三章 十節


 アメリアが起床する前にイポリトは家を出た。


 街が起きるにはまだ早い。近所の河に向かうと護岸の前で右手の包帯を解きステュクスに入店した。


 懐中時計を見遣ったパンドラに『迎え酒ですか。レッド・アイでもお作りましょう』と挨拶をされたが、イポリトは軽くいなした。ボックス席の側の小さな扉を開くと冥府へ向かった。そしてアケロンへ向かい、渡し守のカロンに宝石について相談した。快く相談に乗って貰うと、そのお礼として花摘みと渡しを三往復手伝った。


 ステュクスを出たイポリトはカロンに紹介された百貨店のジュエリーショップへ向かった。時々彼女は仕事をさぼってそこへ買いに行くらしい。


 途中、主要駅でアメリアを見かけた。こんな所で見つかっては気まずい。鈍感な彼女は居る筈の無い女の影を問うて困らせるだろう。慌てて物陰に隠れたイポリトはアメリアをやり過ごす事にした。


 アメリアは筒状のドールキャリーバッグをたすき掛けにして背負い、中古の一眼レフカメラを肩から下げ改札に向かう。ローリーやユーリエを連れ外出する際には、僅かでも排気ガスを浴びせたくなかった。従って黒いレディに跨がらずに鉄道を利用していた。


 郊外で人形の撮影でもすんのか。


 背筋を伸ばし凛として歩く彼女を見送ったイポリトは物陰から出る。


 しかしアメリアの歩みが止まった。イポリトは慌てて身を隠した。そして呼吸を整えると彼女を見遣った。


 バックパックを背負った男の観光客二人にアメリアは話しかけられた。一人の男が地図を出し、話しかける。地獄耳を澄ませイポリトは会話を聞いた。彼が生を受けた国の言葉だった。どうやら見た通り、道を聞かれているようだ。


 後継者として任に就いて一年も経たない彼女は引越しを経験してない。従って異国の言葉に疎い。他言語の細かいニュアンスは分からないようだった。しかし簡単な単語を聞きハンドサインを見て意を汲み取り、彼女もハンドサインを交え自国語で説明した。


 イポリトは耳を澄ましたまま背を向け百貨店へ向かう。


 男の話が道案内を請うものから口説きに変わった。もう一人の男も口説きに加わる。


 振り返ったイポリトは眉をしかめる。


 男達が何を伝えたいのか彼女は理解しようという風体だった。


 不慣れな他言語に懸命に耳を傾けるアメリアを男達は囲んだ。彼女が言語を理解出来ないのを良い事に男達は回りくどい口説き文句を止め、卑猥な言葉を浴びせる。


 イポリトは舌打ちした。場合によっては手を差し伸べてやる他無い。


 男達はとうとう彼女に手を伸ばし、髪や肩に触れようとした。


 イポリトが物陰から飛び出した瞬間、アメリアは金的を蹴り上げた。そしてもう一人の男の胸に肘を打ち改札へ逃げ去った。


 ……俺の出る幕無くて良かった。


 溜め息を吐くと、イポリトは百貨店へ向かった。


 百貨店で買い物を終えると書店に寄って童話を一冊購入した。以前眠れない時に読んだローレンスの遺品である童話シリーズの一冊だ。


 書店を出るとまだ夕方だった。アメリアが帰宅するにはまだ時間があるだろう。一杯飲みつつどうやって口説くか考えようとステュクスへ向かった。


 店内には客はいなかった。


 笑顔のパンドラが『お帰りなさいませ』と迎える。


「おう。アプリコット・フィズ頼むわ」イポリトはカウンター席に座すと童話を広げた。


「まあ。イポリト様が可愛らしいカクテルをオーダーするなんて珍しい」パンドラは微笑んだ。


 イポリトは鼻を鳴らすと視線を本に戻した。


 珍しくパンドラは会話をしつつカクテルを作る。シェーカーのボディにアプリコット・ブランデー、レモンジュース、砂糖、氷を入れ、ストレーナーとトップを閉める。


「今日は休暇でいらっしゃいますよね?」


「……おう」イポリトは童話から視線を上げない。


 パンドラはシェーカーを振る。店内にステンレスと氷が触れ合う音が響いた。


 シェーカーをワークトップに下ろす。そして中身をコリンズグラスに注いだ。グラスに細かな結露が生まれる。


「では今日が『シラノではなくなる日』なのですね」パンドラはグラスに氷を加えて、ソーダ水を満たした。


「もう若くはねぇんだ。素面じゃ胸の内なんて明かせねぇよ」イポリトは鼻を鳴らした。


 パンドラは微笑み、グラスをステアする。


「年上の殿方が年若い淑女を巧くエスコートなさって下さいね」


「おいおい。淑女って柄かよあのじゃじゃ馬はよ」


 コルクのコースターを敷くとパンドラはコリンズグラスを差し出した。


「アプリコット・フィズのカクテル言葉は『振り向いて下さい』ですね。いつも自信に溢れた殿方が意中の女性に片膝を折るなんて。素敵です」


「……そりゃどーも」イポリトは本から視線を上げずにグラスを取る。


「ご関係が進みましたら、またご一緒にいらして下さいな。イポリト様とアメリア様にサイドカーを御馳走致します」


 顔を上げたイポリトは肩をすくめる。


「『いつも二人で』だっけか?」


「ええ。イポリト様とアメリア様はいつも一緒で御座いますから」パンドラは微笑んだ。


「……サンキュ」


 イポリトは鼻を鳴らすと、視線を童話に戻した。


 三十分程童話を眺めて口説き文句を考えていると、雪の装備をした二柱の男の死神が来店した。既に酔っぱらっているらしい。顔を赤黒く染めた二柱は酒とニンニク臭い息を吐きつつ話す。木のフローリングをスパイクが傷つける嫌な音もする。音は不規則だ。彼らはカウンター席に無遠慮に尻をつくと片肘を突き、気怠そうに頭を支える。


 集中力が切れたイポリトは携帯電話を取り出すと『今何処に居る?』とアメリアにメールを投げた。


 返信は直ぐに来た。どうやら既に帰宅しているようだ。


 酔っぱらい達は会話を続ける。先程よりも語気が荒い。特定の者の悪口を言っている。手を覆わずにくしゃみをしては洟をすする。


 こんな雰囲気の悪い場所にパンドラを残すのも気がかりだが、今日は残りの人生を賭けた大事な山がある。気分を害して延期したくない。イポリトはカウンターに紙幣を置くとポケットに手を入れて指輪を取り出す。


 一応、確認しておかないとな。タルタロスのヒュプノスの嬢ちゃんみてぇに失くしたくねぇしな。


 アメリアの瞳のようなアクアマリンがハロゲンライトの光を受ける。


 イポリトは微笑んだ。彼を眺めていたパンドラも微笑んだ。


 パンドラの視線の先を眺めた酔っぱらいの一柱は席を立ち上がる。そして迷う事なくイポリトに詰め寄る。


「……おい。今そんなモン出すんじゃねぇ。虫の居所が悪いんだ」グリーンのナイロンジャケットを着た死神が据わらない瞳でイポリトを睨む。席ではカウンターに肘を突いたブルーのジャケットを着た死神が濁声で呂律の回らない野次を飛ばす。


 ……振られたのか? 幸先悪い奴らに絡まれちまったなぁ。


「悪かったな。退散するぜ」


 イポリトが立ち上がり踵を返す。するとグリーンのジャケットの死神が彼の膝裏を打った。


「お? 浮かれて足許がお留守ってか?」グリーンのジャケットの死神は床に膝をついたイポリトを見下ろす。


 酒とニンニク臭い息が降り掛かりイポリトは顔を歪めそうになるが堪える。


 今日こそはアメリアに胸の内を明かしたい。事を荒げて嫌な気分で彼女に顔を合わせたくない。我慢だ。俺さえ我慢すればこの場は治まる。イポリトは体勢を立て直そうとする。


 何も言わずやり過ごそうとしたイポリトの態度が気に喰わなかったらしい。死神はイポリトを挑発する。


「お? 言い返しもやり返しもしねぇのか? 玉無し棹無しの坊やだな。そんなんでおめこに指輪なんて渡せるのかなぁ?」


 挑発を意に介さずイポリトは片膝をつき立ち上がろうとしたが再度蹴られてバランスを崩した。すると眉を下げたパンドラが思わずイポリトの名を呟いた。


 それをグリーンのジャケットの死神は耳聡く聞いていた。


「イポリトォ? 聞いた事ある名前だなぁ?」


 するとカウンターに肘をついていたもう一柱の男が『クソタナトスの飼い主だ』と揶揄した。


 イポリトは表情を歪める。パンドラは唇を噛む。


 酒臭い息を大きく吐くとグリーンのジャケットの死神は暫く思案する。


「……確かローレンスとか言ったな、そのタナトスの始祖。ハデスに楯突いた末に仲良くなったおめこを殺されるんだもんなぁ。自分が殺したも同然じゃねぇか。人殺しの中の人殺しだよ、あいつは」


 俯いたイポリトは唇を噛み締め、拳を震わせた。


 死神は言葉を続ける。


「そのクソも最近世代交代したんだっけか? どこの畑の子供か知らねぇがよ、殺人鬼の子供は殺人鬼だろ。おい、ちゃんと殺人鬼の首に縄付けておけよ? 玉無し坊や」


 死神はイポリトの頭を軽く蹴った。下劣な笑い声を上げる。イポリトは歯を食いしばった。


 自分が馬鹿にされるのは構わない。しかし自分が誇りに思う者を馬鹿にされるのは看過出来ない。立て膝をついていたイポリトは男達を見上げると睨んだ。


 彼の態度にキレた死神は間髪を置かず彼の前髪を掴む。そして雪靴のスパイクで腰を蹴る。パンドラが悲鳴を上げる。毟られたブロンドが宙を舞う。イポリトは床に伏した。人体の要である腰を打たれれば直ぐには動けない。


「スピロス!」グリーンのジャケットの死神は叫ぶ。


 ブルーのジャケットを着た死神は即座にイポリトの頭を蹴り上げた。イポリトの手から指輪が転がり落ちる。美しいブロンドは鉄製のスパイクによって血に染まる。イポリトは懸命に立ち上がろうとするが腰を蹴られ頭を蹴られ幾度となく地に伏す。それでも彼は地に転がった指輪を取ろうと手を伸ばした。


 それを目にしたスピロスは叫ぶ。


「おい、エリック。指輪だ!」


 イポリトは負けじと指輪を掴んだ。エリックはイポリトの手の甲をスパイクで幾度となく踏みつける。右手の甲は包帯から血を滲ませる。それでもイポリトは歯を食いしばり右手を握り締めて指輪を庇った。


 遠のきそうになる意識下で『おやめ下さい、おやめ下さい』とパンドラが懇願する声だけが聞こえる。しかし渾身の力でスピロスの下腹部を蹴り上げた。スピロスは床に尻をつき咳き込む。


「野郎!」


 エリックは頭に血を上らせる。


「よく分かった。反抗的なお前が飼育してりゃ奴の子供は人を殺すだろうな。猛獣も猛獣使いも芽は摘んでおかにゃならねぇな」


 エリックは立ち上がったスピロスに目配せする。すると二柱は右手の包帯を解く。


 それを目にしたパンドラはカウンターからハンドガンを取り出した。


 しかし遅かった。二柱はイポリトの血だらけの頭に触れて死の切っ掛けを与えた。嘲笑する二柱に向けてパンドラは発砲する。乾いた破裂音が鳴り響く。二柱は唖然とする。瞳に涙を浮かべたパンドラは睨む。悪魔とも鬼とも言えぬ、心を永久に凍り付かす形相をしていた。


 二柱の直ぐ側の床に穴が空いていた。銃口から煙が立ち昇る。


 沈黙が場を支配した。


 二柱は普段穏やかなパンドラの形相に恐れ戦き、足を震わせつつ逃げ去った。


 パンドラは術を使ってカウンターから出るとイポリトを抱きかかえる。


「イポリト様!」


 イポリトは意識を失っていた。しかし彼の右手は指輪を握り締めていた。


 パンドラはやり切れずに瞳から一筋、冷たい涙を流した。


 涙がイポリトの頬に落ちる。するとイポリトは徐に瞼を上げた。


「イポリト様! イポリト様!」パンドラはイポリトの左手を握る。


「……あんま騒がんでくれや。頭に……すんげぇ響くわ。ところでよ、あいつらは?」


 事の顛末をパンドラは説明した。残酷な結果も包み隠さず話した。彼女の瞳から止めどなく涙が零れ落ちた。


「……そうか。ありがとな。なんて事無ぇよ」


「なんて事無いなんて……そんな筈ある訳ないでしょう!」


「……死と引き換えに今日は珍しいモン見られたな。姐さんが感情を露わにするなんざ初めて見たわ」イポリトは力なく微笑んだ。


 パンドラはやり切れずに俯くと首を横に振った。


「……どうやら直には死なねぇみてぇだ。あの二柱、ヒュプノスなのか。……しかしヒュプノス二柱に触れられると猛烈に怠いし、クソ痛ぇしなんだか眠いわ」


 イポリトの意識は朦朧としていた。言葉を紡ぐが舌が巧く回らない。


 パンドラは自分よりも背が高く大柄なイポリトを背負うと、ボックス席に座らせる。


「……私に何か出来る事は御座いますか?」


 暫く宙を見つめて考えた後、イポリトは気怠げに口を開く。


「……悪魔を呼んでくれるか?」


 パンドラは瞳を閉じて頷いた。


 彼女は床に陣を描き、ランゲルハンスを呼び出した。急に呼び出されたランゲルハンスは茶を飲んでいたようで、指にロイヤルブルーの素焼きのティーカップを引っ掛けていた。


「……何か用かね?」愛妻とのひと時を邪魔されたランゲルハンスは不機嫌に問う。


 パンドラは膝を折ると、イポリトの身の上に起きた悲劇を説明した。


 ランゲルハンスは陣から出る。そしてカウンターにティーカップを置くと、ボックス席に身を委ねるイポリトに近寄る。


「君はローレンスとアメリアの監視役の男だったな。名は?」


「……イポリトだ」イポリトは閉じそうな瞼を懸命に開いて答えた。


 ランゲルハンスはイポリトの頭や胸に触れる。


「もってあと一時間もないだろう」


「……ンな事分かってるよ」イポリトは苦笑した。


「君は魂を引き換えに何を願う?」


 イポリトは浅い溜め息を吐く。


「……俺よ、今日アメリアに告白しようと決めていたんだ。だけどよ、こんな事になっちまった」


 ランゲルハンスは隣に座した。イポリトは言葉を続ける。


「……でもよ、この想いだけは惚れた女に伝えたいんだ。自らの口で、自らの姿で。あんたなら分かるだろ?」


 ランゲルハンスは瞳を閉じた。


「でもンな事して死んだらアメリアは後味悪ぃだろ? でも俺もこのままじゃ死に切れねぇ。だから……だからよぉ」


 イポリトは浅い溜め息を吐くと、宙を睨む。


「……俺が死んでも、アメリアが笑って暮らせるようにしてくれ」


「それが願いか?」


「……ああ」


 ランゲルハンスは立ち上がる。


「親友のローレンスの娘であるアメリアは私の子に等しい存在だ。そんな彼女に君のような男が手を出そうとは腑が煮えくり返る」


 イポリトは力なく鼻で笑う。パンドラはランゲルハンスを睨む。


「しかし君の心情を理解出来なくはない。死後、魂を細切れにして駄犬の餌にしても良いと言うなら、その望み叶えようではないか」


「……元よりその覚悟だ」イポリトは微笑んだ。


 契約を交わしたイポリトは右手の包帯を交換するとステュクスを後にした。


 彼は河沿いのベンチに凭れ掛かると、携帯電話を取り出してアメリアを呼び出した。


 電話に出たアメリアは驚いていた。普段、二柱は連絡事項をメールでやり取りしていた。同居しているが故に電話など一度もした事が無かった。


 電話を切るとイポリトは空を仰いだ。太陽が地平線に身を沈めたのだろう、上空は群青の闇に包まれ、上弦の月が顔を覗かす。建造物に囲まれた地平線は薄桃色に染まっていた。宵の明星が輝く。夜になる。


 ……ニュクスばあちゃん、ごめんな。死なんてこれ以上見たくねぇのに見せちまうな。……アメリアもごめんな。


 浅い溜め息を吐くと、最後の力を振り絞り背凭れから背を離した。そしていつものようにしっかりと尻を下ろした。


 それを合図と見たのかベンチの側に佇む街灯の明かりが灯った。イポリトは頭部の流血を隠す為に、パンドラから借りたつば広帽を被った。


 頭の流血に、つば広帽、夕闇に包まれて女に告白して死ぬたぁシラノと同じだな。結局、死に逝く俺はシラノだったのか。なりたくねぇとあがいた末がこれか。とんだ喜劇だぜ。クソじじいに先立たれて母ちゃんの許にも逝けず、心から惚れた女を残して死ぬなんて。最期に惚れた女とファックしたかったなぁ。それが無理でもキスしたかったぜ。ああ、なんて阿呆臭ぇ人生だ。


 鼻を鳴らして笑うと、河川敷の階段をアメリアが降りてきた。


 彼女はイポリトを見つけると手を振り、駆け寄る。


 ……さて、最期の舞台は大舞台だな。


 イポリトは微笑み、ポケットの中の指輪を握り締めた。

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