二章 二節


 その日からイポリトは死神である父のエンリケと相棒の死神のローレンスと暮らす事になった。


 翌朝、目覚めたイポリトは見覚えの無い家の中を歩き回った。エンリケは既に仕事に出ていた。母ちゃんを弔ってやろう。イポリトは鬼の居ぬ間に家を飛び出した。馬車が走ったであろう道を駆け戻る。休む事無く、日が沈みかけるまで体を泥と汗まみれにしつつ道を走り続けた。小麦畑と民家が点在する田舎道を走っていた。


 しかしローレンスに取っ捕まった。気配も音もしなかったのに突然背後から抱きかかえられた。宙に浮き上がったイポリトは短い悲鳴を上げる。ローレンスはイポリトの首根っこを白い左手でしっかり掴むと上昇した。


 イポリトは振り返る。そこには死んだ魚の眼をした昨日の痩躯の青年が黒い翼を広げ羽ばたいていた。


「離せよ、ヒョロ吉! 骸骨! 死神!」


 ローレンスは悪口に項垂れる。


「……ここで離したら痛い目に遭うよ? ほら、足許をご覧よ」


 イポリトは足許を見た。足を着けていた筈の地は遠くなり、民家は小さくなり、夕闇に包まれた小麦畑は足許に広がり風にそよぐ。


「……凄ぇ」イポリトは呟いた。


 ローレンスは溜め息を吐く。


「……君の気持ちは痛い程分かるよ。お母さんをちゃんと弔ってあげたいんだろ?」


 瞳を潤ませたイポリトは俯いたまま頷いた。


「……じゃあ大人しくしてて。このまま君が住んでいた街まで飛ぶから。君が走るよりも馬車よりも速く飛べるから。僕達でお母さんを弔ってあげよう」ローレンスは優しく囁いた。


 思いがけない言葉に驚き、イポリトは振り返る。ローレンスは虚ろな眼を伏せ、悲しそうに微笑んでいた。イポリトは瞳から涙を一筋流すと前を向いた。


 ローレンスは彼を左手できつく抱え直す。そして小麦畑を撫でる風よりも速く宵闇の空を翔抜けた。


 リンダの小屋の前にローレンスは着地する。急いたイポリトは彼の手を振り解き、小屋へひた走る。この辺りは物盗りが多い。遺体が身につけているボロ布さえも盗まれる。


 イポリトは胸を撫で下ろした。母の遺体は昨日と同じ姿で藁の上で眠っていた。


 良かった。何もされてない。リンダの遺体にイポリトは歩み寄ると長くて美しいブロンドを撫でた。


 すると小屋に入ったローレンスが声を掛けた。


「ここら辺で素敵な場所ないかな? 君のお母さんを弔えそうな場所」


 少し思案したイポリトは小屋の窓から覗く山を指差した。


 女性の遺体を担ぎ、少年を先導にローレンスは山を登った。痩躯の彼には重労働だった。少年のイポリトを抱えて飛ぶのは覚悟していたが成人女性を担いで山登りするとは想ってもみなかった。体中から汗が噴き出る。幾度となく歩みを止め、乱れた呼吸を整え、木の根に足を捕われそうになってもめげずに登った。幾度となくイポリトに『大丈夫か?』と問われたが、青白い顔を真っ赤に染め『大丈夫だよ』と答えた。


 やっとの思いで花畑が広がる平に着いた。天には星空が広がっていた。背の高い花を分け入り、花畑の中央まで歩むとローレンスは背からリンダを下ろした。


 花畑に尻を着きローレンスが上がった息を整えていると、イポリトは花を摘み小さなブーケを作った。


「……お母さんに?」ローレンスはイポリトを横目で見遣る。


 瞳に涙を溜めたイポリトは洟をすすって頷いた。


「そっか。素敵な場所も知っているし、ブーケも作ってイポリトは優しいね」


「……母ちゃんが昔話してた。死ぬ前に山の平の花畑へ俺と行きたいって」イポリトはぶっきらぼうに答えた。


「……おいで」ローレンスはイポリトを手招く。


 ブーケを握り締めたイポリトは素直に隣に座した。


「……今から話す事は絶対に秘密だよ。秘密を守るって約束出来るね?」ローレンスは問うた。


 イポリトはローレンスを見つめていたが頷いた。


 ローレンスは悲しそうに微笑むとイポリトの頭を撫でる。


「よく覚えておいて。……お母さんは天国でも地獄でも無い所へ逝ったんだ。昨日、君のお母さんが死んだ時に僕がそこへ魂を送ったんだ」


「……どんな所なんだ?」イポリトはローレンスを仰ぐ。


「そこはおとぎ話に出て来る妖精や神や悪魔が住む不思議な島なんだ。悩みがない天国とは違って泣いたり笑ったり、ここと同じような生活を送れる場所なんだ。偶にこっちに帰って来る人もいるけれど、人間のお母さんの心臓は止まっているから帰って来られない」


 イポリトは洟をすすった。


「……僕や君、君のお父さんは死神だ。死神は役目が終わった人に死を与え、体から離れた魂を切り取るんだ。死神として生まれた者は役目を全うしなければならない。……僕は特権を持った死神でね。許された魂だけを島へ送っているんだ。……君も成長して立派な死神になって、役目を終えたら島へ逝くかもしれない」


「……母ちゃんの許へ逝けないかもしれないって事か?」イポリトは問う。


 苦笑したローレンスは星空を見上げる。


「……言い直すよ。ズルしてでも僕が送る。それまでは僕が君の家族だ。僕はローレンス。僕みたいなダメ死神じゃなくて立派な死神になりなね」


 イポリトは手許のブーケを見つめて黙すが口を開く。


「……死神は嫌だ。……でも母ちゃんは『立派な死神になりなさい』って言った。それにローレンスが母ちゃんの許にいつか送ってくれるなら、俺、我慢して死神になる」イポリトは洟をすすった。


 ローレンスはイポリトの小さな背を撫でる。背を震わせ涙を押し殺していたイポリトは大きく洟をすすると立ち上がった。


「……もう、大丈夫だから」イポリトはローレンスを見据えた。


 ローレンスはイポリトの瞳の奥を見据えると、頷き、立ち上がった。


 彼らは花を摘むとリンダの美しい髪や服を飾った。胸の上に組まれた母の手にイポリトは小さなブーケを持たせた。彼らはリンダがランゲルハンス島で幸せに過ごせるように長い祈りを捧げた。


 花畑の中で祈る彼らを満天の星が優しく見守った。


 夜半にローレンスとイポリトは帰宅した。リビングではエンリケが背を丸め、頭を抱えて酒を呷っていた。


 遅くまで出歩いていたイポリトがエンリケに見つかり叱責されないよう、ローレンスは長い外套で彼を隠す。息を潜めて奥の部屋へ送ろうとした。


 しかしイポリトは外套から体を出すと酒を呷るエンリケに怒声を放つ。


「なんで……なんで母ちゃんを弔わなかったんだよ!」


 息子の怒りを意に介さずエンリケは空になったグラスに酒を注いだ。


「答えろよ!」


 涙を流したイポリトが怒声を上げるもエンリケは無視した。


「答えろよ! 人殺し!」


 エンリケの肩がピクリと動く。彼は勢い良く立ち上がると息子の頬を思い切り打った。大男の父に頬を打たれたイポリトは吹っ飛び、床に頭を打って気を失った。驚いたローレンスはイポリトを抱き起こした。


「……エンリケ、これじゃあんまりだよ」眉を下げ虚ろな瞳のローレンスは仁王立ちするエンリケを見上げる。


 エンリケは鼻を鳴らすと酒瓶を持ち自室へ去った。




 翌朝、二柱の男達は既に仕事に出ていた。目醒めたイポリトは母が眠る遠くの山まで祈りに行こうと考えた。しかし何時間走っても辿り着けない所なので諦めた。リビングのテーブルに置かれたパンを齧ると街へ出た。


 街は商店や背の高い建物が並び人の往来が多く、幌付きの自動車が道を走っていた。貴婦人が日傘をさして歩き、身なりの良い紳士がカフェテラスでパイプをくゆらす。昨日は気持ちが急いて洗練された風景など全く眼に入らなかった。一昨日までイポリトが暮らしていた田舎町とは格が違った。


 眼に映るもの全てに心奪われた。イポリトは商店のショーウィンドウに張り付いて美しい細工の菓子を眺めたり、映画館の広告を眺めたりした。映画館にとても興味を引かれたが金がないと入れないので諦めた。彼は狭い路地裏に小さな体をねじ込み探検した。


 路地裏に入ると三人の女が壁に寄りかかり話をしていた。レンガ造りの壁には粗末な木製のドアが取り付けられていた。店の裏口のようだ。女達の姿は首まで覆われたドレスを着て大通りを歩く貴婦人とは違う。鎖骨や豊かな胸が露わになった艶かしい服を纏い、紅色の唇にシガーを咥えていた。


 綺麗なねーちゃんだなぁ。母ちゃんみたいだ。イポリトは美しい女達に視線を奪われた。


 三人の女達はイポリトに気が付いた。


「なんだい、こんな所にチビ助がいるよ」


「可愛い顔してるね」


「坊や幾つだい?」


 女達は口々にイポリトに話しかけた。


「わかんね」イポリトは首を横に振った。


 女達は破顔する。


「声まで可愛いね」


「成長したら好い男になるよ。役者におなりよ」


「名前は?」


 女達の喧しさにたじろいだがイポリトは懸命に答える。


「……イポリト」


 腰を屈めた女達はイポリトと同じ高さの視線で話しかける。


「ここはチビ助が来ちゃいけない場所だよ」


「でもイポリトは特別。可愛いからね」


「ボンボン食べるかい?」


 頷いたイポリトは黒髪の艶やかな女からチョコレートボンボンを握らされた。


「ありがと」イポリトは微笑んだ。


 女達はイポリトの頭を掻き撫でる。


 壁に取り付けられた木製のドアから人の名を呼ぶ声が聞こえた。


「可愛いねぇ食べちまいたいくらいだ」


「モリー、あんた呼ばれてるよ」


「残念だ、行かなくちゃ。イポリト、またおいで」


 イポリトは頷くと女達に手を振り、路地裏を駆け去った。


 歩き疲れ、帰宅するとローレンスが既に帰宅していた。彼はリビングの木の椅子に座し、虚ろな瞳で何も無い壁を見つめている。イポリトは近寄ると包帯を巻かれた右手を取り、チョコレートボンボンを握らせた。心を別世界に彷徨わせていたローレンスは我に返り瞳を動かす。


「……お帰り、イポリト」


「手の……それ、喰え」イポリトは彼の右手を指差す。


 ローレンスは右手を見遣った。チョコレートボンボンが握らされていた。


「ヒョロヒョロだから太れ!」


 言い捨てたイポリトは自室に駆け込んだ。


 翌日も翌々日もローレンスとエンリケは日中、家を空けた。イポリトは路地裏の三人の女に会いに行った。女達は彼を取り囲み話しかけ撫で回し抱きついた。


「可愛いねぇ。本当に可愛いねぇ」


「モリー、あんたあの時生んでたならこれくらいの年だろ?」


「そうだね。きっとイポリトくらいの年だね」


 モリー、と呼ばれた黒髪の女は寂しそうに微笑みイポリトを見つめた。


 イポリトは大切に取っておいたパンと往来でくすねた金貨をモリーに差し出す。


「やる。ボンボン貰ったから」


 驚いたモリーはイポリトを見つめた。二人の女達は顔を見合わせた。


「……イポリト、パンはともかくこの金貨どうしたのさ?」モリーは眉を下げる。金貨なんて少年が持つ物ではない。


「おっさんのポケットに入ってた」


「何処のおっさんだい? あんたのおっさんかい?」


「知らないおっさん」


 溜め息を吐いたモリーは悲しそうに微笑む。


「イポリト、良くお聞きよ。人から物を盗んじゃダメだ。働いて物や金を貰いな」


「なんで?」


「物を盗んでメシを喰うよりも、汗水垂らして働いてメシを喰う方が美味いからさ。それに物を盗まれた人は困るだろう? もし、イポリトの大事な物が誰かに奪われたら悲しいだろ?」


 大事な物。イポリトは俯き、母の笑顔を想い出した。青白く光る瞳から涙が零れ落ちる。


「モリー、泣かしたね」


「モリーがイポリトを泣かした」


 二人の女達はクスクスと笑った。


 小さな溜め息を吐いたモリーはイポリトを抱きしめる。


「辛い事を想い出させたようだね。ごめんよ」


 イポリトは洟をすする。


「……分かった。もう盗まない」


 モリーは微笑み、イポリトの頭を撫でた。するとイポリトの腹の虫が鳴いた。二人は互いに額を合わせ笑い、二人の女達も笑った。


 貰ったパンを真っ二つに千切るとモリーは半分をイポリトに食べさせた。残りの半分を二人の女達と共に等分して食べ、金貨を土に埋めた。


「またおいで。もうお返しは要らないよ。これを持って行きな」モリーはまだ腹が膨れてないイポリトにお菓子を多めに持たせた。


 イポリトは笑顔で礼を述べると三人の女に手を振って路地裏を後にした。




 その晩、ベッドで眠るイポリトは異変に気付き目覚めた。右手がムズムズする。とても嫌な感じだ。彼は左手で右手を掻きむしった。しかし治まりがつかず苛立つ。


「あぁっ! 畜生! 眠れねぇ!」


 ベッドから起き上がると窓から差し込む月明かりに右手を翳した。


 イポリトは悲鳴を上げた。白い右手は赤黒く変色し小さな凹凸が生まれ皺が寄っていた。床に尻を着き爛れた右手を愕然と見つめていると、悲鳴を聞いたローレンスが駆けつける。


「どうしたの?」火が灯ったランプを片手にローレンスは床に屈む。


 声すら出せないイポリトは怯えた瞳でローレンスを見上げた。ローレンスは彼の泣き顔と爛れた右手を見ると全てを理解した。


「大丈夫だよ。恐かったね」虚ろな瞳のローレンスはイポリトの頭を軽く撫でるとポケットから予備の包帯を取り出す。そして彼の爛れた右手に直接触れぬよう注意を払い、巻いてやった。


「……俺、死ぬの?」イポリトはやっとの想いで問うた。


「大丈夫。こんな事じゃ死なないよ」


 包帯を巻くとローレンスはイポリトの小さな背をさすった。状況を把握出来ないイポリトは眉下げてローレンスを見つめた。


 ローレンスは小さな溜め息を吐く。


「……本来、僕からじゃなくてエンリケから話すべき事なんだ。でも今の状態じゃ君は落ち着かないと思うから僕から話すね」


 ローレンスはイポリトに死神の体の仕組みや種類、仕事、継承の仕組み、自分とイポリトは対象と監視役である事を説明した。


「君が来てから四日も経つのにエンリケはこんな大事な話をしてないなんて。リンダが亡くなって酒に逃げる気持ちも分かるけど……良くないよ」ローレンスは溜め息を吐いた。


 俯いたイポリトは両膝を見つめる。


「……最初は母ちゃんの死体の前で右手を差し出して何するのかって思ってた。母ちゃんを弔ってくれたり包帯巻いてくれたり……ローレンスって悪い奴じゃないんだな」


 虚ろな瞳を見開き、ローレンスはイポリトを見遣った。


「……あいつじゃなくて、ローレンスが父ちゃんなら良かったのに」イポリトは瞳に溜めていた涙を頬へ伝わらせた。


「滅多な事を言うものじゃないよ。エンリケは君のお父さんだよ」ローレンスはイポリトの肩を優しく叩いた。


「……あいつは父ちゃんじゃねぇ。病気の母ちゃんを放ったし、母ちゃんが死んでも放りやがった」


 ローレンスは胸を痛めた。死神は人間と子供を設けたのならば子供を連れ、早くに別離しなければならないという掟がある。しかしエンリケは妊娠を喜ぶリンダに秘密裏に子供を育てさせてやろうと、長い間身を潜めた。リンダは子供が好きだった。エンリケが共に暮らせば彼だけではなくリンダも罰せられる。それを恐れたエンリケは正体を告白し、謝ると姿を消した。そしてイポリトに死神の証である右手の爛れが現れる前に、床に臥せるリンダが死ぬ前にエンリケは彼女の許に現れた。そして死を見届けると息子を連れ去った。


 ローレンスは事実を話した。


 しかし涙をためた瞳を吊り上げイポリトは反論した。


「だからって母ちゃんを弔いもしないで俺を連れ出すなんてないだろ」


 ローレンスは俯き黙した。


「……死んだらどんな人でも弔ってやるべきなんだろ。王様でも盗人でも乞食でも。なのに母ちゃんだけ弔われないなんて、おかしいよ」イポリトは泣きじゃくった。


 ローレンスは小さなイポリトの肩を抱き、思う存分泣かせてやった。

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