乙女が佇んでいた。彼女の短い髪をなびかせた夜風は水面を撫でる。影になり、顔はよく見えない。引き締まった尻がツンと夜空を仰ぎ、腰が悩ましくくびれた美しい乙女だった。夜風に撫でられた彼女は寒気を覚えたのか、両腕を抱くと振り向き岸辺に上がろうとする。腕に抱かれた豊かな胸からちらりと痣のような物が見えた。
「おい。見るな」
無粋なアレイオーンに視界を遮られる。シラノは鼻を鳴らした。
「見えているだろ?」アレイオーンは肉薄した。
「しつけぇな」シラノは眉を顰める。
「勃っているぞ」
足許を見遣ったシラノは舌打ちする。
「悪いか?」
「悪い」アレイオーンは鼻を鳴らすと乙女の許へ駆け寄った。
カーゴパンツに脚を通しつつ、シラノはアレイオーンを見遣る。アレイオーンは岸辺で左腕を咥え、背に乗せていた。
優しい眼差しで左腕に何かを語りかけるアレイオーンをシラノは眺める。
裸の女が見えた気がしたんだが気の所為なのか? ……しかしアレイオーンに『見えているだろ?』と詰問された。偶然アメリアとやらが見えただけなのかもな。月夜で不鮮明だった。しかし綺麗なねーちゃんだったな。左手の薬指に指輪を嵌めてるくれぇだし男の手がついてんだろ。彼氏には悪いがちっとだけ裸拝んだぜ。
シラノが鼻を鳴らしていると左腕を背に乗せたアレイオーンが近付く。
「ジッパーくらい上げろ」
「ギンギンに勃って上げられねぇんだよ。無理矢理引き上げるとジッパーが裏筋に噛み付くっての」シラノは鼻を鳴らした。
「自慢するな。勃たせるほうが悪い」
「しょーがねぇだろ。あんだけエロい体見りゃ誰だって勃つっての」
「やっぱり見えてるんじゃねぇか」アレイオーンは歯を剥いた。
「もう見えてねぇよ」
「嘘こけ」
「嘘吐いてねぇよ」シラノはアレイオーンを睨んだ。
「……本当か?」
「本当だ。さっき一瞬見えたがな、もうアメリアとやらの姿は見えねぇ。何で見えたんだろうな?」
「それを聞きたいのは俺だ。本当に見えてないなら構わないが、アメリアの裸体が見えるようならお前の目を潰さなければならない」
「物騒だな!」
「ベラベラと口数が多いお前には目がないのが丁度良いくらいだ!」
二人の男が口論していると泉から激しい水音が響き渡る。
アレイオーンは耳を立て、シラノは泉を見遣る。
人が溺れていた。口論している隙に入水したのだろう。
「おい! 大丈夫か!?」水音を響かせ駆け寄ったシラノは胸まで浸かると水底を蹴り、泳いだ。
シラノを案じたアメリアはアレイオーンから飛び降りると後を追いかけた。
「おい!」
アレイオーンの制止を振り切り、アメリアも泉を泳ぐ。気を揉んだアレイオーンは岸辺でうろうろと歩き回る。
月光が水面を照らす。溺れる者はフードを目深に被っていた。手は水面を幾度となく打ち、忙しない水音が響く。開いた口に水が入ったようで咳をしつつも悲鳴をあげる。女の声だ。
シラノは女に近寄ると彼女の腹に腕を回した。もがいていた女は恐怖に圧されて気を失った。岸辺に戻るとシラノは彼女を引き上げた。ローブの袖から青銅の手が覗いた。
女を地に横たわらせると頭部に貼り付いたフードを上げる。すると無数の蛇が現れた。気を失った蛇達は頭から生えていた。蛇の一匹に白いレースのリボンが結わかれていた。
「ティシポネ!?」シラノは眉を顰めた。
「勘弁しろ。もう疾駆するのは疲れた」
アレイオーンは女の顔を覗き、ローブから覗く手を見遣った。
「いや。こいつはティシポネじゃない」
「じゃあ何なんだよ? 蛇頭って事はエリニュス三女神のティシポネの姉妹か?」シラノは問うた。
「違う。ゴルゴン三姉妹のメドゥーサだ。さっきのティシポネと違って手が青銅で出来ているだろ。それにコウモリの翼も生えていない。それよりもアメリアを助けろ!」血相を変えたアレイオーンが叫ぶ。
「あ?」
「お前を追いかけてアメリアが泉へ入った。まだ戻って来てない! 俺は泳げないんだ!」
血相を変えたシラノは泉へ駆け戻る。アレイオーンは彼の背を見守った。
月明かりに照らされた水面には左腕は浮かんでいなかった。水音も聞こえない。シラノは耳を澄ませ、首を隈無く動かし辺りを探る。
まさかあいつも溺れたのか? 潜水して探そうとシラノが息を大きく吸った途端、誰かに背を叩かれた。
振り返ると左腕が彼の肩に手を掛けていた。どうやら溺れたようでは無く、女が助かったのでゆっくり泳いでいたらしい。
安堵の溜め息を吐いたシラノは眉を吊り上げて怒鳴る。
「阿呆! 危険なのに付いて来るな!」
左腕はむっとしたのかシラノの頬をつねり上げた。
夜空にシラノの悲鳴が響き渡る。
左腕の安否を案じたアレイオーンが岸辺から叫ぶ。
「助けたのか!?」
「ああ!」
胸を撫で下ろしたアレイオーンは夜空に向かって嘶いた。
岸辺から上がったシラノは左腕をアレイオーンの背に預けると地に横たわる女の頬を軽く打った。すると女は徐に瞼を上げた。女はシラノを見た瞬間に悲鳴を上げた。そして自らの顔を青銅の手で覆う。
「見ないで! 見ないで! 石になる!」女はうずくまり地に顔を伏せた。主の悲鳴に蛇達は起き、めいめい好きな方向に体を這わせる。
「あ? 見ちまったよ」シラノは小さな溜め息を吐いた。
女は絹を裂くような悲鳴を上げた。シラノは耳を塞いだ。
息を荒げていた女は次第に我を取り戻したようで、声を震わせる。
「み……見たの? あなた……あ、あたしを……見たの?」
「ああ」
「ウソ!」
「嘘じゃねぇよ。蛇頭で青銅の手なんてゴルゴン三姉妹しかいねぇだろうよ」
「ウソ! ウソ! ウソウソウソウソウソウソ!」拳を握った女は幾度となく地に叩き付けた。
「落ち着け!」シラノは女の肩を掴む。
女は振り払う。
「嘘吐かないで! みんなあたしの顔を見たら石になる! 魔眼を治して貰ってもあたしを見た奴は石に変わった! もうこんな姿嫌! 嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ!」
女は金切り声を上げると幾度となく地に頭を打ち付ける。蛇が乾いた悲鳴を上げる。シラノは女を羽交い締めにした。
「やめろ!」
「放っといて!」
「放っとけねぇだろ!」
「死にたいの!」
「死なせるかよ!」
「じゃああなたを石にしてからあたしも死ぬ!」
「やれるもんならやってみろ!」
怒りに火が点いた女は振り返った。
女の焚火色の瞳とシラノの青白く光る瞳が互いを見据える。女の髪の蛇が舌を出す。声を失った女は石のように固まった。
シラノは縛を解くと女の頭を撫でる。
「……な? 石になんかなんねぇだろ?」
女はシラノを見据えた。
「驚かして悪かったな。でもあんな場所で溺れてたら助けねぇ訳にいかねぇだろ?」
「ど……うして石にならないの?」
「知らねぇよ。ってか、お前起きた瞬間俺と眼が合ってたじゃねぇか」
「気にしないの?」
「あ?」シラノは問い返す。
「蛇の頭も?」
「ああ」
「青銅の手も?」
「ああ」
「鋭い爪も?」
「ああ」
「……本当に気にしない?」
シラノは腕を組む。
「……俺は手前ぇの顔の造形や姿なんか気にしねぇからな。バベルの塔みてぇな俺の鼻も気にしねぇよ。一つ気にするとすりゃおねーちゃんのおっぱいがボインかペチャかだけだな」
濡れて貼り付いた女の服にシラノは視線を下ろす。
「お前はペチャか」
女はシラノの頬を想い切り引っ叩いた。
左腕を背に乗せたアレイオーンと共にシラノは女の家に招かれた。道中、女はアレイオーンに視線を合わせないようフードを目深に被っていた。しかしアレイオーンは『俺はアメリアの盲目的信者だから気にならない。目を見ても石化しないだろう』と笑った。女は首を横に振る。
しかしアレイオーンは『見せてくれ』とせがんだ。女はおずおずとフードを上げると顔を見せた。『笑っている方がもっと良い』とアレイオーンは微笑んだ。
「……息子みたいな事言うのね」メドゥーサははにかんだ。
「息子?」シラノは問い返す。
「天馬ペガソスくらい知っているでしょ? 息子よ」
「確かペルセウスに殺された時に体内から出て来た息子の一人だったよな?」アレイオーンは問い返す。
「青毛の馬の方が筋肉ダルマよりも博識ね」メドゥーサは微笑んだ。
アレイオーンは微笑み返し、シラノは肩をすくめた。
「そうよ。あの子はポセイドンとの子よ。健気な子でね、ゼウスの命でこの島にも雷を運ぶ仕事をしているんだけど、仕事ついでに顔を出してくれるのよ。色々話を聞かせてくれるの。オリュンポスの事とか地上の事とか……。こんな顔のあたしにも優しいのはあの子だけ。あの子は石化しないわ」
「俺達もしねぇぞ」シラノは鼻を鳴らす。
「そうね」メドゥーサは溜め息を漏らす。
「……何故泉で溺れていた?」アレイオーンは問う。
「……それは落ち着いてから話すわ。さあ、着いた。入りなさい」
窓から明かりが漏れるログハウスにシラノとアメリアは招じられた。
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