三章 四節


 アメリアはその日も独りで目覚めた。


 後頭部が痺れるように痛む。彼女は横たわっていたソファから身を起こす。そして予定を確認しようとコーヒーテーブルに置いていた携帯電話をとった。今日から冥府での研修だ。ステュクスに集合するのは何時だったっけ?


 ホームボタンを押し、画面を見るとイポリトからメールが来ていた。昨日メール送ってないのに……。胸を高鳴らせつつメーラーを起動させた。


『ようやく頭冷えたわ。帰る。悪かったな。今日から冥府で泊まりの研修だろ? とっとと終わらせて早く帰って来い。カレー作って待っててやる』


「……ありがとう、イポリト。頑張るよ」


 鼻歌を歌い、アメリアはバスルームへ向かった。仲直り出来たので頭痛が気にならなくなった。


 ……でももうイポリトに甘えちゃいけないよね。


 アメリアは溜め息を吐いた。


 確かにあたしはイポリトに色んな事を頼み過ぎた。コンラッドに乱暴されてからイポリトが頼りだった。彼は情緒不安定だったあたしに肩を貸してくれた。人形の続きを作ってくれたり病院の面倒を見てくれたり、ツーリングに付き合ってくれたり台本読みを一緒にしたり……。本当の兄貴だと思ってた。でも兄貴や家族である前に、イポリトはあたしの監視役だもん。甘え過ぎちゃいけない。


 バスルームで顔を洗うとタオルで拭き、鏡を見遣る。


 イポリトだって男性だもの。同居してる女が矢鱈と絡むと、娼婦さんを呼び辛くなるよね。


 彼女は鏡を見つめて考えた。


 最近娼婦さん連れ込んでファックしないもん。絶対にあたしに気を遣ってる。レイプされかけたから男女が睦み合う所を見ると胸を痛めるだろうと思って控えてるんだよ、きっと。


 化粧水を付けたアメリアは眼を伏せた。


 ……まだ嫌な気持ちが甦るけど……でももう大丈夫だよ、きっと。イポリトに遠慮させたくない。『ちゃんと入室不可の目印のキーホルダー引っ掛けておいて』って言えば今回からはきっと引っ掛けてくれる筈。


 寂しそうに微笑むと乳液を塗って、バスルームを出た。


 身支度を終え荷物をまとめると書き置きを残し、ステュクスへ向かった。




 その晩帰宅したイポリトはコーヒーテーブルに置かれた書き置きに眼を通した。ダイニングテーブルではユーリエがローレンスに似た人形を抱きしめていた。


 彼は溜め息を吐いて書き置きをゴミ箱へ放る。


 なにが『気を遣わせちゃってごめんね。目印のキーホルダーをちゃんと掛けてね。ステュクスで時間潰してるから娼婦さん呼んで大丈夫だよ』だ。あの阿呆、また変な風に考えやがって。更には『最後のお願い。イポリトが作ったローリーに息吹きかけて』だと? 片腹痛いわ。


 鼻を鳴らすと踵を返す。しかしユーリエの琥珀色の瞳を見て思いとどまった。コーヒーテーブルのユーリエに近付くと、彼女から人形を取り上げ軽く息を吹いた。


「おらよ。お前の恋人のローリーだとさ」イポリトはローリーをユーリエに差し出した。


 ユーリエはローリーを抱きしめた。瞳を開いたローリーは女の子の人形であるユーリエに抱きしめられている事に気付き、慌てふためいた。


 イポリトは鼻を鳴らし笑う。


「女慣れしてねぇ所がクソじじいそっくりだな」踵を返し、ステュクスへ向かった。


 ステュクスにはライルが居た。カウンター席に座していた。今日は連れのディーはいないらしい。


 彼を見かけたイポリトは踵を返す。


「つれないなぁ。もうねだらないから、飲もうよー」ライルは引き止めた。


 観念したイポリトは隣に座してバーボンを注文する。


「嬢ちゃん一緒じゃねぇのか?」


「今日はメディアの許で勉強させてるんだー」


「メディアってあの大魔女メディアか?」


「うん。ランゲルハンス島のキルケーと比肩する彼女は凄い魔女だよぉ。先日はディーがお世話になったみたいだねぇ。コーラ奢ってくれたみたいでありがとぉ。今日は一杯奢らせてよー」


「……コーラくらいで礼を返されてもな。気にすんな。ディーから礼は受取ってる」


「えぇ? 何々ー?」


「何でもねぇよ」


「でも何かで返させてよぉ。悪魔が借りを借りっ放しじゃ居心地が悪いよー」


「気が向いたらな」イポリトはミントの香りがするお絞りで顔を拭く。


「ところで今日はアメリアちゃんと一緒じゃないのー?」


「いつも一緒の訳ねぇだろ」イポリトは首筋を拭く。


 パンドラは微笑む。


「まあ。イポリト様とアメリア様はいつも一緒で御座いますよ」


 イポリトは唇を噛むとパンドラを見遣る。


「姐さんも言うようになったな」


「まあ。元からですわ」


 パンドラは掌で口許を覆い淑やかに笑う。


「アメリア様は本日から冥府での新人研修だそうです。ですから新人の神々とお集まりになって、そちらのドアから冥府へいらっしゃいました」パンドラはボックス席の側の小さなドアを見遣った。


「死神の研修ってどんなのー?」ライルは問うた。


 パンドラに差し出されたバーボンをイポリトは一口飲む。


「ここ三十年で出来た制度らしいな。百年生きる俺は詳しく知らねぇよ」


「ふうん。イポリト君は知らないんだぁ。何するんだろうねー?」ライルは暢気に微笑む。


「……死神ってよ、冥府より現世で働く時間が圧倒的に長いんだ。冥府を知らずに長命な人間面して死んで逝く奴もいる。命の重みを分からん奴が多いんだ。特にヒュプノスはな。だから自覚を持たそうとして魂の裁定や刑場を見せてるんだ」


「ふうん。これだけ死が身近に有りながら疎いだなんて、とんだ灯台下暗しだねー」


「愚かだろ? 死神も人間も変わりはないぜ。『自分は大丈夫』なんて想ってるから足許をすくわれんだ。次世代を残してようが居まいが、いつでも死と向き合っていた方が良い」


 ライルはカウンターのナッツに手を伸ばすと口へ放る。


「まるで自分の死を感じたような口ぶりだねぇ。死を感じた事は?」


「ある」


「いつ?」


「……親父を殺した時だ」


 ライルは横目でイポリトを見遣った。イポリトは顰め面で拳を握っていた。


 するとボックス席の側の小さな扉が開き、一柱のケールが顔を覗かせた。彼女の表情は険しく、切羽詰まっている。


「大変です! イポリト様、至急冥府へお越し下さい!」


 イポリトは背後にある、冥府へ続く扉へ振り返った。


「アメリア様がタルタロスに落ちてしまわれました!」

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