四章 三節


 二日後、ランゲルハンスの手術はアイアイエ島のキルケーの屋敷で行われた。屋敷にはローレンスやシラノ、ニエを始め、ユウとリュウ、三大精霊、人魚……ランゲルハンスを案じる者達が集まった。島主の大手術を聞きつけ、魔術師の王にして贖罪の女神であり島の守護神たるヘカテも姿を現した。


 担送車に乗せられ手術を行う客室へと運ばれるランゲルハンスに黒いシャネルスーツを着こなした赤毛のヘカテ女神が近寄る。


「久し振りだな。悪魔」


「冥府のナンバースリーがこんな辺鄙な島までお出ましとは」ランゲルハンスは苦笑する。


「辺鄙で悪かったな。これでも私がお前に与えた空間だろ。大手術と聞いてわざわざ出向いたんだ」


「それはそれは」ランゲルハンスは微笑を浮かべるが、顔色は青ざめていた。


「手術中は私が島を守護してやる。ハデスとはそこまで話をつけて来た。しかし手術が終ったら可及的速やかに帰府すると誓わされた。後の事までは私は関われないからな」


「恩に着る。魔術師の王よ」


「相変わらず態度が不遜な臣下だな」ヘカテは苦笑した。


 ヘカテとランゲルハンスのやり取りを見守っていたニエがキルケーに肩を押されて、夫に近付いた。空の眼窩に巻いた包帯は涙で湿っている。


 彼女は夫の首筋に触れると手探りで頬を探し、キスを落とす。


「……行って来る」


 最愛の妻に優しい声音を掛けたランゲルハンスはライルに担送車を引かれて一同の許を後にした。


 術中、ニエは手術を行っている客室の前で佇んでいた。具合が優れない彼女が倒れるのではないかと案じたキルケーとユウ、人魚が客間から椅子を運び、四人で手術の成功を祈った。一階の広間では三大精霊のフォスフォロ、ケイプ、プワソンがヴルツェルの今後について額を寄せ話し合っていた。


 ローレンスは三大精霊とニエ達の間をお茶とお菓子を持って往復した。彼はランゲルハンスの為に心を砕く友人達の為に何かしたかった。アイスティーのお替わりを運ぼうと午後の日差しが降り注ぐサンルームを通りかかる。すると背を向けたシラノが床に座して粘土をこねていた。周囲に粘土の塊が幾つも転がる。シラノはライルに頼まれてヴルツェルの魂の器となる土人形を作っていた。


 ローレンスはグラスを一脚差し出す。


「お疲れ様。少し休憩しない?」


 手許に神経を払っていたシラノが顔を上げる。


「おう。サンキュ」


 シラノは粘土まみれの両手でグラスを二脚受取るとアイスティーを呷った。


 ローレンスは作業スペースを眺めて進捗を確認する。シラノの膝許では体格のいい男の土人形が下肢に布を掛けられ横たわっていた。背が高い。シラノと同じくらいの身長だった。ユリの蕾のように尖った長い耳がウェーブを描いた髪の間から覗く。肩に届く程の長髪の美男だ。程よく隆起した筋肉を始め、肌の質感や睫毛、薄い爪まで微細な部分にまで表現している。もはや素人の域ではない。瞼を開け、今にも起き上がりそうだ。鍛冶の神であるヘパイストスが造ったと言っても過言ではない。


「完成したんだ。おめでとう」ローレンスは微笑んだ。


「いや、まだだ。細かい作業が残ってる」シラノはトレーに乗った残り二脚のグラスに手を伸ばす。


「これ以上細かい作業するなんて……人間を作ったプロメテウスもヘパイストスも真っ青だよ。お替わり持って来ようか?」


「大丈夫だ。大分潤った」シラノはヘラを握ると作業を再開する。


 ローレンスは空のグラスをトレーに乗せると踵を返す。しかし引き止められた。


「顔、いつもよりも青白いぜ? 少し休んで行けよ」


 ローレンスは振り返る。シラノは顔を上げずに言葉を続ける。


「お前、良い奴だろ?」


「……そ、そんな事ないよ」ローレンスは眉を下げた。


「良い奴ってのはな、自分に気が回らなくて自滅しちまうんだよ。他人の為に尽くすよりも他人の肩に凭れた方が自他共に楽な事もある」


 それきりシラノは黙した。


 忙しなく動くシラノの僧帽筋を見つめ、ローレンスは唇を引き結んだ。


 ……ごめん。ここでも君に甘えてばかりだ。心苦しい一方でローレンスは器の大きなシラノに甘えたくなり、隣に座す。


「……これからどんな作業をするの?」


 シラノはフォスフォロから預かった似顔絵を差し出し説明した。ローレンスは耳を傾けた。低くも穏やかな声に張りつめていた心の糸は緩み、心地良くなった。


「しかしエロフィギュアじゃなくておっさんのチンコ作らされるとは思わなんだな。腹が立つから小さくしてやったわ」シラノは豪快に笑った。


「そ、そんな見えない所まで作ったんだ?」


「おうよ。魂を入れて生活させるんだろ? 悪魔のおっさんと反目してるたぁ言え折角呪縛から解かれるんだ。土人形でも喰う寝るファックくらいは満足にさせてやりたいってのが人情じゃねぇか」


 生前、イポリトに掛けられた言葉をローレンスは思い出した。


 ──この世に生まれ落ちたからには美味い酒を浴びるように飲む! 綺麗なおねーちゃんを抱く! 質の良い眠りをとる! これ程の娯楽があるかってんだ。


 ふふふふ、と笑うローレンスを尻目にシラノは作業を続ける。


「んだよ? 何かおかしいか?」


「ううん。君らしいなって思って」


 シラノの手が止まる。


「……芝居が下手だな」シラノはローレンスを見据えた。


「え、え? え? な、何の事?」眉を下げたローレンスはシラノから視線を背ける。


「『君らしいな』なんて浅い付き合いの奴が言う事か? お前、現世で俺の知り合いだったろ?」


 ローレンスは俯いた。言いたい。家族同然の相棒だと言いたかった。しかし口に出せばこの世界の理を破った事によりシラノは魂を滅する。かつて記憶を失っていた自分に対してランゲルハンスが同じ想いを抱いていたのだと思うと心苦しくなった。


 シラノは溜め息を吐く。


「……まあ、いいわ。喋りたくても喋れねぇんだろ? そこら辺は察するわ」


 洟をすすったローレンスは頷いた。


「何泣いてんだよ。気持ち悪ぃな」シラノはローレンスを肘で小突いた。


「……だって、だって……僕、何も話せないんだ。シラノの役に立てない」


「ンな事気にすんな。どうせ現世でもお前は他人の事を一番に考えてピーピー泣いてたんだろ? それがお前の正義なんだ。俺は俺の正義を貫くだけだ。だから気にすんな」


 ローレンスの青白く光る瞳から涙が溢れた。


「気持ち悪ぃな。おねーちゃんの泣き顔は心にグサッとくるけどよ、野郎の泣き顔見ると腹が立つぜ。ほれ。涙拭け。ユウに笑われんぞ?」


 シラノはフィールドジャケットの袖をローレンスになすり付ける。ローレンスはシラノの腕を振り切るとハンカチを出して涙を拭った。




 宵の明星が輝く頃、ランゲルハンスの手術が終った。


 二階の客室のベッドに彼は寝かせられた。ヘカテ女神とニエが青ざめた頬をした樫の木のような大男を見下ろす。眉を下げて夫の肩を撫でるニエを尻目にヘカテはランゲルハンスを起こす。そしてニエを見つめ、頷いた。


 明瞭ではない意識下でランゲルハンスは妻の頬に触れた。ニエは眼窩を覆った包帯の下から涙を流していた。


「手術は成功だとさ。おめでとうハンス。やっと独りの体だ。しかし魔力は空だ。人間と同じ体﹅﹅﹅﹅﹅﹅だ。魔力の回復に努めな」ヘカテは鼻を鳴らした。


「……予てより望んでいた物をひと時の間……手に入れられたのか」


「……話してると体力が勿体ないよ。早くやる事やりな。私も帰府してやらねばならない事が山積している」


 挨拶も早々にヘカテは黒い粒子と化して消えた。


 ロウソクの灯が揺れる。


 ランゲルハンスはニエを抱き寄せるとベッドに上がらせた。ロウソクの火に照らされた妻の頬は上気している。


「心配掛けてすまなかった」ランゲルハンスはニエの頬を撫でた。


 ──心配するのが家族ですから……。


 ランゲルハンスはニエの唇を割ると温もりを感じ、己の生を確かめる。徐に唇を離すとニエが肩口に顔を埋め、背に腕を回した。


「いつもの事だろう? はにかむ事はなかろう」


 ──だって魔力が空だと言う事は……屋敷に居る皆がこの事を察してますもの。


「しかし交わって君から魔力を吸わねば私は土に戻ってしまう」ランゲルハンスはニエの頬にキスをし、唇を首筋へと這わせた。彼女は羞恥と歓喜に唇を震わせる。


 彼は舌を離すと瞳を伏せる。


「それとも……嫌かね?」


 ニエは首を振る。


 ──いいえ! いいえ、アロイス。……でも胸を開いたばかりです。無理なさると倒れてしまいます。


「そうだ。今の私は夢魔ではなく人間と同じだ。しかしそれ故の利点もある」


 ランゲルハンスは妻の唇に深くキスを落とすと組み敷いた。

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